BLACK LAGOON - ODDS -   作:たこ焼き 龍月

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三度目の正直 第五話「清算、そして次の影」

 

 

イエローフラッグの一件から、四日が経っていた。

 

ラグーン商会の事務所は、いつもの気だるい午後を取り戻している。ベニーは端末の前で舌打ちを繰り返しながら回線の設定と格闘し、ルマジュールはソファでゲーム機の電源が切れたことに気づかないまま操作を続けていた。窓の外では、いつも通りの喧騒が遠く響いている。玲は自分の机で、今日の予定を記した紙片に目を通していた。

 

「イエローフラッグの修繕費、そろそろ払ってやらねえと、バオのやつがまた泣きついてくる」

 

奥の部屋から出てきたダッチが、書類の束を玲の机に置きながら言った。

 

「先方の請求書は届いているんですか」

 

「昨日届いた」

 

ダッチは、煙草をくわえながら続けた。

 

「金は用意してある。お前とレヴィで届けてきてくれ。ついでに、額に間違いがねえか確認しといてくれると助かる」

 

「承知しました」

 

玲は、書類を丁寧に受け取り、内容に目を通し始めた。数字の列を追う横顔には、いつもと変わらない静けさだけがあった。

 

---

 

「四日前の件、あれから何か聞いてないか」

 

ダッチが、思い出したように付け加えた。

 

「聞いていません」

 

玲は、視線を書類から離さずに答えた。

 

「バオからも、依頼人からも、続報は届いていません」

 

「そうか」

 

ダッチは、それだけ言って肩をすくめた。深い意味のある問いではなかったらしい。玲はその声の軽さを記憶に留めながら、書類の続きに目を通した。二話で覚えた違和感を、まだ誰にも言葉にして伝えてはいない。伝えるには、材料がまだ足りなかった。

 

---

 

「イエローフラッグの修繕記録って、まだつけてんの」

 

端末の前から、ベニーが振り返って尋ねた。

 

「つけています」

 

玲は答えた。

 

「今回の件で、記録上は八件目になります」

 

「八件か」

 

ベニーは口笛のような音を漏らしかけて、途中で止めた。

 

「そのうち、その記録がでかい意味持つ日が来そうだな」

 

「意味を持つかどうかは」

 

玲は言った。

 

「データが積み上がった後でなければ判断できません」

 

ベニーは、その返答に肩をすくめてから、また端末に向き直った。

 

---

 

「なんか、また出かけんの」

 

ソファから、ルマジュールが顔を上げずに聞いた。

 

「イエローフラッグに、修繕費を届けに行きます」

 

玲は答えた。

 

「姐さんも行くの」

 

「行くぞ」

 

椅子の背にもたれていたレヴィが、億劫そうに口を開いた。

 

「あたしも行くのかよ」

 

「お前が暴れた店だろうが。顔くらい出せ」

 

ダッチが、短く返す。

 

レヴィは、それ以上言い返さずに得物を肩へ引っかけ直した。文句を重ねる気配はなく、支度を始める動きにはむしろ迷いがなかった。玲はその横顔を一瞥してから、書類を鞄へしまった。

 

---

 

事務所を出ると、昼過ぎのロアナプラの熱気が二人を包んだ。

 

湿った空気の中に、屋台の油と潮の匂いが混じっている。錆びついた看板が、乾いた風に軋みながら揺れていた。玲は日差しを避けるように鞄を持ち直し、隣を歩くレヴィの歩調に、視界の端で合わせた。

 

四日前、同じ道を歩いたときとは、何かが違っている。さらに遡れば、第一話でこの組み合わせを言い渡された日がある。二人のあいだにあった沈黙は、行き先も分からないまま押しつけられた不満の色を帯びていた。今日の沈黙は、それとは明らかに質を異にしている。玲はその違いをまだ数値化できずにいたが、少なくとも比較対象となる過去の記録が、自分の中にすでに存在していることだけは自覚していた。

 

「あんたさ」

 

しばらく歩いたところで、レヴィが口を開いた。

 

「あの店の請求書、いくら来てんの」

 

「金額は現時点で確認中です」

 

玲は答えた。

 

「先方の内訳と、こちらの見積もりを照合してから、正式に伝えます」

 

「相変わらず、まどろっこしい言い方すんな」

 

レヴィは、そう言いながらも先を急かすことはしなかった。玲は鞄の中の書類を意識しながら、道の先に見え始めたイエローフラッグの看板へ視線を向けた。

 

---

 

店の扉を開けると、バオがちょうどカウンターの奥で請求書らしき紙束を整理していた。

 

