王城を出たのはその日の夕方だった。
鍵は返した。
任命状は置いてきた。
俺の上着の内には紙が二枚ある。
一枚はヴァルター公の紙。
俺が書いた。俺が数えた。
もう一枚はアルブレヒトの覚書。
二十九年塩の綴りに挟まっていた紙だ。
これだけは持ち出した。
七つ目に背いた。
俺はそれを承知で持ち出した。
二十九年前の男が誰も読まない綴りに挟んだ紙だ。
読む奴が来るまで待たせるために。
俺は来た。
だから持って出た。
ボリスが城門の外で待っていた。
麻袋を担いでいる。
「終わったか」
「終わった」
「勝ったか」
俺は答えなかった。
こいつはそれ以上聞かなかった。
聞かないところだけはいつも間違えない。
三十日待った。
王都のいちばん安い宿だ。
藁の上で三十日数えた。
俺は覚えている。
造幣局の綴り。二十年ぶん。
軍務庁の名簿。四千人。
徴税請負の綴り。三十年ぶん。二百七十の村。
兵站の綴り。麦一俵六ターレン。
王国の借入綴第一巻。三千ターレン。三十年前。
全部覚えている。
俺は数えた。
数えたものは消えない。
俺は三十枚書いた。
三十一日目の朝東門の市へ行った。
三年半前俺が釘を三本打った壁だ。
あの紙はまだ貼ってある。
誰かが雨よけの板を掛けてくれていた。
俺はその隣に三十枚を貼った。
釘は九十本使った。
字の読めない者に読んでやった。
三十人が聞いた。
次の日は五十人になった。
三日目には百人になった。
俺は毎日読んだ。
王の弟が村から取った麦を王国に二倍半で売っている。
造幣局長が銀貨から銀を抜いていた。
死んだ兵に給金が払われている。
王国は三千ターレン借りて九万返すことになっている。
百人が聞いた。
百人が怒った。
百人が帰った。
七日目に人は四十人になった。
十日目に十二人になった。
十四日目に誰も来なかった。
俺は壁の前に立っていた。
三十枚の紙が貼ってある。
風で端がめくれている。
俺はそれを押さえた。
押さえてしばらく動かなかった。
三年半前。
俺はこの壁に紙を一枚貼った。
——王国の徴発手形を二割で売っている方へ。
——その紙はヴィント商会が買っています。
——五倍です。
——売らないでください。
四日で値が動いた。
二割が五割になった。
俺は釘三本でそれをやった。
今度は九十本打った。
何も動かなかった。
俺はその違いを十四日数えた。
三年半前俺が貼った紙は。
——その紙を二割で売ればあんたは八十ターレン損をする。
読んだ男は明日八十ターレン得をする。
だから動いた。
今度俺が貼った紙は。
——王の弟が年に二万一千ターレン盗んでいる。
読んだ男は。
明日何をすればいい。
俺は壁の前で答えを探した。
探して見つからなかった。
——何もできない。
王の弟は王が庇う。
王は王だ。
訴える先がない。
掟は王が書く。
東門の市で俺の紙を読んだ百人は。
怒って帰って麦を買った。
明日も麦を買う。
それだけだ。
二十日目に宰相の使いが来た。
俺は宿の藁の上でそれを受け取った。
紙が一枚。
書いてあったのは一行だ。
——お会いしましょう。
グレゴール・ザイツは宰相の部屋にいた。
目の下が黒い。
俺を見てこの男は椅子を勧めた。
俺は座った。
「貼りましたね」
「貼りました」
「三十枚」
「三十枚です」
「読まれましたか」
「読まれました」
俺はそう答えた。
「百人が読みました」
ザイツは頷いた。
頷いてこう言った。
「それで」
俺は動かなかった。
「あなたは数えました」
彼は言った。
「正しい。一つも間違っていません」
彼は卓の上で手を組んだ。
「わたしも数えました。十二年前に」
「アルブレヒトどのも数えました。二十九年前に」
「殿下も数えられました。十五年前に」
彼は俺を見た。
「四人が数えました」
「四人とも正しかった」
部屋は静かだった。
窓が小さい。
「ハーゼルどの」
「はい」
「あなたは正しい」
彼は静かに言った。
「——それで誰が聞きますか」
俺は椅子の上で動かなかった。
十二の俺には読めた。
誰も聞かなかった。
俺はそれを十二年恨んできた。
恨んで、金を稼いだ。
金を稼げば聞かれると思った。
稼いだ。
掟が要ると思った。
取った。
首輪をつけた。
帳簿を開けた。
数えた。
正しかった。
貼った。
——誰も聞かなかった。
俺は椅子の背に体を預けた。
天井を見た。
窓が小さいので暗い。
俺はそこで笑った。
声を出して笑った。
ザイツが俺を見た。
俺は笑いながらこう言った。
「閣下」
「——値がついてない」
ザイツの手が卓の上で止まった。
俺は上体を起こした。
「三年半前、東門の市で俺は、釘を三本打ちました」
俺は言った。
「四日で値が動きました」
「二割が五割になった」
「なぜ動いたか」
俺は卓に手を置いた。
「読んだ男が明日儲かるからです」
「今度の紙にはそれがない」
俺は言った。
「王の弟が盗んでいると読んで明日誰がいくら儲かりますか」
「誰も儲かりません」
「だから誰も動かない」
俺は椅子から立った。
「閣下」
「正しさには値がつきません」
俺はそう言った。
「二十九年前も十五年前も十二年前も今日も」
「正しさを貼りました」
「値がつかないものに人は動きません」
俺は扉のほうへ歩いた。
「ハーゼルどの」
ザイツが言った。
「ではどうするのです」
俺は扉に手をかけた。
かけて振り返った。
「値を、つけます」
「——正しいことをやると儲かるようにします」