髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第五十八話 遅い

 

 春が来ようとしていた。

 国庫に十一万二千二百ターレンが戻っている。

 ヴァルター公の紙はまだ俺の手元にある。

 王に出せばこの国は年に二万一千浮く。

 不足は年に一万五千だ。

 ——黒字になる。

 俺はその計算を四十日頭の中に持っていた。

 持っていて出さなかった。

 出せば王の弟が落ちる。

 落ちれば、王が動く。

 動けば、何が起きるかを俺は数えられない。

 俺は数えられないものを信用しない。

 だから先に一つだけ済ませることにした。

 俺は書庫へ行った。

 イレーネ・ヴァル・アルヴェントは卓に向かっていた。

 綴りを読んでいた。

 俺はその向かいに座った。

 勧められる前に。

 行儀が悪い。

 彼女は何も言わなかった。

 

「殿下」

「ハーゼル」

「支度金の額を伺いました」

 

 俺は言った。

 

「一万五千ターレン」

 

 彼女は綴りから顔を上げなかった。

 

「フリースラント公は一万と申し出た」

 

 俺は言った。

 

「あなたが一万五千と仰った」

「値を上げられた」

 

 彼女は頁をめくった。

 

「一万五千二百五十でした」

 彼女は言った。

 

「あなたの数えた不足は」

「二百五十足りません」

 

 彼女は頁をめくった。

 

「端数は切りました」

 

 俺は動かなかった。

 

 この女は自分に値をつけるときに端数を切った。

 

「殿下」

 

 俺は言った。

 

「支度金は要りません」

 

 彼女の手が止まった。

 俺は紙を卓に置いた。

 

「造幣局から五万三千二百」

 

 俺は言った。

 

「軍務庁から三万八千」

 

「徴税請負から二万一千」

 

「締めて十一万二千二百ターレン」

 

 俺は二枚目を出した。

 

「そして、これです」

 

 ——ヴァルター公。兵糧の麦。差二万一千ターレン。

 彼女はその紙を見た。

 灰色の目が動いた。

 

「これを出せば」

 

 俺は言った。

 

「この国は年に二万一千浮きます」

 

「不足は一万五千です」

              ◆

「——黒字になります」

 

 書庫は静かだった。

 二百年ぶんの綴りが床から積んである。

 

「殿下」

「嫁がなくて済みます」

 

 俺はそう言った。

 言ってから自分の声が少し高かったことに気づいた。

 俺は値をつけるとき声が高くならない男だ。

 三年半一度もそんなことはなかった。

 イレーネは紙を見ていた。

 長いこと見ていた。

 それからこう言った。

 

「遅い」

 

 俺は動かなかった。

 

「盟約は結ばれました」

 

 彼女は言った。

 

「三月前です」

 

「破ればフリースラントは敵に回ります」

 

「金の話じゃありません」

 

 彼女は綴りを閉じた。

 

「もう金の話ではないのです」

 

 俺は卓の上の紙を指で押さえていた。

 押さえたまま動かせなかった。

 

「殿下」

 

 俺は言った。

 

「一万五千は一年ぶんです」

「知っています」

「来年は誰を売るんです」

 

 イレーネは俺を見た。

 灰色の目だ。

 乾いている。

 

「売りません」

 

 彼女は言った。

 

「一度だけです」

 

「わたしが売れるのは一度だけです」

 

 彼女は卓の上で手を組んだ。

 

「一万五千は一年ぶんの金です」

 

 彼女は言った。

 

「ですが盟約は金ではありません」

 

「フリースラントは北の国です」

 

 彼女は言った。

 

「兵が八千います」

 

「わたしが嫁げばその八千が南に向きます」

 

 俺は動かなかった。

 

「南方諸市は四千の兵と戦っています」

 

 彼女は言った。

 

「そこに八千が加われば」

 

 彼女は俺を見た。

 

「——南方諸市は和議を申し入れます」

 

 俺は卓の上の紙から指を離した。

 

「戦が終わります」

 

 彼女は言った。

 

「戦費が年に六万」

 

 彼女は指を折らなかった。

 

「終われば六万浮きます」

 

「不足は一万五千です」

 

「——この国は生き返ります」

 

 書庫は静かだった。

 俺はしばらく動かなかった。

 俺は彼女に一万五千の値をつけた。

 彼女は自分に一万五千の値をつけた。

 俺はそれを正確だと思った。

 ——足りなかった。

 俺は金だけを数えた。

 この女は兵を数えていた。

 俺は椅子の上で両手を膝に置いた。

 

「殿下」

「数え違いました」

「はい」

 

 彼女は静かにそう言った。

 

「数え違いは割れません」

 

 俺は言った。

「一人のものです」

「はい」

「払います」

 俺はそう言った。

 イレーネは俺を見た。

 初めて少しだけ目が動いた。

 

「何を払うのですか」

 

 俺は答えなかった。

 答えられなかったのではない。

 払うものをまだ数えていなかったからだ。

 俺は立ち上がった。

 立ち上がって卓の上の紙を取った。

 ヴァルター公の紙だ。

 

「これは出します」

 

 俺は言った。

 

「戦が終わってもこの男は盗み続けます」

 

 俺は扉のほうへ歩いた。

 

「ハーゼル」

 

 彼女が俺の背に言った。

 

「ヴァルター公は王の弟です」

「知っています」

「王は庇われます」

「庇うでしょうね」

「では、あなたは」

 

俺は扉に手をかけた。

 

「解かれます」

 

 俺は振り返らなかった。

 

「解かれたら三十日後に全部喋ります」

 

 俺は言った。

 

「王令第二十号です」

 

「殿下が通された掟です」

 

 俺は扉を押した。

 

 押してそこで足を止めた。

 

「殿下」

「あの掟はいい値でした」

 

 俺はそう言った。

 言って書庫を出た。

 廊下は長い。

 絨毯が敷いてある。

 俺はその上を歩いた。

 もう申し訳ないとは思わなかった。

 

 

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