取り付けが失敗した翌週から、俺のところに人が並ぶようになった。
紙が欲しい、と言うのだ。
あの朝、九十枚の銀貨が卓の上に並んだまま日が暮れた。それを見ていた連中が、こう考えた——あの紙は、逃げない。
逃げない紙は、銀貨より使い勝手がいい。銀貨は増えないが、紙は四十日で五割増える。
船主が五人来た。荷主が九人来た。
全部の口を出せば、二千ターレン集まる。俺の口銭は、二百ターレン。
俺は、断った。
「なんでだ」
ゲルトが聞いた。
「三の目」の卓の裏で、この男は勘定をしていた。銭の勘定はできる。掛け算はできない。
「船がないからだ」
「船主が五人来てるんだろ」
「船は五隻ある。だが、俺の紙は、荷の値打ちの分しか出せない」
「なんでだよ」
俺は懐から紙を出して、卓に置いた。
俺が自分に書いた規則だ。一行しかない。
——俺の紙は、海に浮かんでいる荷の値打ちを超えて、出してはならない。
「読めん」
「知ってる」
俺は笑った。
「読んでやる。紙の数は、荷の数を超えちゃいけない」
◆
「超えたらどうなる」
「儲かる」
ゲルトが眉を上げた。
「明日は儲かる。明後日も儲かる。十年、儲かる」
俺は指を一本立てた。
「十一年目に、全部消える」
「なんでだ」
「荷が百ターレン分しかないのに、紙を千ターレン分出したとする。全員が同時に銀貨に換えに来たら、俺は九百ターレン足りない」
「全員は来ねえだろ」
「来ないさ。来ないと思ってる間は」
俺は卓の縁を指で叩いた。
「先週、来ただろう」
ゲルトは、口を閉じた。
こいつは悪くない。
ゲルトは俺を信じている。信じているから、出せと言う。俺が数え違えるとは、思っていない。
それが、一番怖い。
「ゲルト。俺が明日、規則を破るとする」
「破らねえだろ」
「破る。必ず破る」
俺は、この男の目を見た。
「今日は断った。明日も断る。だが、三年後に、俺の商会が傾いてる日が来る。あと百枚出せば持ち直す、という日が来る。百枚出せば、誰も損しない。俺は自分にそう言う。俺は、必ず、そう言う」
「……あんたが?」
「俺だから、だ」
俺は紙を折って、懐に入れた。
「数え違いは割れない、と俺は言った。あれは本当だ。だが、もう一つある」
俺は立ち上がった。
「自分の数え違いは、自分では見つからない」
◆
誰かに、見張らせなければならない。
俺は、その日、候補を数えた。
ボリス。数えられない。それに、こいつは俺を信じすぎる。俺が「これでいい」と言えば、こいつは頷く。
ゲルト。同じだ。しかもこの男は、俺の紙が増えれば「三の目」に銭が回ることを知っている。
トーマ。船具屋。俺の紙を十二枚持っている。俺が儲かれば、この男も儲かる。
ドールス。同じだ。
水夫。同じだ。
俺の周りにいる人間は、全員、俺が儲かると儲かる。
全員だ。
だから、全員、使えない。
この街で、俺が潰れて得をする男は、二人しかいない。
一人は、アルノー・ヴィント。
もう一人は、金貸しのマイヤーだ。
◆
マイヤーの店は、狭い。
客、金を借りに来た人間からすれば居心地が悪く、それに耐えるものだけが金を借りられる。だが俺は、そっちの客じゃない。
俺が入ると、彼は帳面から顔を上げて、そして、目を伏せた。
「金は出せねえ」
「金は要りません」
俺は椅子に座った。座る椅子は一つしかない。
「仕事を頼みに来た」
「……仕事」
「俺を、見張ってほしい」
マイヤーは、帳面を閉じた。
「何言ってんだ、あんた」
「俺は紙を出す。船の荷の値打ちの分だけ。それ以上は出さない。これが規則だ」
俺は、規則を書いた紙を卓に置いた。
「毎月、あんたに帳面を見せる。海に何ターレン分の荷があって、紙が何枚出てるか。あんたが数える」
「なんで俺が」
「一つでも合わなかったら、街に触れを出せ。ハーゼルの紙は危ない、と」
