髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第六十二話 九万を捨てられますか

 

 ヴィント商会の奥の部屋は変わっていなかった。

 卓が一つ。椅子が二つ。棚に綴り。

 絨毯はない。炭も焚いていない。

 この街でいちばん金を持っている男の部屋は、金貸しのマイヤーの店より狭い。

 アルノー・ヴィントは卓に向かっていた。

 六十五になっている。前より痩せた。

 

「監査官どの」

「監査官じゃありません」

「知っています」

 

 彼は顔を上げた。

 

「王の弟を数えたそうですね」

「数えました」

「首になった」

「なりました」

 

 俺は椅子に座った。勧められる前に。

 

「一つ商いの話を」

「割に合いますか」

「合います」

 

 俺は上着の内から紙を出した。

 王国の借入綴第一巻の写しだ。

 三十年前。三千ターレン。四つ目つき。

 卓に置いた。

 ヴィントはそれを見た。

 見て動かなかった。

 

「あんたが書いた紙です」

 

 俺は言った。

 

「三千が三十年で九万になった」

「なりました」

「王国があんたに負っている九万はこの一枚です」

「そうです」

 

 彼は頷いた。

 否まなかった。

 この男は否むということをしない。

「ヴィントさん」

「はい」

「王国はこの九万を払えます」

 

 ヴィントの指が卓の上で止まった。

 

「国庫に十一万二千二百ターレンあります」

 

 俺は言った。

 

「俺が戻しました。造幣局軍務庁徴税請負」

 

 俺は指を折った。

 

「王国はあんたに九万払ってなお二万二千残る」

 

「払えますね」

 

 ヴィントは答えなかった。

 俺は待った。

 こういうときに喋る奴は負ける。

 

「払えます」

 彼はやっと言った。

 

「ですが王国は払いません」

「なぜです」

「わたしが取り立てないからです」

 

 俺はこの男の顔を見た。

 六十五。目立たない。飾りがない。

 

「二百七十軒と同じですね」

「同じです」

 

 彼は頷いた。

 

「取り立てれば王国は潰れます。潰れた国からわたしは何も取れない」

 

 彼は卓を撫でた。

 

「取り立てないほうが儲かる」

「その代わり」

 

 俺は言った。

 

「王国はあんたの言うことを聞く」

「聞きます」

「参事会が七人借りているのと同じだ」

「同じです」

 

 彼は俺を見た。

 

「国を一枚の紙で飼っています」

 

 俺はしばらくその言葉を持っていた。

 国を一枚の紙で飼う。

 十二年前、この男は金貸しのマイヤーを一枚の紙で飼った。

 三十年前、この男は王国を一枚の紙で飼った。

 規模が違うだけだ。

 やり方は同じだ。

 

「ヴィントさん」

「はい」

「その紙を捨ててください」

 

 部屋が静かになった。

 窓が小さいので暗い。

 

「九万ターレンを、ですか」

「九万をです」

 

 ヴィントは動かなかった。

 

「捨てろとは」

「額面で王国に払わせてください」

 

 俺は言った。

 

「王国は九万払える。あんたは九万受け取れる」

「元本は三千です」

「利は掟の通りです。四つ目も掟の通りだ」

 

 俺はこの男を見た。

 

「九万受け取って何が悪いんです」

 

 ヴィントは俺を見た。

 

「受け取れば王国はわたしの言うことを聞かなくなります」

「聞かなくなります」

「わたしは飼うのをやめることになります」

「やめることになります」

 

 俺は頷いた。

 

「三千の元本が九万になった。三十倍です。受け取ってやめればいい」

「なぜそんなことを」

 

 ヴィントが聞いた。

 

「あなたは王国の味方でしょう。九万を王国から取れば王国はそれだけ痩せます」

 

 彼は俺を見た。

 

「あなたが王国を痩せさせるのですか」

「痩せません」

 

 俺は首を振った。

 

「王国は九万を一度に払いません」

 

 俺は二枚目の紙を出した。

 白紙だ。

 俺が宿で書いた。

 

「王国はあんたに新しい紙を切ります」

 

 俺は言った。

 

「九万ターレン。十年で毎年九千ずつ払う」

 

 俺は指で押さえた。

 

「四つ目はありません。豊作の年に待つという一文もない」

「利は」

「年に二分です」

 

 ヴィントの眉が上がった。

 

「二分。……安い」

「安いです」

 

 俺は頷いた。

 

「一割二分から二分に下げてください」

「なぜわたしが損をするのです」

「損をしません」

 

 俺は首を振った。

 

「今あんたの九万は紙の上の九万です。王国は払わない。取り立てれば王国が潰れる。だから取れない」

 

 俺は卓に手を置いた。

 

「紙の上の九万は一グロートも使えません」

 

「新しい紙は違います」

 

 俺は言った。

 

「四つ目がない。利は二分だが、毎年九千本当に入ってくる」

 

 俺は指を折った。

 

「十年で九万。利を足して九万九千」

 

 俺は手を開いた。

 

「使える九万九千と使えない九万。どっちが値打ちがありますか」

 

 ヴィントは動かなかった。

 長いこと動かなかった。

 

「一つ伺います」

 

 彼は言った。

 

「なぜ四つ目を外させるのです」

 俺はこの男を見た。

 六十五。三十年前書記室で二百年ぶんの綴りを読んだ男だ。

 

「四つ目は五十に一つの目に罠を仕掛けます」

 

 俺は言った。

 

「王国はその罠に三十年かかっている」

 

 俺は卓の第一巻の写しを指で押さえた。

 

「四つ目を外せば王国は返せます」

 

「返せる借金は飼えません」

 

 俺は言った。

 

「返せない借金だけが飼えます」

 

 俺はこの男を見た。

 

「あんたはそれを三十年前に書いた」

 

「あんたが書き直してください」

 

 部屋は静かだった。

 アルノー・ヴィントは卓の上の二枚の紙を見ていた。

 三十年前の紙と白紙。

 

「ハーゼルさん」

「はい」

「これをやると王国はわたしの言うことを聞かなくなります」

 

 彼は俺を見た。

 

「わたしはこの街でいちばんの商会でなくなります」

「なります」

 

 俺は頷いた。

 

「なぜわたしがそれを呑むと思うのです」

 

 俺は椅子から立った。

 

「三十年誰もあんたを止められなかった」

 

 俺は言った。

 

「あんたは数え違えた。何度も。何十度も。誰も教えてくれなかった」

 

 俺はこの男を見た。

 

「あんたがそう言った」

 

「今教えます」

 

「三千の元本を九万まで育てたのは数え違いです」

 

 アルノー・ヴィントは動かなかった。

 それから。

 この男は笑った。

 声を出して笑った。

 

「——その数え違いを指摘した者はあなたが初めてです」

 

 

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