名前は、売り物ではない。
俺は、それを、三年前に言った。
——親父の名前を、あんたらから買い戻すわけにはいかない。
——あれは、あんたらが取ったものだ。取ったものを売り返してもらうのは、商売じゃない。
——物乞いだ。
俺は、それを、ヴィント商会の玄関で言った。
言って、笑って、帰った。
三年、俺はハーゼルと名乗ってきた。
カイ・ハーゼル。
それは、俺の名だ。
だが、ハーゼル商会は、この街に存在しない。
十二年前に消えた。
参事会の商会の綴りから、名前が消されている。
消したのは、掟だ。
商会が潰れると、名が消える。
二百年、そうしてきた。
◆
俺は、市庁舎の書記室に行った。
ヴィルムが、椅子を出した。
「小僧」
「ヴィルムさん」
「商会の綴りだな」
「なぜ、分かるんです」
老人は、綴りを持ってきた。
埃を、払わなかった。
もう、埃は、ついていなかった。
「毎日、拭いとる」
彼は、言った。
「三年、拭いとる」
俺は、その綴りを開いた。
ハーゼル商会。
三代。穀物と塩。
十二年前、抹消。
抹消の下に、線が引いてある。
誰が引いたのか、書いていない。
「ヴィルムさん」
「なんだ」
「新しい商会を、起こせますか」
「起こせる」
彼は、言った。
「参事会に届けを出せばいい。名は、なんでもいい」
「ハーゼル商会は」
「使えん」
彼は、綴りを叩いた。
「抹消された名だ。二百年、掟でそうなっとる」
彼は、俺を見なかった。
「潰れた名は、二度と使えん」
「なぜです」
「潰れた商会の名を、別の男が使ったら、客が騙される」
彼は、言った。
「借金も、名についてくる。名を継げば、借金も継ぐ」
俺は、その言葉を、頭の中に置いた。
「借金は、いくら残ってます」
ヴィルムは、俺を見た。
「小僧」
「はい」
「お前の親父の商会は、全部返しとる」
俺は、動かなかった。
「倉も、船も、家も、全部取られた」
彼は、言った。
「取られて、売られて、それで足りた」
彼は、綴りをめくった。
「借金は、ゼロだ。十二年前に、ゼロになっとる」
俺は、綴りを見た。
ハーゼル商会。
負債、皆済。
その下に、判が押してある。
ヴィント商会。
「なら、なぜ使えないんです」
俺は、言った。
「借金がないなら、客は騙されない」
俺は、綴りを叩いた。
「なぜ、使えないんです」
ヴィルムは、答えなかった。
「掟に、書いてあるからだ」
彼は、やっと言った。
「二百年、そうだ」
「掟に、書いてある」
俺は、繰り返した。
「理由は、書いてありますか」
老人は、綴りを閉じた。
閉じて、しばらく、動かなかった。
「……書いとらん」
俺は、参事会に届けを出した。
——ハーゼル商会の再興を、願い出る。
——負債は、十二年前に皆済されている。
——皆済の判は、ヴィント商会。
——騙される客は、一人もいない。
大広間に、椅子が並んだ。
参事会が十二人。傍聴に、大商会の当主。
五度目だ。
俺は、真ん中に立った。
立たされている、のではない。
立っている。
参事会長のヘルダーが、届けを持ち上げた。
「抹消された商会の名は、使えん」
彼は、言った。
「掟だ」
「理由を、お聞かせください」
俺は、言った。
「客が騙されるからだ」
「借金は、ゼロです」
「……そうだが」
「騙される客が、一人でもいますか」
ヘルダーは、書付を見た。
それから、隣を見た。
隣が、その隣を見た。
誰も、答えなかった。
「では、なぜ、その掟があるんです」
俺は、言った。
「二百年、誰も聞かなかったからです」
俺は、広間を見回した。
「潰れた商会の名は、消える」
俺は言った。
「消えれば、誰も思い出さない。思い出さなければ、なぜ潰れたかも、思い出さない」
俺は、指を一本立てた。
「二百年で、この街から、何軒の商会が消えましたか」
誰も、答えなかった。
「千四百三十二軒です」
俺は言った。
「書記室の綴りに、書いてあります。誰でも読めます」
俺は、指を折った。
「千四百三十二軒が消えて、名前も消えました」
「なぜ潰れたかは、どこにも書いてありません」
俺は、広間の中央で、上着の内から紙を出した。
十二年前の日付。
父の判。
条項は七つ。
四つ目に、罠がある。
俺は、それを、卓の上に置いた。
「ハーゼル商会は、これで潰れました」
俺は言った。
「四つ目です。豊作の年は返済を待つ。待った分は元本に足される」
俺は、紙を指で押さえた。
「三年、豊作が続きました。二百年で、四度しかないことです」
「父は、読みました」
俺は言った。
「読んで、判を押した。数えなかっただけです」
「嘘は、一つもありません」
俺は、広間を見回した。
「書いた男は、隠していない。全部、紙にあります」
俺は、顔を上げた。
「読まなかったのは、こっちです」
広間は、静かだった。
「名前を、残してください」
俺は言った。
「ハーゼル商会は、四つ目で潰れました。それを、この街が覚えていられるように」
俺は、紙を、卓の上に残した。
「消えた名は、教訓になりません」
傍聴の席で、アルノー・ヴィントが、立ち上がった。
「発言を、お許しいただきたい」
ヘルダーが、頷いた。
この男は、卓のほうへ歩いた。
俺の隣に立った。
そして、父の紙を、指で押さえた。
「これを書いたのは、わたしです」
広間が、ざわついた。
「四つ目を、書きました」
彼は言った。
「三十年前、市庁舎の書記室で、二百年ぶんの綴りを読みました」
彼は、俺を見なかった。
「豊作が三年続く見込みは、五十に一つです」
「五十に一つの目に、罠を書きました」
「便利だったからです」
彼は、顔を上げた。
「二百七十軒に、同じ紙で貸しました」
彼は言った。
「この広間の、七人にも」
参事会の席が、崩れた。
「ハーゼル商会の再興に、賛成します」
彼は、言った。
「そして、掟を一つ、変えていただきたい」
彼は、俺の父の紙を、卓の中央に置いた。
「——潰れた商会の名は、綴りに残す」
◆
「なぜ潰れたかを、書き添えて」