髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第九話 俺が潰れて得をする男

 

 取り付けが失敗した翌週から、俺のところに人が並ぶようになった。

 紙が欲しい、と言うのだ。

 あの朝、九十枚の銀貨が卓の上に並んだまま日が暮れた。それを見ていた連中が、こう考えた——あの紙は、逃げない。

 逃げない紙は、銀貨より使い勝手がいい。銀貨は増えないが、紙は四十日で五割増える。

 船主が五人来た。荷主が九人来た。

 全部の口を出せば、二千ターレン集まる。俺の口銭は、二百ターレン。

 俺は、断った。

 

「なんでだ」

 

 ゲルトが聞いた。

 「三の目」の卓の裏で、この男は勘定をしていた。銭の勘定はできる。掛け算はできない。

 

「船がないからだ」

「船主が五人来てるんだろ」

「船は五隻ある。だが、俺の紙は、荷の値打ちの分しか出せない」

「なんでだよ」

 

 俺は懐から紙を出して、卓に置いた。

 俺が自分に書いた規則だ。一行しかない。

 ——俺の紙は、海に浮かんでいる荷の値打ちを超えて、出してはならない。

 

「読めん」

「知ってる」

 

 俺は笑った。

 

「読んでやる。紙の数は、荷の数を超えちゃいけない」

 

              ◆

 

「超えたらどうなる」

「儲かる」

 

 ゲルトが眉を上げた。

 

「明日は儲かる。明後日も儲かる。十年、儲かる」

 

 俺は指を一本立てた。

 

「十一年目に、全部消える」

「なんでだ」

「荷が百ターレン分しかないのに、紙を千ターレン分出したとする。全員が同時に銀貨に換えに来たら、俺は九百ターレン足りない」

「全員は来ねえだろ」

「来ないさ。来ないと思ってる間は」

 

 俺は卓の縁を指で叩いた。

 

「先週、来ただろう」

 

 ゲルトは、口を閉じた。

 こいつは悪くない。

 ゲルトは俺を信じている。信じているから、出せと言う。俺が数え違えるとは、思っていない。

 それが、一番怖い。

 

「ゲルト。俺が明日、規則を破るとする」

「破らねえだろ」

「破る。必ず破る」

 

 俺は、この男の目を見た。

 

「今日は断った。明日も断る。だが、三年後に、俺の商会が傾いてる日が来る。あと百枚出せば持ち直す、という日が来る。百枚出せば、誰も損しない。俺は自分にそう言う。俺は、必ず、そう言う」

「……あんたが?」

「俺だから、だ」

 

 俺は紙を折って、懐に入れた。

 

「数え違いは割れない、と俺は言った。あれは本当だ。だが、もう一つある」

 

 俺は立ち上がった。

 

「自分の数え違いは、自分では見つからない」

 

              ◆

 

 誰かに、見張らせなければならない。

 俺は、その日、候補を数えた。

 ボリス。数えられない。それに、こいつは俺を信じすぎる。俺が「これでいい」と言えば、こいつは頷く。

 ゲルト。同じだ。しかもこの男は、俺の紙が増えれば「三の目」に銭が回ることを知っている。

 トーマ。船具屋。俺の紙を十二枚持っている。俺が儲かれば、この男も儲かる。

 ドールス。同じだ。

 水夫。同じだ。

 俺の周りにいる人間は、全員、俺が儲かると儲かる。

 全員だ。

 だから、全員、使えない。

 この街で、俺が潰れて得をする男は、二人しかいない。

 一人は、アルノー・ヴィント。

 もう一人は、金貸しのマイヤーだ。

 

              ◆

 

 マイヤーの店は、狭い。

 客、金を借りに来た人間からすれば居心地が悪く、それに耐えるものだけが金を借りられる。だが俺は、そっちの客じゃない。

 俺が入ると、彼は帳面から顔を上げて、そして、目を伏せた。

 

「金は出せねえ」

「金は要りません」

 

 俺は椅子に座った。座る椅子は一つしかない。

 

「仕事を頼みに来た」

「……仕事」

「俺を、見張ってほしい」

 

 マイヤーは、帳面を閉じた。

 

「何言ってんだ、あんた」

 

「俺は紙を出す。船の荷の値打ちの分だけ。それ以上は出さない。これが規則だ」

 

 俺は、規則を書いた紙を卓に置いた。

 

「毎月、あんたに帳面を見せる。海に何ターレン分の荷があって、紙が何枚出てるか。あんたが数える」

 

「なんで俺が」

「一つでも合わなかったら、街に触れを出せ。ハーゼルの紙は危ない、と」

 

