ヴィント商会の応接間は、無駄に広く、無駄に暖かい。
俺がそこに入ったのは、その日が最初だった。
炭が焚かれている。壁には南方の織物。椅子は俺の宿の寝台より高い。荷役の上着で座るには、少しばかり立派すぎる椅子だった。
だから俺は、座った。
立ったままでいると、こちらが客ではないことになる。
番頭が入ってきた。
背は高くない。髪は薄い。年は五十を少し過ぎたくらいで、指が長い。字を書く人間の指だ。
俺は、この男の顔を知らなかった。
名だけは、十二年前から知っていた。あの紙の下に、署名があった。
「エーリク・フォーゲルと申します」
「カイ・ハーゼルです」
この男は、俺の名を聞いても、瞬き一つしなかった。
その瞬きの無さが、答えだった。
◆
茶が出た。俺は口をつけなかった。毒ではない。ただ、飲むと手が塞がる。
「メーヴェの件、聞き及んでおります」
「運が良かっただけですよ」
「運がよかった、と、あなたは酒場で三十人に向かって言ったそうですな」
俺は肩をすくめた。
「言いました」
「普通、そういうことは言いません」
「普通、二つも数え違えません」
フォーゲルは、少しだけ笑った。
笑い方が上手い男だ。上手すぎる。三十年、笑うことで飯を食ってきた顔だった。
「一つ、お伺いしても」
「どうぞ」
「小麦です」
彼は卓の上に、紙を一枚滑らせた。
北の農村から、この街に入る小麦の量。過去五年ぶん。月ごとに書いてある。
「来年の春、値はどう動きますか」
試験だ。
俺は紙を手に取った。五年ぶんの数字が並んでいる。並んでいるだけで、何も語らない。数字というのは、そういうものだ。誰かが並べ替えるまで、何も言わない。
俺は三十を数えるくらいの間、それを見ていた。
「上がりますね。三割ほど」
「根拠は」
「根拠は、この紙にはありません」
俺は紙を戻した。
「この五年、小麦は毎年同じ月に入ってきてる。そういう街です。だがこの紙に書いてないことが二つある」
指を一本。
「一つ。去年から、王国が兵を養ってる。兵は小麦を食う。徴発の量は、この紙には載らない。載らないが、消える」
二本。
「二つ。北の農村は、去年、種籾を食った。凶作だったからです。種籾を食った村は、翌年、蒔く量が減る。これも紙には載らない」
俺は椅子に背を預けた。
「消える量と、減る量。両方足せば、三割。二割五分から三割五分の間だ。正確には言えません。俺は農村の種籾を数えてないので」
◆
フォーゲルは、しばらく紙を見ていた。
「……その二つを、どこで」
「一つ目は、王国の徴発令の写しです。市庁舎の書記室に貼ってある。誰でも読める」
「二つ目は」
「農村から来た荷役に、酒を一杯おごりました」
この男の指が、卓の上で一度、止まった。
「一杯、ですか」
「一杯です」
俺は笑った。
「安いもんでしょう」
それから、本題が来た。
「商会にお入りいただきたい」
「ほう」
「番頭見習いとして。年に千ターレン。家を一つ用意します。港が見えるほうの」
千ターレン。
荷役の日銭で、二十年ぶんだ。
俺は数字を頭の中で三度転がして、それから、次の言葉を待った。
こういう話には、必ず続きがある。
「それと」
フォーゲルは、指を組んだ。
「ハーゼル商会の名を、再興していただいて構いません」
◆
部屋が、少し静かになった気がした。
炭が一つ、爆ぜた。
「うちの傘の下で、ということですか」
「ええ」
「親父の名を、あんたのところから借りて名乗る」
「借りる、という言葉は使いたくありませんが」
「使ったほうがいい」
俺は茶に手を伸ばした。ここで初めて口をつけた。
うまい茶だった。値段が分かる。
「フォーゲルさん。ハーゼル商会は、なぜ潰れたんです」
彼は、答えなかった。
「四つ目の条項です」
俺は言った。
「豊作の年は返済を待つ。待った分は元本に足される。父は、それを温情だと思って判を押した。あの紙を書いたのは、あんただ」
