髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第六話 紙を書いた男

 

 ヴィント商会の応接間は、無駄に広く、無駄に暖かい。

 俺がそこに入ったのは、その日が最初だった。

 炭が焚かれている。壁には南方の織物。椅子は俺の宿の寝台より高い。荷役の上着で座るには、少しばかり立派すぎる椅子だった。

 だから俺は、座った。

 立ったままでいると、こちらが客ではないことになる。

 番頭が入ってきた。

 背は高くない。髪は薄い。年は五十を少し過ぎたくらいで、指が長い。字を書く人間の指だ。

 俺は、この男の顔を知らなかった。

 名だけは、十二年前から知っていた。あの紙の下に、署名があった。

 

「エーリク・フォーゲルと申します」

「カイ・ハーゼルです」

 

 この男は、俺の名を聞いても、瞬き一つしなかった。

 その瞬きの無さが、答えだった。

 

              ◆

 

 茶が出た。俺は口をつけなかった。毒ではない。ただ、飲むと手が塞がる。

 

「メーヴェの件、聞き及んでおります」

「運が良かっただけですよ」

「運がよかった、と、あなたは酒場で三十人に向かって言ったそうですな」

 

 俺は肩をすくめた。

 

「言いました」

「普通、そういうことは言いません」

「普通、二つも数え違えません」

 

 フォーゲルは、少しだけ笑った。

 笑い方が上手い男だ。上手すぎる。三十年、笑うことで飯を食ってきた顔だった。

 

「一つ、お伺いしても」

「どうぞ」

「小麦です」

 

 彼は卓の上に、紙を一枚滑らせた。

 北の農村から、この街に入る小麦の量。過去五年ぶん。月ごとに書いてある。

 

「来年の春、値はどう動きますか」

 

 試験だ。

 俺は紙を手に取った。五年ぶんの数字が並んでいる。並んでいるだけで、何も語らない。数字というのは、そういうものだ。誰かが並べ替えるまで、何も言わない。

 俺は三十を数えるくらいの間、それを見ていた。

 

「上がりますね。三割ほど」

「根拠は」

「根拠は、この紙にはありません」

 

 俺は紙を戻した。

 

「この五年、小麦は毎年同じ月に入ってきてる。そういう街です。だがこの紙に書いてないことが二つある」

 

 指を一本。

 

「一つ。去年から、王国が兵を養ってる。兵は小麦を食う。徴発の量は、この紙には載らない。載らないが、消える」

 

 二本。

 

「二つ。北の農村は、去年、種籾を食った。凶作だったからです。種籾を食った村は、翌年、蒔く量が減る。これも紙には載らない」

 

 俺は椅子に背を預けた。

 

「消える量と、減る量。両方足せば、三割。二割五分から三割五分の間だ。正確には言えません。俺は農村の種籾を数えてないので」

 

              ◆

 

 フォーゲルは、しばらく紙を見ていた。

 

「……その二つを、どこで」

「一つ目は、王国の徴発令の写しです。市庁舎の書記室に貼ってある。誰でも読める」

「二つ目は」

「農村から来た荷役に、酒を一杯おごりました」

 

 この男の指が、卓の上で一度、止まった。

 

「一杯、ですか」

「一杯です」

 

 俺は笑った。

 

「安いもんでしょう」

 

 それから、本題が来た。

 

「商会にお入りいただきたい」

「ほう」

「番頭見習いとして。年に千ターレン。家を一つ用意します。港が見えるほうの」

 

 千ターレン。

 荷役の日銭で、二十年ぶんだ。

 俺は数字を頭の中で三度転がして、それから、次の言葉を待った。

 こういう話には、必ず続きがある。

 

「それと」

 

 フォーゲルは、指を組んだ。

 

「ハーゼル商会の名を、再興していただいて構いません」

 

              ◆

 

 部屋が、少し静かになった気がした。

 炭が一つ、爆ぜた。

 

「うちの傘の下で、ということですか」

「ええ」

「親父の名を、あんたのところから借りて名乗る」

「借りる、という言葉は使いたくありませんが」

「使ったほうがいい」

 

 俺は茶に手を伸ばした。ここで初めて口をつけた。

 うまい茶だった。値段が分かる。

 

「フォーゲルさん。ハーゼル商会は、なぜ潰れたんです」

 

 彼は、答えなかった。

 

「四つ目の条項です」

 

 俺は言った。

 

「豊作の年は返済を待つ。待った分は元本に足される。父は、それを温情だと思って判を押した。あの紙を書いたのは、あんただ」

 

