ヴィント商会の奥は、暗かった。
応接間ではない。
廊下を三つ曲がって、階段を一つ上がる。
窓が、小さい。
書類を守る建物の形だ。
部屋は、狭かった。
卓が一つ。椅子が二つ。棚に、綴り。
絨毯はない。織物もない。炭も焚いていない。
この街でいちばん金を持っている男の部屋は、金貸しのマイヤーの店より、狭かった。
アルノー・ヴィントは、卓に向かっていた。
六十を越えている。目立たない。
「三年、お待ちしました」
彼は、そう言った。
俺は、椅子に座った。
勧められる前に。
行儀が悪い。
行儀のいい商人は、この部屋に入れてもらえない。
「割に合わなかったので」
「今日は」
「合いました」
俺は、上着の内から、紙を出した。
十二年前の日付。
父の判。
卓の上に、置いた。
ヴィントは、それを見た。
見て、動かなかった。
「ハーゼル商会」
彼は、言った。
「穀物と塩」
「三代目です」
「四代目が、いた」
彼は、俺を見なかった。
「箒を持っていた、と聞きました」
「六年、持ちました」
「六年」
「市庁舎の書記室です」
俺は、椅子に背を預けた。
「二百年ぶんの綴りが、あそこにあります」
ヴィントの指が、卓の上で、一度、止まった。
「……六年、読まれたのですか」
「読みました」
「誰も読まない綴りを」
「誰も数えない綴りを」
この男は、しばらく、動かなかった。
「わたしは」
彼は、言った。
「三十年前に、あの部屋に行きました」
俺は、動かなかった。
「二百年ぶんの綴りを、二年、読みました」
彼は言った。
「船の綴り。麦の綴り。塩の綴り。豊作の綴り」
彼は、指を組んだ。
「豊作が三年続いた回数を、数えました」
「四度です」
「二百年で、四度」
彼は言った。
「五十に一つ」
俺は、この男の顔を見た。
目立たない男だ。
六十を越えている。
上着は上等だが、飾りがない。
——この男は、俺だ。
「四つ目を、書きました」
ヴィントは言った。
「豊作の年は返済を待つ。待った分は元本に足される」
彼は、俺の父の紙を、指で押さえた。
「五十に一つの目に、罠を仕掛けました」
「五十に一つなら、五十年に一度しか動きません」
彼は言った。
「動かなければ、誰も気づかない」
彼は、俺を見た。
「気づかれない罠は、罠ではない」
「鎖です」
俺は、椅子の上で、動かなかった。
「二百七十軒に、貸しました」
彼は言った。
「二十年で、十一軒、動きました」
彼は、指を折らなかった。
「二百五十九軒は、動いていません」
「取り立てていません」
「取り立てれば、二百七十軒が潰れます」
彼は言った。
「潰れた街から、わたしは何も取れない」
彼は、卓の上で手を組み直した。
「取り立てないほうが、儲かる」
「知ってます」
俺は言った。
「一年半、数えました」
ヴィントは、俺を見た。
初めて、まっすぐ見た。
「ヨナスですね」
「ヨナスです」
「よい男です」
彼は、頷いた。
「フォーゲルが、逃がしました」
「知っていて、放っておかれた」
「放っておきました」
「なぜです」
ヴィントは、答えなかった。
答えずに、俺の父の紙を、指で押さえたままでいた。
「ハーゼルさん」
「はい」
「あなたは、二百七十通に、値をつけましたね」
俺は、動かなかった。
「いくらでした」
俺は、この男を見た。
六十を越えた、目立たない男だ。
三十年前、市庁舎の書記室で、二百年ぶんの綴りを読んだ男だ。
「一万八千ターレン」
ヴィントは、頷いた。
「わたしの見立ては、一万七千四百でした」
俺は、笑った。
「六百、違います」
「六百です」
「どこが違うんです」
「三の目です」
彼は、言った。
「賭場の卓です」
彼は、綴りを開かなかった。
開く必要が、なかったのだ。
「あの卓の元本は、五十ターレン。二十年、待っています」
彼は、俺を見た。
「四百八十二ターレン」
「わたしは、それを、ゼロで数えました」
俺は、動かなかった。
「ゲルトは、二十年、卓を出しています」
彼は言った。
「あの卓で、荷役が銭を落とす。落とした銭が、酒場に回る。酒場から、パン屋に回る」
彼は、卓の縁を、指で撫でた。
「あの卓が消えたら、この街の銭の回りが、少し止まります」
「だから、取りません」
彼は言った。
「取らないと決めたものを、帳簿に載せません」
彼は、俺を見た。
「四百八十二は、ゼロです」
俺は、しばらく、この男の顔を見ていた。
「ヴィントさん」
「はい」
「俺は、それを、四百八十二で数えました」
「知っています」
「なぜです」
「あなたは、取り立てるからです」
部屋が、静かになった。
窓が小さいので、暗い。
「取り立てません」
俺は言った。
「取り立てます」
彼は、言った。
「いつか、必ず」
彼は、俺を見た。
「あなたが、そう言ったそうですね。ヨナスに」
俺は、動かなかった。
——罠は、便利です。書いておけば、いつか助かる。助かった日に、俺は、書いてよかったと思う。
——思った日から、俺は、あの男になります。
俺は、それを、宿の机で言った。
ヨナスに、言った。
「あの男は、あなたのところにいます」
ヴィントは言った。
「あなたの紙を、清書しています」
彼は、指を組んだ。
「わたしの番頭は、三十年、わたしの紙を清書しました」
俺は、この男を見た。
「ハーゼルさん」
「はい」
「——わたしは、あなたです」
彼は、俺の父の紙から、指を離した。
「三十年前、わたしは、この街でいちばん速い新参でした」
彼は言った。
「綴りを数えました。誰も数えないものに、値をつけました」
彼は、椅子に背を預けた。
「そして、四つ目を書きました」
「五十に一つの目に、罠を書いた」
彼は言った。
「便利だったからです」
彼は、俺を見た。
「あなたは、まだ、書いていない」
彼は言った。
「二百通、ヨナスが読みました。四つ目は、一つもなかった」
彼は、卓に手を置いた。
「——何年、書かずにいられますか」