顔を上げた瞬間、その表情に疲労の色が浮かぶ。

 

「今日はまた、何しに来たんだ」

 

「修繕費の件です」

 

玲は答えた。

 

「ダッチから、精算のために伺うよう指示を受けています」

 

バオは、紙束の中から一枚を抜き出し、カウンターの上に置いた。

 

「これだ。細けえ内訳も書いといた」

 

「拝見します」

 

---

 

玲は請求書を受け取り、記された項目を一つずつ目で追い始めた。

 

壁材や木板、釘、床の補修にかかった人件費。項目ごとに単価と数量が並び、末尾に合計額が記されている。玲はその数字の並びを追いながら、過去七件の記録と照らし合わせた。単価の水準は概ね一致している。数量の欄だけが、いつもより控えめだった。

 

「今回は、木板の使用量が過去平均より三割ほど少なくなっています」

 

玲は、視線を紙面から離さずに言った。

 

「壁の破損範囲が、想定より狭かったためと見ています」

 

「よく気づくな、そんなとこまで」

 

バオが、グラスを拭く手を止めて言った。

 

「気づく気づかないの話ではありません」

 

玲は答えた。

 

「照合すれば、誰でも分かる差です」

 

---

 

「頼むからよ」

 

しばらくして、バオが息を吐きながら言った。

 

「次はもうちょっとマシな組み合わせを寄越してくれよ」

 

その一言に、レヴィがすぐさま反応した。

 

「マシな組み合わせって何だよ」

 

低い声だった。

 

「あたしと電卓のどこが悪い」

 

---

 

バオが、思わず言葉を止めた。

 

紙束を持つ手が、宙で止まったままになっている。数秒のあいだ、店主は何と返せばいいか分からない様子で、レヴィの顔を見ていた。

 

レヴィ自身も、自分の口から出た言葉に、一拍遅れて気づいたらしかった。視線をわずかに逸らし、得物の位置を意味もなく直す。誰かを庇うつもりで放った言葉ではなかったはずだが、結果として出てきた形は、庇うのと似た響きを持っていた。

 

玲は、その一連のやり取りに取り立てて反応を見せなかった。ただ請求書の数字から視線を離さないまま、次の一文を口にした。

 

「今回の修繕費は」

 

淡々とした声だった。

 

「前回までの平均より、およそ一割安く済んでいます」

 

---

 

「一割か」

 

バオが、我に返ったように問い返した。

 

「はい」

 

玲は頷いた。

 

「破損箇所が、事前に想定していた範囲に収まったためです。壁一面と卓一台、規模としては過去の記録の中でも小さい部類に入ります」

 

「そりゃ、あんたらが早めに動いたからだろうよ」

 

バオは、腕を組みながら言った。

 

「三件目が起きる前に、二件とも大事にならずに済んだ。それがなけりゃ、もっとひでえことになってた」

 

「その見立ては」

 

玲は続けた。

 

「概ね一致しています。ただし、規模を抑えたのは介入のタイミングであって、私たちの意図的な選択ではありません。結果として、そうなっただけです」

 

---

 

バオは、その言い方にしばらく黙り込んだ。

 

「褒めてんのか、けなしてんのか。わかんねえな、お前は」

 

やがて、そうこぼした。

 

「どちらでもありません」

 

玲は、請求書を鞄にしまいながら答えた。

 

「これは報告です」

 

バオは、その返答に短く息を吐いた。呆れとも諦めともつかない色が、その息の中に混じっていた。

 

---

 

「そういやよ」

 

カウンターの布巾を手に取りながら、バオがふと口を開いた。

 

「『三度目の正直』とはよく言ったもんだが、この店じゃ、七度目も八度目も似たようなもんだ。正直もクソもねえ」

 

その言葉に、玲は一度だけ手帳を閉じる手を止めた。

 

「『三度目の正直』というのは」

 

静かな声だった。

 

「二度の失敗を経て、三度目に成功する確率が特別に高くなる、という意味ではありません」

 

「じゃあ何だよ」

 

バオが、布巾を動かす手を止めずに尋ねた。

 

「人間が、三という数字に意味を見出したがるだけです」

 

玲は続けた。

 

「実際には、四度目も五度目も、確率としては大差ありません。この店の修繕記録が、それを証明しています」

 

---

 

バオは、その説明に一瞬呆気に取られたような顔をした。それから、諦めたように短く笑った。

 

「お前に格言なんか持ち出すんじゃなかったな」

 

「持ち出されたものには、答えます」

 

玲は言った。

 

「それだけのことです」

 