 フォーゲルは、俺の目を見た。

 逸らさなかった。

 この男は、そこだけは、逃げない。

 

「はい」

「嘘は書きましたか」

「一つも」

「隠しましたか」

「一文字も」

 

 俺は頷いた。

「知ってます」

 

              ◆

 

「恨んでおられないので」

「恨んでませんよ」

 

 俺は茶を置いた。

 

「あんたは正しかった。全部書いてあった。読まなかったほうが悪い」

 

 俺は椅子の上で、少しだけ座り直した。

 

「——だから俺も、正しくやります」

 

 フォーゲルは動かなかった。

 それから、静かに聞いた。

 

「正しくやると、どうなりますか」

「あんたが負けます」

 

 沈黙は、長くなかった。

 この男は頭が回る。回る男は、こういうところで正直に黙り、そして正直に喋り出す。

 

「千ターレンでは足りませんか」

「金の話じゃない」

「では、何の話です」

 

 俺は指を三本立てた。

 

「ヴィント商会は、船に金を貸す。年に五割で。なぜ五割取れるか、分かりますか」

「危険が大きいからです」

「違う」

 

 俺は、指を一本折った。

 

「危険が大きいから、じゃない。危険を引き受けられるのが、あんたらだけだからだ」

 

 二本目を折った。

 

「一隻沈んでも、あんたらは潰れない。倉があって、船があって、金がある。だから引き受けられる。他の誰にもできない。できないから、値段はあんたらが決める」

 

 三本目。

 

「あんたらは、危険を引き受けて儲けてるんじゃない。引き受けられるのが自分たちだけだから、儲けてるんだ」

 

 俺は立ち上がった。

 

「俺は、それを二十人に割った」

 

 窓の外は港だ。松明が動いている。

 

「荷役でも、水夫でも、酒場の親父でも、十ターレンなら、出せる。十ターレンなら、失っても潰れない。二十人で割れば、千ターレンの危険が引き受けられる」

 

 

 俺は振り返った。

 

「あんたらでなくても、引き受けられるんですよ」

 

              ◆

 

 フォーゲルは、俺を見上げていた。

 この男の顔から、笑いが消えていた。三十年ぶんの笑いが、一つ残らず消えていた。

 俺は、その顔を見て、少し嬉しくなった。

 嬉しくなった自分を、あまり好きになれなかった。

 

「だから、俺を買いに来たんでしょう」

 

 俺は上着を取った。

 

「俺が欲しいんじゃない。俺を、止めたいんだ」

 

 玄関まで、フォーゲルが送りに来た。

 番頭がわざわざそこまでする相手ではない。

 

「ハーゼルさん」

「なんです」

「主は、あなたを潰します」

 

 彼は、まっすぐ言った。

 

「わたしは、止めません」

「止めてくれとは言いませんよ」

 

 俺は手を振った。

 

「あんたは、あんたの仕事をすればいい。俺は俺の仕事をする」

 

 三歩ほど歩いてから、振り返った。

 

「フォーゲルさん」

 

 彼は、まだそこにいた。

 

「一つだけ。親父の名前を、あんたらから買い戻すわけにはいかない」

 

 風が来た。

 

「あれは、あんたらが取ったものだ。取ったものを売り返してもらうのは、商売じゃない」

 

 俺は笑った。

 

「——物乞いだ」

 

              ◆

 

 港の酒場で、ボリスが三杯目を空けていた。

 

「どうだった」

「就職の話だった」

「受けたのか」

「断った」

「なんで」

 

 俺はジョッキを取った。

 

「割に合わん」

 

 ボリスは笑った。

 

「あんた、いつもそれだな」

 

 翌朝、マイヤーの店に行った。

 次の航海の金を借りる約束になっていた。三隻ぶん、六百ターレン。利息は一割三分。

 店は開いていた。

 マイヤーは、俺の顔を見て、目を伏せた。

 

「悪いな」

 

 彼は言った。

 

「金は出せねえ」

「理由は」

「言えねえ」

 

 俺は、店の中を見回した。

 狭い店だ。狭いのは、金貸しの店は狭いほうが客が居心地を悪くするからだ。

 この男は、それを知っていてやっている。

 だから今、居心地が悪いのは、この男のほうだった。

 

「ヴィントですか」

 マイヤーは、答えなかった。

 答えなかったが、俺には十分だった。

 俺は店を出た。

 出て、空を見た。晴れている。船が出る日だ。

 ——ああ、始まったな。

 

 

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