宰相の部屋へ通される途中、廊下で人とすれ違った。
目立たない男だった。
背は高くない。太ってもいない。上着は上等だが、飾りがない。
アルノー・ヴィントは、俺を見た。
見て、軽く頷いた。
何も言わずに、行った。
俺は、そのまま歩いた。
歩きながら、数えた。
あの男は、俺より先に、この部屋を出た。
——先に来ていた。
グレゴール・ザイツは、五十がらみの男だった。
痩せている。手が細い。目の下が、黒い。
書庫で会った女と、同じ痩せ方をしている。
この国の、数字を知っている人間は、みんな同じ顔をするらしい。
「東門の市を、止めましたね」
彼は、椅子を勧めなかった。
俺は、立ったままでいた。
「止めました」
「なぜです」
「二割は、値段じゃない」
「値段でした」
彼は言った。
「二十年、あの値で回っていました」
「今、五割です」
彼は、卓の上の書付を見た。
「ヴィント商会は、五割で買っています。あなたが釘を打った紙のせいで」
「農民は、五割で売れます」
「そうです」
彼は、顔を上げた。
「——そのぶん、兵の給金が遅れます」
俺は、動かなかった。
「ヴィント商会は、二割で買った紙で、王国に物を納めていました」
彼は言った。
「安く仕入れられるから、安く納めた。……いえ、正確ではありません。納めても損をしなかった」
彼は、書付を卓に置いた。
「五割で買うなら、ヴィント商会の儲けは減ります。減れば、納入が減ります。減らなければ、値を上げます」
彼は、俺を見た。
「来月、兵の給金が、六千ターレン要ります」
「あなたの釘のせいで、六千が、揃いません」
「給金が払えなければ、兵は逃げます」
彼は、静かに言った。
「逃げれば、北の戦線が崩れます」
彼は、指を折らなかった。
折る必要がないのだ。
「南方諸市が、北上します」
彼は、俺を見た。
「——最初に焼かれるのは、あなたが種を貸した、四つの村です」
俺は、しばらく、何も言わなかった。
勘定を、頭の中でやり直した。
三度、やり直した。
三度やっても、この男の言う通りだった。
「……数え違えました」
俺は言った。
「はい」
「六千ターレンです」
「六千です」
俺は、頷いた。
俺は、この男の顔を見た。
この男は、勝ち誇っていなかった。
嬉しそうでもなかった。
ただ、疲れていた。
「閣下」
俺は言った。
「相殺を、誰にでも認めてください」
「ヴィント商会だけが、古い手形で納入代金を相殺できる。だから、あの紙は二割にしかならない。買える奴が一人しかいないからです」
俺は、指を一本立てた。
「誰にでも相殺を認めれば、あの紙に値がつきます」
二本目。
「値がつけば、商人はあの紙を受け取ります。王国は、すでに切った紙で、物が買えます」
三本目。
「新しく借りなくていい。利息が増えない。銀貨は一枚も要りません」
俺は、手を開いた。
「王国は、十四万ターレン借りている。だが、その十四万で、物が買えるんです」
ザイツは、動かなかった。
長いこと、動かなかった。
「正しい」
彼は、やっと言った。
「あなたの案は、正しい」
彼は、書付を指で押さえた。
「半年後には、効きます」
「王国は、半年もちません」
俺は、窓の外を見た。
王都の夜は、暗い。街灯の油が、戦に取られている。
全員が正しくて、全員が動けない。
書庫で、同じことを考えた。
「閣下」
「なんです」
「一つ、教えてください」
俺は、卓に手を置いた。
「この戦は、勝ったら、いくら入るんです」
ザイツは、俺を見た。
目の下の黒い、疲れた顔で、俺を見た。
「……南の港が、三つ手に入ります」
「関税は」
「年に、三千ターレン」
「戦費は、年に六万です」
俺は言った。
「二十年、勝ち続けて、やっと元が取れる」
俺は、指を折った。
「二十年、戦が続けば、戦費は百二十万ターレンです」
俺は、顔を上げた。
「——この戦は、勝っても負けです」
沈黙は、長かった。
俺は、待った。
こういうときに喋る奴は、負ける。
「知っています」
ザイツは、言った。
「では、なぜ」
「やめられないからです」
「なぜです」
彼は、書付を閉じた。
「やめると言った者が、殺されるからです」
「三年前、和議を進言した将軍がおりました」
彼は、静かに言った。
「翌月、陣中で死にました。落馬です」
彼は、俺を見なかった。
「王は、やめられません。やめれば、負けたことになる。負けた王は、王ではなくなります」
俺は、しばらく黙っていた。
黙って、それから、言った。
「割に合わん」
ザイツが、初めて、俺の目を見た。
「ハーゼル」
「はい」
「あなたは、危険だ」
彼は、椅子の背に体を預けた。
「王女殿下が、あなたに監査の職の話をされたそうですね」
「されました」
「わたしは、反対です」
「なぜです」
「あなたが、数えるからです」
「……それが、仕事でしょう」
「そうです」
彼は、頷いた。
「あなたは、数えます。正確に。誰よりも正確に」
彼は、卓の上で手を組んだ。
「——数え終わったあと、あなたが何をするか、わたしには数えられない」
俺は、この男を見た。
この男は、俺を憎んでいない。
俺の値段を、正確につけようとして、つけられなかった。
だから、怖がっている。
この男は、俺を、値のつかないものとして扱っている。
「メルクへ、お帰りなさい」
彼は言った。
「あなたを、捕らえる理由はありません。掟に触れていない。釘を打っただけです」
彼は、書付を引き寄せた。
「東門の市に、掟はない。掟のないところで、あなたは正しく振る舞った」
彼は、顔を上げなかった。
「そういう男を、王国は罰せません」
俺は、扉のところで、足を止めた。
「閣下」
「なんです」
「六千ターレンは、どうなりますか」
ザイツは、答えなかった。
答えずに、書付を開いた。
開いた書付を、しばらく見ていた。
俺が部屋を出るまで、一度も、こちらを見なかった。
廊下は、長かった。
絨毯が敷いてある。十一日歩いてきた靴で踏むのが、少しだけ、申し訳なかった。
俺は、歩きながら、数えていた。
六千ターレン。
俺の手元には、一グロートもない。
城門を出るとき、後ろから声がかかった。
振り返ると、宰相の使いが立っていた。
紙を一枚、寄越した。
俺は、それを開いた。
書いてあったのは、一行だ。
——次に王都へ来るときは、首輪をつけてきなさい。