レヴィは、その一連のやり取りを少し離れた場所で聞いていた。カウンターに肘をつき、煙草に火をつけながら、玲の横顔を一瞥する。反論する気配はなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、煙を吐き出しただけだった。

 

「今の話」

 

やがて、レヴィが呟いた。

 

「四度目も五度目も同じって言うなら、こないだの三件目は、たまたま今日だっただけってことかよ」

 

「そうです」

 

玲は答えた。

 

「三という数字自体に、意味はありません。ただ確率が積み重なった先に、三件目が来た。それだけのことです」

 

レヴィは、その返答に片方の眉を上げただけで、それ以上は何も言わなかった。

 

---

 

「金は、明日にはこっちに届く手筈になっています」

 

玲は、鞄の留め金を確かめながら言った。

 

「額に相違があれば、改めて連絡してください」

 

「わかった」

 

バオは、紙束をカウンターの下にしまいながら頷いた。それから、思い出したように付け加える。

 

「そういや、今日は静かに帰ってくれるんだろうな」

 

「暴れる予定はありません」

 

玲が答えるより先に、レヴィが煙を吐きながら短く返した。

 

「今日は仕事っつーか、金の話しに来ただけだっつーの」

 

---

 

会計の話が一段落したところで、店の扉が軽い音を立てて開いた。

 

昼の光が一瞬だけ差し込み、埃の粒子を白く照らす。入ってきたのは、玲もレヴィも見覚えのない男だった。

 

年齢は三十代半ばほど。仕立ての良くも悪くもない服を着て、両手をポケットに入れたまま、ゆっくりと店内へ足を踏み入れる。その動きに、急いだ様子はなかった。

 

---

 

男の視線が、一度だけ玲とレヴィのほうへ流れた。

 

長くはなかった。だがその一瞥には、単なる通りすがりの視線とは違う質があった。値踏みでもなく、興味でもない。位置関係を確かめるような、事務的な動きだった。

 

男は何も言わず、視線をすぐに店の奥へ戻すと、カウンターの反対側の席へ向かって歩いていった。歩調は終始一定で、急ぐ様子も、周囲を気にする素振りも見せなかった。

 

---

 

玲は、その一連の動きを見逃さなかった。

 

男が扉をくぐった瞬間の、出入り口の幅を確かめるような目の動き。店内を一巡させた視線が、レヴィの得物と玲の鞄の位置で、それぞれ一拍だけ止まったこと。そして奥の席に着く直前には、もう一つの出口――厨房へ続く裏の扉――にも、同じ長さだけ視線を送っていたこと。三つの動きはいずれも短く、傍目には自然な仕草の範囲に収まっていた。だが三つが揃って一人の人間の中に現れることは、玲の経験則の中ではめったにない。

 

玲は、その一連の情報を、頭の中で静かに並べ直した。

 

(出入り口を確認する客が、また一人)

 

二話の商談で覚えた違和感と、同じ性質のものだった。あのときの護衛は、乱闘のあいだ一度も卓へ近づかず、ただ観察に徹していた。目の前の男の動きには、それと同じ手つきの丁寧さがあった。

 

歩き方にも、共通する特徴があった。肩の力を抜きながらも、重心は常に両足の中心に置かれている。とっさに動く必要が生じたとき、最短距離で反応できる姿勢だった。素人の歩き方ではない。玲はその評価を、頭の中の帳簿に静かに書き加えた。

 

---

 

男は、奥の席に着くと、店員に何かを短く注文した。それ以上の動きは見せず、ただグラスが運ばれてくるのを待っている。焦りも、周囲を窺うような落ち着きのなさもない。むしろその静けさこそが、玲の中で評価の重みを増していた。

 

「バオ」

 

玲は、カウンターの店主に、声量を落として尋ねた。

 

「あの客に、見覚えは」

 

バオは、視線だけを奥の席へ動かし、しばらく黙っていた。

 

「いや」

 

やがて、そう答えた。

 

「初めて見る顔だな。この店にゃ、いろんな連中が来る。あの手の静かな客は、あんまり長居しねえもんだ」

 

「長居しない、というのは」

 

「用があって来て、用が済んだら帰る。そういう手合いだ」

 

バオは、それだけ言うと、また別の作業に戻っていった。玲はその答えを、記録の一部として静かに受け取った。

 

---

 

玲は、鞄から手帳を取り出した。

 

ページをめくる音は、店内の喧騒にほとんど紛れて消えた。ペン先を紙に落とし、短い一文を書き加える。

 

(出入り口を確認する客が、また一人。目的は不明。歩き方に訓練の痕跡あり)

