髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第三十八話 読んでから来ました

 

 その男が来たのは、氷室に鍵をかけた三日後だった。

 宿の扉を叩く音がした。

 夜だ。鐘が二つ鳴った後だ。

 俺は、扉を開けた。

 背が高い。二十歳を少し過ぎている。

 身なりは——良くなかった。

 上着が破れている。靴が、片方だけ新しい。

 顔に、傷がある。まだ新しい。

 

「ハーゼルさん」

 

 俺は、この男の顔を、しばらく見ていた。

 

「ヨナスさん」

 

 北の村の、天幕の下にいた男だ。

 銀貨を四箱、積んで見せた男だ。

 俺が四つ目を読んでやったとき、木箱の蓋を閉めながら、手が震えていた。

 俺は、扉を大きく開けた。

 

「入ってください」

「入りません」

 

 彼は、首を振った。

 

「見られたら、あなたが困ります」

「困りません」

 

 俺は言った。

 

「俺は、この街でいちばん見られてる男です」

 

 俺は、彼の腕を掴んだ。

「入れ」

 

              ◆

 

 ヨナスは、机の前に座った。

 俺は、水を出した。

 この男は、水を飲まなかった。

 飲まずに、懐から、束を出した。

 紙の束だ。

 厚い。

 俺の腕の太さくらいある。

 

「読みました」

 

 彼は、言った。

 俺は、動かなかった。

 

「あの日、あなたは、読め、と仰った」

 

 彼は言った。

 

「次は、読んでから来い、と」

 

 彼は、束に手を置いた。

 

「読んでから来る奴は、強い、と」

 

「読みました」

 

 彼は、繰り返した。

 

「一年、読みました」

 

 俺は、椅子を引いた。

 座って、束を見た。

 手は、出さなかった。

 

「何を、読んだんです」

「ヴィント商会の、貸付の綴りです」

 

 彼は言った。

 

「法務の控えです。わたしは、法務にいました」

 

 彼は、束を撫でた。

 

「契約書の、写しです」

 

 俺は、水を一口飲んだ。

 

「何通あります」

「二百七十通」

 

 俺は、椀を置いた。

 

「メルクハーフェンで、ヴィント商会が金を貸している相手です」

 

 ヨナスは言った。

 

「商会が二十一。船主が四十四。職人が九十。小さな商いが、百十五」

 

 彼は、束を、俺のほうへ押した。

 

「二百七十通、全部に、四つ目があります」

 

 俺は、束に手を伸ばした。

 伸ばして、止めた。

 

「ヨナスさん」

「はい」

「これを持って、商会を出たんですか」

「出ました」

「殺されますよ」

 

 彼は、俺の目を見た。

 顔の傷は、まだ新しい。

 

「読んでから、来ました」

 

 俺は、しばらく、この男の顔を見ていた。

 見て、それから、笑った。

 

「その傷は」

「番頭に、殴られました」

「フォーゲルさんが?」

「いいえ」

 

 彼は、首を振った。

 

「フォーゲルさまは、わたしを、逃がしました」

 

 俺は、動かなかった。

 

「一年前です」

 

 ヨナスは言った。

 

「わたしが、法務の綴りを読み始めたのを、あの方は知っていました」

 

 彼は、束に手を置いた。

 

「見ていて、何も仰らなかった」

 

「三日前です」

 

 彼は言った。

 

「わたしが写しを取っているのを、別の番頭が見つけました」

 

 彼は、顔の傷に、指を触れた。

 

「殴られました。蔵に閉じ込められました」

 

「その夜、鍵が開いていました」

 

「机の上に、これがありました」

 

 ヨナスは、懐から、もう一枚出した。

 小さな紙だ。

 字は、細い。

 字を書く人間の、細い字だ。

 

 ——読めば、書いてあります。

 俺は、その紙を、長いこと見ていた。

 エーリク・フォーゲル。

 三十年、笑うことで飯を食ってきた男だ。

 二百七十通の、四つ目を書いた男だ。

 俺の父の紙に、署名した男だ。

 この男は、俺に、二度、頭を下げた。

 一度は、桟橋で。

 もう一度は、蔵の鍵を開けて。

 

「ハーゼルさん」

 

 ヨナスが、言った。

 

「これを、どう使いますか」

 

 俺は、束に手を置いた。

 二百七十通。

 この街の、二百七十軒だ。

 

「使いません」

 

 ヨナスの顔が、上がった。

 

「……使わない?」

「使いません」

 

 俺は、束を、机の中央に置いた。

 

「これを、街に貼ったら、何が起きます」

「ヴィント商会が、潰れます」

「潰れません」

 

 俺は、首を振った。

「潰れるのは、借りてる方の二百七十軒です」

 

 ヨナスは、動かなかった。

 

「四つ目が公になれば、二百七十軒は、自分が罠にかかっていると知ります」

 

 俺は言った。

 

「知ったら、逃げようとする。返そうとする。返せません」

 

 俺は、指を折った。

 

「そして、みんな、同じ日に気づきます」

 

 二本目。

 

「同じ日に、二百七十軒が、金貸しに走る。金貸しは、貸せない」

 

 三本目。

 

「二百七十軒が、同じ日に潰れます」

 

 俺は、手を開いた。

 

「取り付けです」

 

「俺は、それを一度、見ました」

 

 俺は言った。

 

「俺の紙で、起きた。九十枚の銀貨を卓に並べて、止めました」

 

 俺は、束を叩いた。

 

「これは、九十枚じゃ止まりません」

 

 ヨナスは、机の上で、拳を握っていた。

 

「では」

 

 彼は、言った。

 

「では、どうするんです」

 

 彼の声が、少し、震えていた。

 

「わたしは、これを持って、殴られました」

 

 俺は、この男を見た。

 二十歳を少し過ぎている。

 銀貨を四箱、積んで見せた男だ。

 あのとき、この男は、読まずに来た。

 

「ヨナスさん」

 

 俺は言った。

 

「一つ、聞かせてください」

 

「二百七十通の四つ目のうち、発動したのは、何通です」

 

 ヨナスは、動かなかった。

 彼は、束をめくった。

 めくって、めくって、止めた。

 

「……十一通」

 

 俺は、椅子に背を預けた。

 

「二十年で、十一通」

 

 俺は言った。

 

「二百七十通のうち、十一通です」

 

 俺は、天井を見た。

 

「二百五十九通は、罠が、動いていない」

 

 俺は、笑った。

 今度は、笑うようなことだった。

 

「ヨナスさん」

「はい」

「あの男は、取り立てないんです」

 

 

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