髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第六十七話 王の娘

 

 書庫は変わっていなかった。

 棚が天井まである。綴りが床から積んである。

 匂いも同じだ。

 イレーネ・ヴァル・アルヴェントは卓に向かっていた。

 綴りを読んでいた。

 嫁ぐ支度をしている女には見えない。

 俺はその向かいに座った。勧められる前に。

 行儀が悪い。

 彼女は何も言わなかった。

 

「殿下」

「ハーゼル」

「相殺を一つお願いに来ました」

 

 俺は上着の内から手形を出した。

 王領北部四十二の村の徴発手形。額面五万ターレン。

 卓に置いた。

 イレーネはそれを見た。

 灰色の目が動いた。

 

「ヴァルターの紙ですね」

「ヴァルター公の紙です」

「これを相殺すれば」

 

 彼女は言った。

 

「叔父が麦を二倍半で売っていたことが王国の帳簿に残ります」

「残ります」

 

 俺は頷いた。

 

「消せない形で残ります」

 

 彼女は手形を指で押さえた。

 

「なぜわたしに」

「あなたしかいないからです」

 

 俺は言った。

 

「軍務庁の主計官は公に逆らえない。妻子がいる」

 俺はこの女を見た。

 

「王の弟に手を出せるのは王の娘だけです」

「わたしは来春嫁ぎます」

 

 彼女は言った。

 

「嫁げばこの国の人ではなくなります」

「知っています」

「嫁ぐ前でなければできない」

「そうです」

 

 俺は頷いた。

 

「だから今、お願いに来ました」

 

 イレーネは手形を見ていた。

 長いこと見ていた。

 

「ハーゼル」

「はい」

「これを相殺すれば叔父は罪に問われます」

 

 彼女は俺を見た。

 

「王は叔父を庇われます」

「庇うでしょうね」

「庇えば王と王の娘が割れます」

「割れます」

 

 俺は頷いた。

 

「わたしが叔父を訴えて、父がそれを庇えば」

 

 彼女は言った。

 

「父と娘が割れます」

 

 彼女は卓の上で手を組んだ。

 

「割れたままわたしは嫁ぐことになります」

「そうです」

 

 俺は頷いた。

 

「隣国に嫁ぐ娘が王家の恥を隣国に持っていきます」

 

 彼女は言った。

 

「フリースラント公はそれをいい買い物だと思うでしょう」

 

 彼女は俺を見た。

 

「アルヴェント王家の弱みを一つ持てるからです」

 

 俺は動かなかった。

 この女は正確だ。

 俺が数えなかったところまで数えている。

 

「殿下」

「はい」

「では断ってください」

 

 イレーネの手が止まった。

 

「断れば俺は別の手を探します」

 

 俺は言った。

 

「時間はかかる。だが探します」

 

 俺はこの女を見た。

 

「あなたに王家を割らせるのは割に合わない」

「あなたはこの国のために自分を売った」

 

 俺は言った。

 

「一万五千で。嫁いで戦を終わらせる」

 

 俺は手形に手を伸ばした。

 

「その上、王家を割ってまでこの紙を相殺する義理はない」

 

 俺は手形を引こうとした。

 イレーネの手がその紙を押さえた。

 

「ハーゼル」

 

 彼女は言った。

 

「あなたは変わりました」

 

 俺は動かなかった。

 

「三年半前、あなたはこう言いました」

 

 彼女は言った。

 

「——王冠は髑髏です。かぶれば死ぬ日を数えて生きることになる。割に合いません」

 

 彼女は俺を見た。

 

「あなたは割に合わないことをしない男でした」

「今もそうです」

 

 俺は言った。

 

「これは割に合います」

 

「割に合わないと、今仰った」

 

 彼女は言った。

 

「わたしに王家を割らせるのは割に合わないと」

 

 彼女は俺を見た。

 

「あなたはわたしのために、割に合わないことをやめようとしています」

 

 俺は答えなかった。

 答えられなかったのではない。

 答えると負けるからだ。

 イレーネは手形を自分のほうへ引いた。

 

「相殺します」

「殿下」

「相殺します」

 

 彼女は繰り返した。

 

「王家が割れてもです」

「なぜです」

 

 俺は聞いた。

 イレーネは俺を見た。

 灰色の目だ。

 乾いている。

 

「わたしは一万五千で自分を売りました」

 

 彼女は言った。

 

「戦を終わらせるためです」

 

 彼女は手形を指で押さえた。

 

「戦が終われば戦費の六万が浮きます」

「ですが」

 

 彼女は言った。

 

「叔父が年に二万一千盗み続けます」

 

 彼女は俺を見た。

 

「戦が終わっても叔父がいればこの国はまた痩せます」

 

「わたしは一年ぶんの不足を埋めるために嫁ぎます」

 

 彼女は言った。

 

「叔父は毎年二万一千盗みます」

 

 彼女は卓の上で手を組んだ。

 

「わたしが埋めるより速く痩せます」

 

「わたしが嫁ぐ意味がなくなります」

 

 彼女は言った。

 

「叔父を止めなければ」

 

 俺はこの女を見ていた。

 この女は自分の婚姻を投資だと思っている。

 一万五千の。

 その投資が無駄にならないように叔父を止める。

 正確だ。

 正確すぎる。

 

「殿下」

 

 俺は言った。

 

「一つ伺っていいですか」

「どうぞ」

「あなたはなぜこの国を救うんです」

 

 イレーネの手が止まった。

 

「あなたは嫁げばこの国の人ではなくなる」

 

 俺は言った。

 

「王はあなたの言うことを聞かなかった。九つの年からあなたは数えて誰も聞かなかった」

 

 俺はこの女を見た。

 

「あなたを売った国です」

 

「なぜ救うんです」

 

 イレーネは俺を見た。

 長いこと見ていた。

 

「あなたはなぜ救うのですか」

 

 彼女は言った。

 

「あなたを首にした国です」

 

 俺は答えなかった。

 俺は安いからと言うつもりだった。

 言えなかった。

 この女にそれは嘘になるからだ。

 

 書庫は静かだった。

 二百年ぶんの綴りが床から積んである。

 俺たちはしばらく何も言わなかった。

 イレーネが先に口を開いた。

 

「相殺します」

 

 彼女は言った。

 

「明日軍務庁へ行きます」

 

 俺は頷いた。

 立ち上がって扉のほうへ歩いた。

 

「ハーゼル」

 

 彼女が俺の背に言った。

 

「答えなくていいです」

 

 俺は足を止めた。

 

「わたしも答えられませんでした」

 

 彼女は言った。

 

「——同じ理由だと思います」

 

 俺は振り返らなかった。

 振り返ると負けるからだ。

 俺は書庫を出た。

 廊下は長い。

 絨毯が敷いてある。

 俺はその上を歩いた。

 

 ——あの女は俺と同じ理由でこの国を救う。

 

 その理由を俺はまだ言葉にできていない。

 言葉にできないものを俺は信用しない。

 信用しないが。

 

 ——この一つだけは信用することにした。

 

 

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