その男が来たのは、氷室に鍵をかけた三日後だった。
宿の扉を叩く音がした。
夜だ。鐘が二つ鳴った後だ。
俺は、扉を開けた。
背が高い。二十歳を少し過ぎている。
身なりは——良くなかった。
上着が破れている。靴が、片方だけ新しい。
顔に、傷がある。まだ新しい。
「ハーゼルさん」
俺は、この男の顔を、しばらく見ていた。
「ヨナスさん」
北の村の、天幕の下にいた男だ。
銀貨を四箱、積んで見せた男だ。
俺が四つ目を読んでやったとき、木箱の蓋を閉めながら、手が震えていた。
俺は、扉を大きく開けた。
「入ってください」
「入りません」
彼は、首を振った。
「見られたら、あなたが困ります」
「困りません」
俺は言った。
「俺は、この街でいちばん見られてる男です」
俺は、彼の腕を掴んだ。
「入れ」
◆
ヨナスは、机の前に座った。
俺は、水を出した。
この男は、水を飲まなかった。
飲まずに、懐から、束を出した。
紙の束だ。
厚い。
俺の腕の太さくらいある。
「読みました」
彼は、言った。
俺は、動かなかった。
「あの日、あなたは、読め、と仰った」
彼は言った。
「次は、読んでから来い、と」
彼は、束に手を置いた。
「読んでから来る奴は、強い、と」
「読みました」
彼は、繰り返した。
「一年、読みました」
俺は、椅子を引いた。
座って、束を見た。
手は、出さなかった。
「何を、読んだんです」
「ヴィント商会の、貸付の綴りです」
彼は言った。
「法務の控えです。わたしは、法務にいました」
彼は、束を撫でた。
「契約書の、写しです」
俺は、水を一口飲んだ。
「何通あります」
「二百七十通」
俺は、椀を置いた。
「メルクハーフェンで、ヴィント商会が金を貸している相手です」
ヨナスは言った。
「商会が二十一。船主が四十四。職人が九十。小さな商いが、百十五」
彼は、束を、俺のほうへ押した。
「二百七十通、全部に、四つ目があります」
俺は、束に手を伸ばした。
伸ばして、止めた。
「ヨナスさん」
「はい」
「これを持って、商会を出たんですか」
「出ました」
「殺されますよ」
彼は、俺の目を見た。
顔の傷は、まだ新しい。
「読んでから、来ました」
俺は、しばらく、この男の顔を見ていた。
見て、それから、笑った。
「その傷は」
「番頭に、殴られました」
「フォーゲルさんが?」
「いいえ」
彼は、首を振った。
「フォーゲルさまは、わたしを、逃がしました」
俺は、動かなかった。
「一年前です」
ヨナスは言った。
「わたしが、法務の綴りを読み始めたのを、あの方は知っていました」
彼は、束に手を置いた。
「見ていて、何も仰らなかった」
「三日前です」
彼は言った。
「わたしが写しを取っているのを、別の番頭が見つけました」
彼は、顔の傷に、指を触れた。
「殴られました。蔵に閉じ込められました」
「その夜、鍵が開いていました」
「机の上に、これがありました」
ヨナスは、懐から、もう一枚出した。
小さな紙だ。
字は、細い。
字を書く人間の、細い字だ。
——読めば、書いてあります。
俺は、その紙を、長いこと見ていた。
エーリク・フォーゲル。
三十年、笑うことで飯を食ってきた男だ。
二百七十通の、四つ目を書いた男だ。
俺の父の紙に、署名した男だ。
この男は、俺に、二度、頭を下げた。
一度は、桟橋で。
もう一度は、蔵の鍵を開けて。
「ハーゼルさん」
ヨナスが、言った。
「これを、どう使いますか」
俺は、束に手を置いた。
二百七十通。
この街の、二百七十軒だ。
「使いません」
ヨナスの顔が、上がった。
「……使わない?」
「使いません」
俺は、束を、机の中央に置いた。
「これを、街に貼ったら、何が起きます」
「ヴィント商会が、潰れます」
「潰れません」
俺は、首を振った。
「潰れるのは、借りてる方の二百七十軒です」
ヨナスは、動かなかった。
「四つ目が公になれば、二百七十軒は、自分が罠にかかっていると知ります」
俺は言った。
「知ったら、逃げようとする。返そうとする。返せません」
俺は、指を折った。
「そして、みんな、同じ日に気づきます」
二本目。
「同じ日に、二百七十軒が、金貸しに走る。金貸しは、貸せない」
三本目。
「二百七十軒が、同じ日に潰れます」
俺は、手を開いた。
「取り付けです」
「俺は、それを一度、見ました」
俺は言った。
「俺の紙で、起きた。九十枚の銀貨を卓に並べて、止めました」
俺は、束を叩いた。
「これは、九十枚じゃ止まりません」
ヨナスは、机の上で、拳を握っていた。
「では」
彼は、言った。
「では、どうするんです」
彼の声が、少し、震えていた。
「わたしは、これを持って、殴られました」
俺は、この男を見た。
二十歳を少し過ぎている。
銀貨を四箱、積んで見せた男だ。
あのとき、この男は、読まずに来た。
「ヨナスさん」
俺は言った。
「一つ、聞かせてください」
「二百七十通の四つ目のうち、発動したのは、何通です」
ヨナスは、動かなかった。
彼は、束をめくった。
めくって、めくって、止めた。
「……十一通」
俺は、椅子に背を預けた。
「二十年で、十一通」
俺は言った。
「二百七十通のうち、十一通です」
俺は、天井を見た。
「二百五十九通は、罠が、動いていない」
俺は、笑った。
今度は、笑うようなことだった。
「ヨナスさん」
「はい」
「あの男は、取り立てないんです」