 マイヤーの手が、止まった。

 

「あんた……」

「触れが出たら、俺は終わる。先週の朝が、もう一度来る。次は九十枚じゃ足りない」

 

 俺は椅子に背を預けた。

 

「あんたに、俺を殺す紐を渡す」

 

              ◆

 

 部屋が、静かになった。

 この男の店は狭い。狭いから、沈黙が近い。

 

「なぜ俺だ」

 

 マイヤーは、やっと言った。

 

「トーマでも、ゲルトでも、ドールスでもいい。あんたの周りには、あんたを信じてる連中が山ほどいる」

「そいつらは駄目だ」

「なんでだよ」

「俺が儲かると、そいつらも儲かる」

 

 俺は指を一本立てた。

 

「俺が『今回だけだ』と言ったら、そいつらは頷く。頷いてくれる奴に見張らせるのは、見張らせてるふりだ」

 

 俺は、この男の目を見た。

 三月前に、俺の金を止めた男の目だ。

 

「あんたは違う」

 

 二本目。

 

「俺は先週、あんたの商売を殺した。五割で貸してたあんたが、今は一割三分でしか貸せない。街の金の値段を、俺が下げた。あんたは、俺を憎んでる」

 

 マイヤーは、否定しなかった。

 

「俺が潰れれば、金の値段は元に戻る。あんたはまた五割で貸せる」

 

 三本目。

 

「だから、あんたは、俺の数え違いを見つけたがる」

 

 俺は、卓の上の紙を、彼の方へ押した。

 

「——俺を止められるのは、俺が潰れて得をする奴だけだ」

 

              ◆

 

 マイヤーは、長いこと動かなかった。

 この男は、頭が悪くない。悪くないから、俺が何をしようとしているのか、正確に分かってしまった。

 

「あんた、自分に首輪をつけようとしてるな」

「そうです」

「なんで」

「つけないと、いつか外れなくなるからだ」

 

 マイヤーは立ち上がって、店の奥へ行った。

 しばらくして、酒を二つ持って戻ってきた。安い酒だ。この男が客に酒を出すところを、俺は初めて見た。

 

「一つ、聞きたい」

「どうぞ」

「俺が、嘘の触れを出したらどうする」

 

 彼は座って、酒を一口飲んだ。

 

「あんたの帳面が合ってても、俺が『合ってねえ』と言えば、あんたは終わる。俺は、あんたを殺せる。今すぐな」

 

 俺は頷いた。

 

「殺せます」

「怖くねえのか」

「怖い」

 

 俺は酒を飲んだ。まずい酒だった。

 

「だが、あんたはやらない」

「なんでだ」

「あんたが嘘の触れを出したら、その日から、この街の誰もあんたの言葉を信じない。金貸しってのは、信じてもらう商売でしょう」

 

              ◆

 

 マイヤーは、酒の椀を置いた。

 それから、笑った。

 この男が笑うのを、俺は初めて見た。あまり上手くない笑い方だった。フォーゲルとは、正反対の男だ。

 

「口銭は」

「月に十ターレン」

「安いな」

「高くしたら、あんたが俺の味方になる」

 

 彼は、また笑った。

 

「……ハーゼルさん」

「なんです」

「あんた、いつか、王様にでもなるつもりか」

 

 俺は、鼻で笑った。

 

「割に合わん」

 

 帰りぎわに、一つだけ聞いた。

 

「マイヤーさん。なんで、俺の金を止めたんです」

 

 彼は、帳面に手を置いたまま、動かなかった。

 

「ヴィントに、借りがある」

「あんたが?」

「十二年前だ」

 

 俺は、扉の前で足を止めた。

 

「うちの店は、あの年、潰れかけた。ヴィントが金を貸してくれた」

 

 彼は顔を上げなかった。

 

「……あんたの親父さんが潰れた年だよ」

 

              ◆

 

 外に出た。

 空は晴れていて、風は北から来ていた。船が帰る風だ。

 十二年前。

 父が判を押した年に、この街の金貸しが、ヴィントに助けられた。

 助けられた金貸しは、それから十二年、ヴィントの言いなりだ。

 ——紙一枚で、街を一つ、飼い慣らしたのか。

 俺は、そのやり方を、少し尊敬した。

 尊敬した自分を、少し嫌いになった。

 三十日後。

 港の鐘が鳴った。

 俺は桟橋に行った。ゲルトも、ボリスも、トーマも、水夫の女房も、荷役の親方も来ていた。

 三隻出て、二隻が帰った。

 三隻目の帆は、水平線に出てこなかった。

 

 

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