 

書き終えると、玲は視線だけを上げ、男の後ろ姿をもう一度確かめた。男はすでに運ばれてきたグラスに口をつけ、窓の外へ視線を向けている。それ以上の動きは、今のところ見られなかった。

 

---

 

「なんか用か」

 

レヴィが、煙草をくわえたまま尋ねた。玲の視線の先に気づいた様子はなく、その声には特に緊張の色もなかった。

 

「いいえ」

 

玲は、手帳を閉じながら答えた。

 

「記録を一つ、加えていただけです」

 

「相変わらず、暇さえありゃメモってんな、あんた」

 

レヴィは、そう言って先に扉のほうへ歩き出した。奥の席の男には、一度も視線を向けていない。玲はその背中を見送りながら、男の存在を伝えるべきかどうかを、一瞬だけ検討した。

 

結論は、すぐに出た。

 

今の段階で確定しているのは、店の出入り口を確認する仕草と、訓練を経た者に特有の歩き方のみである。それだけでは、報告に値する脅威とは断定できない。玲はその判断を、感情ではなく手順として下した。

 

---

 

「行くぞ」

 

扉の前で、レヴィが振り返った。

 

「はい」

 

玲は頷き、手帳を鞄へしまうと、男の背をもう一度だけ視線で追った。それ以上は追及せず、静かに歩き出す。バオが、カウンターの向こうから軽く手を上げた。

 

「また来いよ。……いや、来なくていいから、金だけちゃんと届けてくれ」

 

「承知しました」

 

玲は短く答え、扉をくぐった。

 

---

 

外は、変わらず強い日差しに満ちていた。

 

レヴィは煙草の灰を落としながら、通りの先へ視線をやっている。玲はその隣で歩調を合わせながら、店の中で見た男の視線の運びを、頭の中でもう一度なぞり直していた。

 

「あんた、さっきから静かだな」

 

しばらく歩いたところで、レヴィが言った。

 

「いつも通りです」

 

玲は答えた。

 

「静かでないときのほうが、少ないと思いますが」

 

「まあ、それもそうか」

 

レヴィは、短く笑った。

 

「今日はもう、揉め事もなしか。珍しいこともあるもんだな」

 

「今日の記録は」

 

玲は言った。

 

「揉め事の発生件数、ゼロ件です」

 

---

 

「じゃあ、今日の分は貸しにしとくか」

 

レヴィが、口の端をわずかに上げながら言った。

 

「貸しの概念は」

 

玲は、一拍置いてから答えた。

 

「今回の業務には該当しません。ゼロ件は、単なる観測結果です」

 

「相変わらず、可愛げのねえ返し方だな」

 

レヴィは、そう言いながらも、それ以上追及はしなかった。二人は、しばらく無言のまま、雑踏の中を並んで歩いた。

 

---

 

四日前と同じ道だった。日差しの角度も、道端の屋台の並びも、記憶にある光景とほとんど変わらない。だが玲は、行きと帰りの空気の質が、四日前と比べてわずかに変わっていることに気づいていた。

 

言葉を交わす回数が増えたわけではない。むしろ沈黙の時間のほうが、いつもより長いくらいだった。それでも、その沈黙には確かに何かが混ざっている。初めて二人一組にされた日の気まずさとは、質を異にするものだった。玲はその違いを、まだ正確な言葉に変換できずにいた。

 

(信頼、という単語を当てるには、材料が不足している)

 

その保留を、玲は否定しなかった。断定できない状態を、そのまま抱えておくことも、一つの査定の形として成立する。四話にわたって積み重ねてきた事実は、少なくともその方向を示す確率を、わずかながら押し上げていた。

 

---

 

「なあ」

 

レヴィが、煙を吐き出しながら言った。

 

「次にまた組まされたら、あんたどうする」

 

「組み合わせは」

 

玲は答えた。

 

「ダッチが決めることです。私の意向は、判断材料の一つにはなりません」

 

「そういう話じゃねえよ」

 

レヴィは、舌打ちを一つ落とした。だがその音の硬さは、四話で聞かせたものとも、また少し違っていた。

 

「あんた自身は、どう思ってんのかって聞いてんだよ」

 

---

 

玲は、その問いにすぐには答えなかった。

 

数歩分の沈黙を挟んでから、静かに口を開く。

 

「今回の組み合わせは」

 

一拍置いて、続けた。

 

「事前の見積もりよりも、良好な結果を出しました。次回、同じ組み合わせが指示された場合、拒否する理由は見当たりません」

 

「それだけかよ」

 