マイヤーの手が、止まった。
「あんた……」
「触れが出たら、俺は終わる。先週の朝が、もう一度来る。次は九十枚じゃ足りない」
俺は椅子に背を預けた。
「あんたに、俺を殺す紐を渡す」
◆
部屋が、静かになった。
この男の店は狭い。狭いから、沈黙が近い。
「なぜ俺だ」
マイヤーは、やっと言った。
「トーマでも、ゲルトでも、ドールスでもいい。あんたの周りには、あんたを信じてる連中が山ほどいる」
「そいつらは駄目だ」
「なんでだよ」
「俺が儲かると、そいつらも儲かる」
俺は指を一本立てた。
「俺が『今回だけだ』と言ったら、そいつらは頷く。頷いてくれる奴に見張らせるのは、見張らせてるふりだ」
俺は、この男の目を見た。
三月前に、俺の金を止めた男の目だ。
「あんたは違う」
二本目。
「俺は先週、あんたの商売を殺した。五割で貸してたあんたが、今は一割三分でしか貸せない。街の金の値段を、俺が下げた。あんたは、俺を憎んでる」
マイヤーは、否定しなかった。
「俺が潰れれば、金の値段は元に戻る。あんたはまた五割で貸せる」
三本目。
「だから、あんたは、俺の数え違いを見つけたがる」
俺は、卓の上の紙を、彼の方へ押した。
「——俺を止められるのは、俺が潰れて得をする奴だけだ」
◆
マイヤーは、長いこと動かなかった。
この男は、頭が悪くない。悪くないから、俺が何をしようとしているのか、正確に分かってしまった。
「あんた、自分に首輪をつけようとしてるな」
「そうです」
「なんで」
「つけないと、いつか外れなくなるからだ」
マイヤーは立ち上がって、店の奥へ行った。
しばらくして、酒を二つ持って戻ってきた。安い酒だ。この男が客に酒を出すところを、俺は初めて見た。
「一つ、聞きたい」
「どうぞ」
「俺が、嘘の触れを出したらどうする」
彼は座って、酒を一口飲んだ。
「あんたの帳面が合ってても、俺が『合ってねえ』と言えば、あんたは終わる。俺は、あんたを殺せる。今すぐな」
俺は頷いた。
「殺せます」
「怖くねえのか」
「怖い」
俺は酒を飲んだ。まずい酒だった。
「だが、あんたはやらない」
「なんでだ」
「あんたが嘘の触れを出したら、その日から、この街の誰もあんたの言葉を信じない。金貸しってのは、信じてもらう商売でしょう」
◆
マイヤーは、酒の椀を置いた。
それから、笑った。
この男が笑うのを、俺は初めて見た。あまり上手くない笑い方だった。フォーゲルとは、正反対の男だ。
「口銭は」
「月に十ターレン」
「安いな」
「高くしたら、あんたが俺の味方になる」
彼は、また笑った。
「……ハーゼルさん」
「なんです」
「あんた、いつか、王様にでもなるつもりか」
俺は、鼻で笑った。
「割に合わん」
帰りぎわに、一つだけ聞いた。
「マイヤーさん。なんで、俺の金を止めたんです」
彼は、帳面に手を置いたまま、動かなかった。
「ヴィントに、借りがある」
「あんたが?」
「十二年前だ」
俺は、扉の前で足を止めた。
「うちの店は、あの年、潰れかけた。ヴィントが金を貸してくれた」
彼は顔を上げなかった。
「……あんたの親父さんが潰れた年だよ」
◆
外に出た。
空は晴れていて、風は北から来ていた。船が帰る風だ。
十二年前。
父が判を押した年に、この街の金貸しが、ヴィントに助けられた。
助けられた金貸しは、それから十二年、ヴィントの言いなりだ。
——紙一枚で、街を一つ、飼い慣らしたのか。
俺は、そのやり方を、少し尊敬した。
尊敬した自分を、少し嫌いになった。
三十日後。
港の鐘が鳴った。
俺は桟橋に行った。ゲルトも、ボリスも、トーマも、水夫の女房も、荷役の親方も来ていた。
三隻出て、二隻が帰った。
三隻目の帆は、水平線に出てこなかった。