塩を南に売る。
南方諸市は、この国と戦をしている。
——それは、掟に触れるのか。
俺は、書記室で三日、綴りを読んだ。
メルクハーフェンの掟。二百年ぶん。
禁じられているものは、書いてある。
鉄。硝石。鉛。弓の材。
どれも、人を殺す道具になる。
塩は、書いていない。
書いていない。
だが、書いていないというのは、許されているという意味ではない。
誰も、やらなかっただけかもしれない。
やった者が、いなかっただけかもしれない。
——掟は、持ってる奴のものだ。
俺は、それを、市庁舎の石段で覚えた。
俺は、参事会に、届けを出した。
届けを出す商人は、この街にいない。
黙って出せばいい。誰も見ていない。港の書記に酒を一杯おごれば、荷の中身など、どうにでもなる。
俺は、届けを出した。
三日後、召喚状が来た。
二度目だ。
ボリスが、紙を逆さに眺めた。
「捕まえるって書いてあるのか」
「呼んでる、と書いてある」
「違うのか」
「同じかもしれん」
◆
大広間に、椅子が並んでいた。
参事会が十二人。傍聴の席に、大商会の当主。
三度目だ。
俺は、真ん中に立った。
立たされている、というべきかもしれない。
参事会長のヘルダーが、届けを持ち上げた。
「塩を、八百ターレン分。南方諸市へ売る、と」
「はい」
「南方諸市は、王国の敵だ」
「敵です」
「敵に、物を売るのか」
「売ります」
広間が、ざわついた。
誰かが、売国と言った。
俺は、その男を見た。
穀物商のケラーだ。倉が燃えると言われた男である。
「一つ、お伺いします」
俺は言った。
「塩を敵に売ってはならない、という掟は、この街にありますか」
ヘルダーが、書付を見た。
それから、隣を見た。
隣が、その隣を見た。
誰も、答えなかった。
「三日、綴りを読みました」
俺は言った。
「禁じられているのは、鉄、硝石、鉛、弓の材。二百年、変わっていません」
俺は、指を折った。
「どれも、人を殺す道具になるからです」
俺は、顔を上げた。
「塩は、魚を腐らせないための物です」
「書いてないなら、売ります」
俺は言った。
「書いてあるなら、売りません」
俺は、参事会の席を見回した。
「どちらでも構いません。書いてあるかどうかだけ、教えてください」
沈黙は、長かった。
ケラーが、立ち上がった。
「書いてなくても、売国は売国だ!」
「では、書いてください」
俺は、頷いた。
「今日、書けばいい。塩を敵に売ってはならない、と。俺は、従います」
俺は、この男を見た。
「ただし、今日からです」
広間が、静かになった。
「四日前の掟で、半年前の紙を罰することはできない」
俺は言った。
「前に、この広間で申し上げました。参事会は、それを認めた」
俺は、届けを指した。
「俺は、届けを出しました。まだ、売っていません」
俺は、一度、言葉を切った。
「今日、掟を書けば、俺は売りません。書かなければ、売ります」
「——書いてない掟は、誰のものでもない」
参事会は、決を採らなかった。
採れなかった、というのが正しい。
塩を禁じれば、この街の塩商が困る。塩は、南へ出す量が一番多い。
禁じなければ、俺が売る。
どちらも、この十二人には、決められなかった。
アルノー・ヴィントが、立ち上がった。
この男が、広間で立つのを、俺は初めて見た。
「参事会長」
「……ヴィント殿」
「掟は、書くべきです」
俺は、この男を見た。
「塩は、敵に売るべきではない」
彼は、静かに言った。
「わたしは、そう考えます。……ですが」
彼は、俺のほうを向いた。
「掟を書くのは、参事会ではありません」
「戦をしているのは、王国です。敵を決めているのは、王です」
彼は言った。
「何を売ってよく、何を売ってはならないか。それを決めるのは、王の掟です」
彼は、参事会を見た。
「この街には、その掟がありません。三十年、誰も置いていないからです」
俺は、動かなかった。
三十年。
俺は、その言葉を、書庫で聞いた。
——監査の職は、三十年、空席です。
ヴィントは、椅子に座った。
座って、こう言った。
「ハーゼルさんは、売ればよろしい」
彼は、俺を見なかった。
「掟がないのですから」
俺は、広間を出た。
出ながら、笑った。
笑うようなことではないだろうが、笑う。
——あの男は、俺に売らせたいのだ。
売らせて、それから、掟を作る。
王の掟を。
塩を敵に売った商人は、売国だ、と。
そのとき、俺は首を落とされる。
掟のないところで正しく振る舞った男を、王国は罰しない。宰相は、そう言った。
だが、掟ができたあとなら、罰せる。
俺は、港へ歩いた。
メーヴェが、桟橋にいる。ドールスの船だ。帆は繕ってある。
ヨストが、水夫を集めていた。十四人。アルバで座礁した連中だ。
塩は、もう積んである。八百ターレン分。
ボリスが、麻袋を担いでいた。
俺は、桟橋の上で、足を止めた。
男が一人、立っていた。
背は高くない。髪は薄い。指が長い。
エーリク・フォーゲル。
「ハーゼルさん」
「フォーゲルさん」
「南へ、行かれるとか」
「行きます」
「掟が、できますよ」
「できるでしょうね」
俺は、笑った。
「あんたが、書くんでしょう」
フォーゲルは、答えなかった。
答えずに、桟橋の先を見ていた。
海は、灰色だった。
「ハーゼルさん」
「はい」
「主が、あなたの船を待っています」
俺は、この男を見た。
「南で?」
「——南で」
俺は、しばらく、この男の顔を見ていた。
三十年、笑うことで飯を食ってきた顔だ。
今日は、笑っていなかった。
「フォーゲルさん」
「はい」
「あんた、いま、俺に何をした」
フォーゲルは、帽子を取った。
取って、深く、頭を下げた。
番頭が、荷役上がりの商人に、そこまでする理由はない。
彼は、頭を上げずに、言った。
「読めば、書いてあります」
俺は、船に乗った。
メーヴェは、その日の夕方に出た。
風は、南から来ていた。
向かい風だ。