俺は書庫へ行った。
イレーネ・ヴァル・アルヴェントは卓に向かっていた。
綴りを読んでいた。
俺はその向かいに座った。勧められる前に。
行儀が悪い。
彼女は何も言わなかった。
「殿下」
「ハーゼル」
「一つ、数えきれないことがあります」
イレーネは綴りから顔を上げた。
俺が数えきれないと言うのをこの女は初めて聞いた。
「南方諸市が和議を望みました」
俺は言った。
「戦は終わります」
「聞きました」
「ですが和議にはフリースラントの後ろ盾が要ります」
「わたしの婚姻ですね」
彼女は言った。
「そうです」
俺は頷いた。
「戦は消したのに婚姻が消えませんでした」
「フリースラント公が欲しいのはあなたじゃない」
俺は言った。
「港です。あの国には港がない」
俺は綴りを出した。
「あなたを娶ればアルヴェントの港が使える。それが欲しい」
「港を婚姻なしで渡せますか」
イレーネが聞いた。
「渡せます」
俺は言った。
「ですが王家の面子が潰れます」
俺はこの女を見た。
「王女を娶るはずだった公に港だけ渡す。王家は袖にされた形になる」
「王が呑みません」
「呑みません」
俺は頷いた。
「面子を立てるには、王家と同じ格の者がフリースラントと結ばれればいい」
「この国に王家と同じ格の者は一人しかいません」
「あなたです」
彼女は言った。
「王が公位を与えようとした男」
「俺です」
俺は頷いた。
「俺が公位を受けて、フリースラントと港の盟約を結べば」
俺は言った。
「あなたは嫁がなくて済む。王家の面子も立つ」
イレーネは動かなかった。
「あなたは公位を蹴りました」
彼女は言った。
「割に合わないと」
「蹴りました」
「なぜ今受けるのですか」
「受けません」
俺は言った。
イレーネの手が止まった。
「受けたら俺は、髑髏をかぶります」
俺は言った。
「公位を持てば領を守る。領を守るために、数えるのをやめる」
「あなたが嫌った、髑髏をかぶった男になります」
「あなたは髑髏をかぶらない男を求めた」
「俺が髑髏をかぶってあなたを助けたら」
「俺は、あなたの求めたものでなくなります」
書庫は静かだった。
二百年ぶんの綴りが床から積んである。
「四年前、あなたは俺に言いました」
「――数え違いは割れません。一人のものです」
「俺は払いますと答えた。あなたは、何を、と聞いた」
「俺は答えられませんでした」
「払うものを数えていなかったからです」
「今も数えきれていません」
「髑髏をかぶるのは払い方を間違えている。それは分かった」
「ですが、正しい払い方が分からない」
俺は卓に両手を置いた。
「殿下」
「はい」
「俺は四年一人で数えてきました」
「この勘定は割れません」
「割れないものは、一人のものです」
俺はイレーネを見た。
「――二人のものにしてください」
イレーネは俺を見ていた。
灰色の目だ。
乾いていた目が。
少し動いた。
「ハーゼル」
「はい」
「あなたは、わたしに勘定を手伝えと言うのですか」
「そうです」
俺は頷いた。
「あなたは数字が読めます」
俺は言った。
「九つの年に国の死を数えた。俺より先に数え終わっていた」
「俺が数えきれないものを、あなたなら数えられるかもしれない」
イレーネはしばらく動かなかった。
それから綴りを閉じた。
閉じて卓の上に両手を置いた。
俺と同じ形だ。
「数えましょう」
彼女は言った。
俺たちは書庫で三日数えた。
港を、誰がフリースラントに渡すか。
王家の面子をどう立てるか。
南方諸市をどう信じさせるか。
三日目にイレーネがこう言った。
「ハーゼル」
「はい」
「あなたは公位を蹴った」
「蹴りました」
「王国金庫を取った」
「取りました」
「王国金庫は、王家のものですか」
彼女が聞いた。
俺は動かなかった。
「違います」
俺は言った。
「王家のものでも俺のものでもない。四つの鍵のものです」
「四つの鍵のうち一つは」
彼女は言った。
「わたしが持っています」
イレーネは俺を見ていた。
「王国金庫がフリースラントと港の盟約を結べばいい」
彼女は言った。
「王家ではなく金庫が」
「金庫は王家と同じ格ではありません」
俺は言った。
「面子が立ちません」
「立ちます」
イレーネは言った。
「金庫の鍵の一つを王家が持てばいい」
俺は動かなかった。
「わたしが鍵を持っています」
彼女は言った。
「わたしは王の娘です」
「王家の鍵を持つ金庫がフリースラントと結べば、それは王家が結ぶのと同じ格です」
俺はしばらくこの女を見ていた。
この女は俺が三日数えて数えきれなかったものを。
半日で数え終えた。
俺が渡した鍵で。
「殿下」
「はい」
「あなたは俺より上手いですね」
イレーネは少しだけ笑った。
四年で初めて見る笑い方だった。
「ハーゼル」
彼女は言った。
「二人で数えると速いですね」
俺は答えなかった。
答えると負けるからだ。
だがこの日は。
負けてもよかった。