フォーゲルは、俺の目を見た。
逸らさなかった。
この男は、そこだけは、逃げない。
「はい」
「嘘は書きましたか」
「一つも」
「隠しましたか」
「一文字も」
俺は頷いた。
「知ってます」
◆
「恨んでおられないので」
「恨んでませんよ」
俺は茶を置いた。
「あんたは正しかった。全部書いてあった。読まなかったほうが悪い」
俺は椅子の上で、少しだけ座り直した。
「——だから俺も、正しくやります」
フォーゲルは動かなかった。
それから、静かに聞いた。
「正しくやると、どうなりますか」
「あんたが負けます」
沈黙は、長くなかった。
この男は頭が回る。回る男は、こういうところで正直に黙り、そして正直に喋り出す。
「千ターレンでは足りませんか」
「金の話じゃない」
「では、何の話です」
俺は指を三本立てた。
「ヴィント商会は、船に金を貸す。年に五割で。なぜ五割取れるか、分かりますか」
「危険が大きいからです」
「違う」
俺は、指を一本折った。
「危険が大きいから、じゃない。危険を引き受けられるのが、あんたらだけだからだ」
二本目を折った。
「一隻沈んでも、あんたらは潰れない。倉があって、船があって、金がある。だから引き受けられる。他の誰にもできない。できないから、値段はあんたらが決める」
三本目。
「あんたらは、危険を引き受けて儲けてるんじゃない。引き受けられるのが自分たちだけだから、儲けてるんだ」
俺は立ち上がった。
「俺は、それを二十人に割った」
窓の外は港だ。松明が動いている。
「荷役でも、水夫でも、酒場の親父でも、十ターレンなら、出せる。十ターレンなら、失っても潰れない。二十人で割れば、千ターレンの危険が引き受けられる」
俺は振り返った。
「あんたらでなくても、引き受けられるんですよ」
◆
フォーゲルは、俺を見上げていた。
この男の顔から、笑いが消えていた。三十年ぶんの笑いが、一つ残らず消えていた。
俺は、その顔を見て、少し嬉しくなった。
嬉しくなった自分を、あまり好きになれなかった。
「だから、俺を買いに来たんでしょう」
俺は上着を取った。
「俺が欲しいんじゃない。俺を、止めたいんだ」
玄関まで、フォーゲルが送りに来た。
番頭がわざわざそこまでする相手ではない。
「ハーゼルさん」
「なんです」
「主は、あなたを潰します」
彼は、まっすぐ言った。
「わたしは、止めません」
「止めてくれとは言いませんよ」
俺は手を振った。
「あんたは、あんたの仕事をすればいい。俺は俺の仕事をする」
三歩ほど歩いてから、振り返った。
「フォーゲルさん」
彼は、まだそこにいた。
「一つだけ。親父の名前を、あんたらから買い戻すわけにはいかない」
風が来た。
「あれは、あんたらが取ったものだ。取ったものを売り返してもらうのは、商売じゃない」
俺は笑った。
「——物乞いだ」
◆
港の酒場で、ボリスが三杯目を空けていた。
「どうだった」
「就職の話だった」
「受けたのか」
「断った」
「なんで」
俺はジョッキを取った。
「割に合わん」
ボリスは笑った。
「あんた、いつもそれだな」
翌朝、マイヤーの店に行った。
次の航海の金を借りる約束になっていた。三隻ぶん、六百ターレン。利息は一割三分。
店は開いていた。
マイヤーは、俺の顔を見て、目を伏せた。
「悪いな」
彼は言った。
「金は出せねえ」
「理由は」
「言えねえ」
俺は、店の中を見回した。
狭い店だ。狭いのは、金貸しの店は狭いほうが客が居心地を悪くするからだ。
この男は、それを知っていてやっている。
だから今、居心地が悪いのは、この男のほうだった。
「ヴィントですか」
マイヤーは、答えなかった。
答えなかったが、俺には十分だった。
俺は店を出た。
出て、空を見た。晴れている。船が出る日だ。
——ああ、始まったな。