書庫は変わっていなかった。
棚が天井まである。綴りが床から積んである。
匂いも同じだ。
イレーネ・ヴァル・アルヴェントは卓に向かっていた。
綴りを読んでいた。
嫁ぐ支度をしている女には見えない。
俺はその向かいに座った。勧められる前に。
行儀が悪い。
彼女は何も言わなかった。
「殿下」
「ハーゼル」
「相殺を一つお願いに来ました」
俺は上着の内から手形を出した。
王領北部四十二の村の徴発手形。額面五万ターレン。
卓に置いた。
イレーネはそれを見た。
灰色の目が動いた。
「ヴァルターの紙ですね」
「ヴァルター公の紙です」
「これを相殺すれば」
彼女は言った。
「叔父が麦を二倍半で売っていたことが王国の帳簿に残ります」
「残ります」
俺は頷いた。
「消せない形で残ります」
彼女は手形を指で押さえた。
「なぜわたしに」
「あなたしかいないからです」
俺は言った。
「軍務庁の主計官は公に逆らえない。妻子がいる」
俺はこの女を見た。
「王の弟に手を出せるのは王の娘だけです」
「わたしは来春嫁ぎます」
彼女は言った。
「嫁げばこの国の人ではなくなります」
「知っています」
「嫁ぐ前でなければできない」
「そうです」
俺は頷いた。
「だから今、お願いに来ました」
イレーネは手形を見ていた。
長いこと見ていた。
「ハーゼル」
「はい」
「これを相殺すれば叔父は罪に問われます」
彼女は俺を見た。
「王は叔父を庇われます」
「庇うでしょうね」
「庇えば王と王の娘が割れます」
「割れます」
俺は頷いた。
「わたしが叔父を訴えて、父がそれを庇えば」
彼女は言った。
「父と娘が割れます」
彼女は卓の上で手を組んだ。
「割れたままわたしは嫁ぐことになります」
「そうです」
俺は頷いた。
「隣国に嫁ぐ娘が王家の恥を隣国に持っていきます」
彼女は言った。
「フリースラント公はそれをいい買い物だと思うでしょう」
彼女は俺を見た。
「アルヴェント王家の弱みを一つ持てるからです」
俺は動かなかった。
この女は正確だ。
俺が数えなかったところまで数えている。
「殿下」
「はい」
「では断ってください」
イレーネの手が止まった。
「断れば俺は別の手を探します」
俺は言った。
「時間はかかる。だが探します」
俺はこの女を見た。
「あなたに王家を割らせるのは割に合わない」
「あなたはこの国のために自分を売った」
俺は言った。
「一万五千で。嫁いで戦を終わらせる」
俺は手形に手を伸ばした。
「その上、王家を割ってまでこの紙を相殺する義理はない」
俺は手形を引こうとした。
イレーネの手がその紙を押さえた。
「ハーゼル」
彼女は言った。
「あなたは変わりました」
俺は動かなかった。
「三年半前、あなたはこう言いました」
彼女は言った。
「——王冠は髑髏です。かぶれば死ぬ日を数えて生きることになる。割に合いません」
彼女は俺を見た。
「あなたは割に合わないことをしない男でした」
「今もそうです」
俺は言った。
「これは割に合います」
「割に合わないと、今仰った」
彼女は言った。
「わたしに王家を割らせるのは割に合わないと」
彼女は俺を見た。
「あなたはわたしのために、割に合わないことをやめようとしています」
俺は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えると負けるからだ。
イレーネは手形を自分のほうへ引いた。
「相殺します」
「殿下」
「相殺します」
彼女は繰り返した。
「王家が割れてもです」
「なぜです」
俺は聞いた。
イレーネは俺を見た。
灰色の目だ。
乾いている。
「わたしは一万五千で自分を売りました」
彼女は言った。
「戦を終わらせるためです」
彼女は手形を指で押さえた。
「戦が終われば戦費の六万が浮きます」
「ですが」
彼女は言った。
「叔父が年に二万一千盗み続けます」
彼女は俺を見た。
「戦が終わっても叔父がいればこの国はまた痩せます」
「わたしは一年ぶんの不足を埋めるために嫁ぎます」
彼女は言った。
「叔父は毎年二万一千盗みます」
彼女は卓の上で手を組んだ。
「わたしが埋めるより速く痩せます」
「わたしが嫁ぐ意味がなくなります」
彼女は言った。
「叔父を止めなければ」
俺はこの女を見ていた。
この女は自分の婚姻を投資だと思っている。
一万五千の。
その投資が無駄にならないように叔父を止める。
正確だ。
正確すぎる。
「殿下」
俺は言った。
「一つ伺っていいですか」
「どうぞ」
「あなたはなぜこの国を救うんです」
イレーネの手が止まった。
「あなたは嫁げばこの国の人ではなくなる」
俺は言った。
「王はあなたの言うことを聞かなかった。九つの年からあなたは数えて誰も聞かなかった」
俺はこの女を見た。
「あなたを売った国です」
「なぜ救うんです」
イレーネは俺を見た。
長いこと見ていた。
「あなたはなぜ救うのですか」
彼女は言った。
「あなたを首にした国です」
俺は答えなかった。
俺は安いからと言うつもりだった。
言えなかった。
この女にそれは嘘になるからだ。
書庫は静かだった。
二百年ぶんの綴りが床から積んである。
俺たちはしばらく何も言わなかった。
イレーネが先に口を開いた。
「相殺します」
彼女は言った。
「明日軍務庁へ行きます」
俺は頷いた。
立ち上がって扉のほうへ歩いた。
「ハーゼル」
彼女が俺の背に言った。
「答えなくていいです」
俺は足を止めた。
「わたしも答えられませんでした」
彼女は言った。
「——同じ理由だと思います」
俺は振り返らなかった。
振り返ると負けるからだ。
俺は書庫を出た。
廊下は長い。
絨毯が敷いてある。
俺はその上を歩いた。
——あの女は俺と同じ理由でこの国を救う。
その理由を俺はまだ言葉にできていない。
言葉にできないものを俺は信用しない。
信用しないが。
——この一つだけは信用することにした。