メルクに帰って、俺が最初にやったのは、勘定だった。
二千ターレン、要る。
南で秘薬を十樽買うには、二千ターレンだ。王国は、納めるまで一グロートも払わない。俺が、そう決めた。
手元にあるのは、ゼロ。
持っているのは、王国の紙が千五百ターレン分。売れば七百五十になるが、売らないと決めた。
——二千ターレンというものは、この世に存在しない。
俺は、それを、宿の机で三度書いた。
二千ターレンは、存在しない。
存在するのは、秘薬の樽と、船と、南の商人だ。
銀貨は、それを買うための紙にすぎない。
なら。
南の商人が、銀貨より欲しがるもので買えばいい。
南方諸市は、港を閉じている。
自分で閉じた。戦だからだ。
港を閉じると、何が入らないか。
鉄が入らない。だから鉄が高い。ドールスの船が、それで儲けた。
麻が入らない。麦が入らない。
そして。
塩が、入らない。
南の海は、暖かい。
暖かい海の魚は、腐る。
腐らせないために、塩がいる。
南方諸市は、塩を作らない。作れない。あの海の水では、いい塩にならない。
塩は、北から来る。
北の岩塩だ。
——アルヴェント王国の、北から。
俺は、書記室に行った。
ヴィルムが、椅子を出した。
「塩の綴りを」
「あるぞ」
老人は、奥から持ってきた。埃をかぶっている。
塩は、地味な商いだ。誰も読まない。
俺の父が、扱っていた。
二十年ぶん、読んだ。
封鎖のあった年——二十年前だ。
南方諸市での塩の値は、平常の四倍になった。
四倍。
俺は、その数字を、三度数えた。
塩、五百ターレン分。
南では、二千ターレンになる。
秘薬十樽が、二千ターレンだ。
——塩と、秘薬を、換えればいい。
メルクで塩を持っている商人は、三人いる。
一人は、ヴィント商会だ。
もう一人は、ヴィント商会の下請けだ。
最後の一人が。
ボーデの店は、港から二本入った通りにある。
俺は、扉を押した。
この男は、卓に向かっていた。
顔を上げて、俺を見て、そして、椅子から立ち上がった。
殴られると思ったのだろう。前もそうだった。
「ハーゼル」
「ボーデさん」
「……何しに来た」
「塩を、買いに」
この男は、動かなかった。
「俺を、通らないと言ったな」
「言いました」
「術師に直に買わせると言った。言った通りにした。俺の秘薬の商いは、終わった」
彼は、卓を掴んでいた。
「今日は、通るのか」
「通ります」
「……なぜだ」
「塩は、あんたしか持ってないからです」
ボーデは、俺を睨んだ。
「ヴィントが持ってる」
「ヴィントは、俺に売りません」
「下請けも持ってる」
「下請けも、売りません」
俺は、椅子に座った。
「あんたしか、いない」
「都合のいい話だな」
「都合のいい話です」
俺は、頷いた。
「あんたが断るなら、それで終わりです。俺は、南へ行けない。十樽は納められない。王国は、傷病兵を二千人抱えたままだ」
俺は、椅子に座り直した。
「それだけの話です」
ボーデは、しばらく黙っていた。
「……なぜ、俺を潰さなかった」
彼は、聞いた。
「あのとき、あんたは俺を潰せた。訴えなくても、市中に触れを出せば、俺は終わってた。契約を破る商人だとな」
彼は、卓に手をついた。
「なぜだ。いつか、こうなると思ったからか」
俺は、この男の顔を見た。
太った、五十がらみの男の顔だ。
汗をかいている。
「違います」
俺は言った。
「潰す理由が、なかっただけです」
「あんたは、正しい判断をした。逆らえば潰される相手と、破っても勝てる相手。どっちを裏切るか、考えるまでもない」
俺は、椅子から立った。
「俺が、あんたを潰したら、それは腹いせです。腹いせに、金は払えません」
俺は、卓に手を置いた。
「結果として、今日、助かってます。それだけです」
ボーデは、椅子に座った。
座って、しばらく、俺を見ていた。
「……いくら要る」
「五百ターレン分」
「金は」
「ありません」
この男は、笑った。
この日、初めて笑った。
「ないのか」
「一グロートも」
「じゃあ、どうやって買う」
「南から秘薬が戻ったら、王国が二千ターレン払います」
俺は言った。
「そこから、あんたに千ターレン払います」
ボーデの手が、止まった。
「五百の塩で、千受け取る。二倍です」
「……沈んだら」
「一銭も要りません」
俺は、笑った。
「俺が損をするだけです」
ボーデは、動かなかった。
この男は、算術を知らない。だが、損得は分かる。
断る理由は、一つしかない。
「ヴィントに、殺されるぞ」
彼は、言った。
「俺じゃない。あんたが、だ」
「殺されます」
俺は、頷いた。
「それでもか」
「それでもです」
ボーデは、長いこと、卓を見ていた。
太った指で、卓の木目を、なぞっていた。
「ハーゼル」
「はい」
「……お前の親父は、塩を扱ってた」
彼は、顔を上げなかった。
「知ってます」
「わしは、お前の親父から塩を買ってた。二十年、な」
俺は、動かなかった。
「あの男は、量りを、必ず客に見せた」
ボーデは言った。
「一俵、量るたびに、客に秤を見せた。面倒だから、みんなやめろと言った。あの男は、やめんかった」
彼は、指で木目をなぞり続けた。
「潰れたときな。わしは、何もせんかった」
彼は、立ち上がった。
奥へ行って、しばらくして、鍵を持って戻ってきた。
「倉は、三番だ」
彼は、鍵を卓に置いた。
「五百ターレン分と言わず、持っていけ。八百ターレン分ある」
「ボーデさん」
「なんだ」
「八百ターレン分だと、南で三千二百になります」
俺は、鍵を取った。
「秘薬は、二千ターレン分しか要りません。残りは、千二百です」
「……千二百」
「約束は、塩の値の二倍です。八百の二倍で、千六百」
俺は、指を折った。
「千二百は、銀貨で持って帰ります。足りない四百は、王国が払ったら、そこから」
「沈んだら」
「一銭も入りません」
俺は、鍵を懐に入れた。
「そのときは、あんたの塩が八百、海の底です。俺は、四年、港で担ぎます」
ボーデは、椅子から立ち上がった。
立ち上がって、何か言おうとして、言わなかった。
俺は、扉を押した。
押して、振り返った。
「秤は、見せます」
俺は言った。
「一俵、量るたびに」