髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第二十二話 勝っても負けです

 

 宰相の部屋へ通される途中、廊下で人とすれ違った。

 目立たない男だった。

 背は高くない。太ってもいない。上着は上等だが、飾りがない。

 アルノー・ヴィントは、俺を見た。

 見て、軽く頷いた。

 何も言わずに、行った。

 俺は、そのまま歩いた。

 歩きながら、数えた。

 あの男は、俺より先に、この部屋を出た。

 ——先に来ていた。

 グレゴール・ザイツは、五十がらみの男だった。

 痩せている。手が細い。目の下が、黒い。

 書庫で会った女と、同じ痩せ方をしている。

 この国の、数字を知っている人間は、みんな同じ顔をするらしい。

 

「東門の市を、止めましたね」

 

 彼は、椅子を勧めなかった。

 俺は、立ったままでいた。

 

「止めました」

「なぜです」

「二割は、値段じゃない」

「値段でした」

 

 彼は言った。

 

「二十年、あの値で回っていました」

 

「今、五割です」

 

 彼は、卓の上の書付を見た。

 

「ヴィント商会は、五割で買っています。あなたが釘を打った紙のせいで」

「農民は、五割で売れます」

「そうです」

 

 彼は、顔を上げた。

 

「——そのぶん、兵の給金が遅れます」

 

 俺は、動かなかった。

 

「ヴィント商会は、二割で買った紙で、王国に物を納めていました」

 

 彼は言った。

 

「安く仕入れられるから、安く納めた。……いえ、正確ではありません。納めても損をしなかった」

 

 彼は、書付を卓に置いた。

 

「五割で買うなら、ヴィント商会の儲けは減ります。減れば、納入が減ります。減らなければ、値を上げます」

 

 彼は、俺を見た。

 

「来月、兵の給金が、六千ターレン要ります」

 

「あなたの釘のせいで、六千が、揃いません」

 

「給金が払えなければ、兵は逃げます」

 

 彼は、静かに言った。

 

「逃げれば、北の戦線が崩れます」

 

 彼は、指を折らなかった。

 折る必要がないのだ。

 

「南方諸市が、北上します」

 

 彼は、俺を見た。

 

「——最初に焼かれるのは、あなたが種を貸した、四つの村です」

 

 俺は、しばらく、何も言わなかった。

 勘定を、頭の中でやり直した。

 三度、やり直した。

 三度やっても、この男の言う通りだった。

 

「……数え違えました」

 

 俺は言った。

 

「はい」

「六千ターレンです」

「六千です」

 

 俺は、頷いた。

 俺は、この男の顔を見た。

 この男は、勝ち誇っていなかった。

 嬉しそうでもなかった。

 ただ、疲れていた。

 

「閣下」

 

 俺は言った。

 

「相殺を、誰にでも認めてください」

「ヴィント商会だけが、古い手形で納入代金を相殺できる。だから、あの紙は二割にしかならない。買える奴が一人しかいないからです」

 

 俺は、指を一本立てた。

 

「誰にでも相殺を認めれば、あの紙に値がつきます」

 

 二本目。

 

「値がつけば、商人はあの紙を受け取ります。王国は、すでに切った紙で、物が買えます」

 

 三本目。

 

「新しく借りなくていい。利息が増えない。銀貨は一枚も要りません」

 

 俺は、手を開いた。

 

「王国は、十四万ターレン借りている。だが、その十四万で、物が買えるんです」

 

 ザイツは、動かなかった。

 長いこと、動かなかった。

 

「正しい」

 

 彼は、やっと言った。

 

「あなたの案は、正しい」

 

 彼は、書付を指で押さえた。

 

「半年後には、効きます」

 

「王国は、半年もちません」

 

 俺は、窓の外を見た。

 王都の夜は、暗い。街灯の油が、戦に取られている。

 全員が正しくて、全員が動けない。

 書庫で、同じことを考えた。

 

「閣下」

「なんです」

「一つ、教えてください」

 

 俺は、卓に手を置いた。

 

「この戦は、勝ったら、いくら入るんです」

 

 ザイツは、俺を見た。

 目の下の黒い、疲れた顔で、俺を見た。

 

「……南の港が、三つ手に入ります」

「関税は」

「年に、三千ターレン」

「戦費は、年に六万です」

 

 俺は言った。

 

「二十年、勝ち続けて、やっと元が取れる」

 

 俺は、指を折った。

 

「二十年、戦が続けば、戦費は百二十万ターレンです」

 

 俺は、顔を上げた。

 

「——この戦は、勝っても負けです」

 

 沈黙は、長かった。

 俺は、待った。

 

 こういうときに喋る奴は、負ける。

 

「知っています」

 

 ザイツは、言った。

 

「では、なぜ」

「やめられないからです」

「なぜです」

 彼は、書付を閉じた。

 

「やめると言った者が、殺されるからです」

 

「三年前、和議を進言した将軍がおりました」

 

 彼は、静かに言った。

 

「翌月、陣中で死にました。落馬です」

 

 彼は、俺を見なかった。

 

「王は、やめられません。やめれば、負けたことになる。負けた王は、王ではなくなります」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 黙って、それから、言った。

 

「割に合わん」

 

 ザイツが、初めて、俺の目を見た。

 

「ハーゼル」

「はい」

「あなたは、危険だ」

 

 彼は、椅子の背に体を預けた。

 

「王女殿下が、あなたに監査の職の話をされたそうですね」

「されました」

「わたしは、反対です」

「なぜです」

「あなたが、数えるからです」

「……それが、仕事でしょう」

「そうです」

 

 彼は、頷いた。

 

「あなたは、数えます。正確に。誰よりも正確に」

 

 彼は、卓の上で手を組んだ。

 

「——数え終わったあと、あなたが何をするか、わたしには数えられない」

 

 俺は、この男を見た。

 この男は、俺を憎んでいない。

 俺の値段を、正確につけようとして、つけられなかった。

 だから、怖がっている。

 

 この男は、俺を、値のつかないものとして扱っている。

 

「メルクへ、お帰りなさい」

 

 彼は言った。

 

「あなたを、捕らえる理由はありません。掟に触れていない。釘を打っただけです」

 

 彼は、書付を引き寄せた。

 

「東門の市に、掟はない。掟のないところで、あなたは正しく振る舞った」

 

 彼は、顔を上げなかった。

 

「そういう男を、王国は罰せません」

 

 俺は、扉のところで、足を止めた。

 

「閣下」

「なんです」

「六千ターレンは、どうなりますか」

 

 ザイツは、答えなかった。

 答えずに、書付を開いた。

 開いた書付を、しばらく見ていた。

 俺が部屋を出るまで、一度も、こちらを見なかった。

 廊下は、長かった。

 絨毯が敷いてある。十一日歩いてきた靴で踏むのが、少しだけ、申し訳なかった。

 俺は、歩きながら、数えていた。

 六千ターレン。

 俺の手元には、一グロートもない。

 城門を出るとき、後ろから声がかかった。

 振り返ると、宰相の使いが立っていた。

 紙を一枚、寄越した。

 俺は、それを開いた。

 書いてあったのは、一行だ。

 

 ——次に王都へ来るときは、首輪をつけてきなさい。

 

 

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