メーヴェの船倉は、塩の匂いがした。
八百ターレン分の塩が、麻袋に詰めて積んである。
俺は、その上に座って、紙を読んでいた。
フォーゲルの言葉が、頭から離れなかった。
——読めば、書いてあります。
俺は、持っている紙を、全部出した。
王国とヴィント商会の契約書。イレーネが寄越した写しだ。四つ目の条項は、三度読んだ。
ヴェルナーと交わした、秘薬十樽の契約書。俺が書いた。五つの条項。四つ目に、罠はない。
参事会に出した、塩の届けの控え。
そして。
四つの村の、徴発手形。
額面千五百ターレン。軍務庁の判が押してある。
俺は、これを三度読んだ。
——アルヴェント王国は、本徴発により受領せし麦の代価として、金千五百ターレンを支払う。
——支払期日は、来春とする。
——アルヴェント王国、軍務庁。
三度読んだ。
表を、三度読んだ。
俺は、紙を裏返した。
書いてあった。
小さい字で、二行。
——本手形は、期日までに軍務庁へ呈示なきときは、失効す。
——呈示は、徴発を受けたる村の長、または、村の長が書面もて立てたる代理人に限る。
船が、揺れた。
俺は、紙を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。
俺は、この紙を、村長から買った。
六百ターレン払った。
銀貨を数えて、渡した。
村長は、銀貨を数えて、俺の顔を見た。
——あんた、損をするんじゃないのかね。
俺は、代理人の書面を、もらっていない。
もらう必要があるとは、思わなかった。
紙を買った。金を払った。紙は俺のものだ。
この街では、そうだ。
——王国では、違った。
俺は、笑わなかった。
こういうときは笑うことにしている。笑わないと、俺は俺でなくなる。
笑えなかった。
俺は、十二の年に、父の紙を読んだ。
七つの条項があって、四つ目に罠があった。
俺は、読めた。
父に言った。
——これは、読んだほうがいい、と。
父は、笑って、頭を撫でた。
二十二の俺は。
——裏を、読まなかった。
俺は、船倉の梁に、背中を預けた。
塩の匂いがする。
父の商いの匂いだ。
期日は、来春だ。
サルヴァまで四十日。買い付けに十日。帰りに四十日。
九十日。
メルクに着くのが、春の初めだ。
そこから王都まで、十一日。
——間に合うか、間に合わないか。
俺には、数えられない。風が、数えられないからだ。
それに、間に合っても、俺は呈示できない。
村長の書面が、要る。
村は、北にある。俺は、南へ向かっている。
ボリスが、船倉に降りてきた。
俺の顔を見て、足を止めた。
「どうした」
「読んでなかった」
「何をだ」
「裏を」
こいつは、俺の隣に座った。
塩の袋が、沈んだ。
「どうなるんだ」
「村の紙が、紙屑になる」
「……あんたが、六百払ったやつか」
「そうだ」
「ゲルトも、トーマも、あんたも、出した金か」
「そうだ」
俺は、天井を見た。
船倉の天井は、低い。
「村に、八百四十ターレン返すと言った」
俺は言った。
「王都の市の壁に、貼った。三十人が聞いた」
俺は、膝を抱えた。
「返せない」
ボリスは、何も言わなかった。
言わずに、しばらく座っていた。
「なあ」
「なんだ」
「あんた、なんで裏を読まなかったんだ」
俺は、答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えが、一つしかなかったからだ。
「読む必要がないと、思ったからだ」
俺は言った。
「額面が書いてある。期日が書いてある。判が押してある。それで、全部だと思った」
俺は、紙を握った。
「俺の親父も、そう思った」
俺は、紙を膝に広げた。
「数え違いは、割れない」
俺は言った。
「一度目は、封鎖だ。二十年前の綴りを、読まなかった」
指を、一本折る。
「二度目は、今回だけだ、と言った。マイヤーが止めた」
二本目。
「三度目は、宰相だ。俺が釘を打つと、兵の給金が遅れる。数えなかった」
三本目。
俺は、手を開いた。
「四度目が、これだ」
「ボリス」
「なんだ」
「俺は、四回、数え違えた」
俺は言った。
「三回は、払った。今回は、払えない」
ボリスは、立ち上がった。
塩の袋から、埃が落ちた。
「じゃあ、払える金を作りゃいいだろ」
「……」
「南で、塩を売るんだろ」
こいつは、梯子に手をかけた。
「三千二百になるって、あんたが言ったんだ」
俺は、顔を上げた。
「秘薬に二千。ボーデさんに千二百」
俺は言った。
「一グロートも、残らない」
「じゃあ、もっと売れよ」
ボリスは、梯子を登った。
「あんた、値をつけるのが仕事だろ」
俺は、船倉に一人になった。
塩の匂いがする。
俺は、紙を懐に戻した。
戻して、それから、別の紙を出した。
白紙だ。
俺は、二通、書いた。
一通目は、メルクのマイヤー宛てだ。
——四つの村の村長に、書面を書かせてください。徴発手形の代理人として、カイ・ハーゼルを立てる、と。
——書面ができたら、王都の軍務庁、主計官ブラントへ届けてください。
——費用は、あなたが立て替えてください。俺は、まだ払えません。
俺は、そこで手を止めた。
この男は、俺を憎んでいる。
俺が潰れれば、儲かる。
だから、俺の帳面を見張らせている。
その男に、金を立て替えろと書いている。
俺は、続きを書いた。
——断ってくださって、構いません。
——あなたには、断る理由があります。
二通目は、王都の書庫宛てだ。
名前は、書かなかった。
書いたのは、一行だけだ。
——裏を、読んでいませんでした。