「それだけです」

 

玲は、視線を前に向けたまま言った。

 

「感想を付け加える必要は、業務上ありません」

 

---

 

レヴィは、その返答に何も言い返さなかった。

 

短く鼻を鳴らし、煙草を吸い殻入れに投げ捨てる。だがその横顔には、不満というより、何かを飲み込んで納得したような静けさがあった。玲はその表情の変化を目の端で捉えたが、あえて言葉にはしなかった。

 

「業務上、な」

 

レヴィは、口の中だけでもう一度呟いた。それ以上、繰り返す気配はなかった。

 

---

 

二人の足音が、ロアナプラの喧騒の中に紛れていく。

 

事務所へ戻る道のりは、まだ半分ほど残っていた。玲は、鞄の中の手帳を意識しながら、そこに書き加えたばかりの一文を思い返した。

 

(出入り口を確認する客が、また一人。目的は不明。歩き方に訓練の痕跡あり)

 

その一行は、まだ結論を持たない一つの変数として、静かにページの隅に残されている。二話で覚えた違和感と、今日見た男の視線。二つの点が、いずれ一本の線につながるのかどうかは、今の玲には見積もることができなかった。だが線につながる確率は、ゼロではない。玲はその一点だけを、頭の中に留めた。

 

---

 

隣を歩くレヴィは、その変数の存在にまだ気づいていない。

 

いつも通りの足取りで、少し先を歩いている。玲はその背中を一度だけ見てから、歩調をわずかに速め、隣に並び直した。今日という日は、大きな出来事も、派手な結末もないまま終わろうとしている。それでも玲の帳簿には、次の査定を静かに待つ一行が、確かに刻まれていた。

 

ロアナプラの午後は、いつもと変わらぬ喧騒を続けている。だがその喧騒の奥では、まだ正体の知れない何かが、ゆっくりと動き始めていた。それを、玲はまだ誰にも伝えていなかった。

 

---

 

事務所に戻ると、ダッチはすでに無線機の前に座っていた。

 

「金は届けてきたか」

 

「明日、先方の口座に振り込まれる手筈です」

 

玲は答えた。

 

「請求額に相違はありませんでした」

 

「そうか。ご苦労だったな」

 

ダッチは、それだけ言って無線機のつまみに視線を戻した。玲はその横で、鞄から手帳を取り出しかけて、一度手を止めた。

 

奥の席にいた男のことを、今この場で報告するべきかどうか。玲はその判断を、もう一度だけ頭の中で見直した。確度の低い情報を、確度の高いものとして扱えば、判断を誤らせる材料になりかねない。玲はその結論に従い、手帳を鞄の中に戻した。

 

「何か、あったか」

 

ダッチが、無線機から目を離さないまま尋ねた。手を止めた玲の動きに、気づいていたらしい。

 

「特には」

 

玲は答えた。

 

「報告するに値する事案は、現時点では確認していません」

 

「そうか」

 

ダッチはそれ以上追及せず、短く頷いただけだった。玲の判断を疑う様子はない。材料が揃っていないという玲の言葉を、そのまま受け取るだけの信頼が、その反応の短さには滲んでいた。玲はその信頼の重さを、数字にはしないまま、静かに受け止めた。

 

(もう少し、材料が揃うまで)

 

その一文だけを、胸の内に留めた。

 

---

 

事務所に、夕方の気配が忍び寄り始めていた。

 

窓の外では、屋台の明かりが一つ、また一つと灯り始めている。ベニーはすでに端末の電源を落とし、伸びをしながら椅子から立ち上がっていた。ルマジュールは、ソファの上でうとうとと舟を漕ぎかけては、はっと目を覚ますことを繰り返している。

 

「今日、結局何もなかったわけ」

 

ルマジュールが、あくび混じりに尋ねた。

 

「揉め事は起きませんでした」

 

玲は、机の上で今日の記録を清書しながら答えた。

 

「静かな一日でした」

 

「珍しいじゃん、姐さんと組んで何も壊れないなんて」

 

ルマジュールがそう言うと、少し離れた場所で得物の手入れをしていたレヴィが、片方の眉を上げた。

 

「あたしだって、いつも壊してるわけじゃねえよ」

 

「え、そうだっけ」

 

ルマジュールが本気で首を傾げると、レヴィは舌打ち一つでその話を打ち切った。玲はその一連のやり取りを、手を止めずに横目で見ていた。ペン先が紙の上を滑る音だけが、二人のやり取りの合間に静かに続いていた。

 

---

 

玲は、手帳の最後のページに視線を落とした。

 

今日の記録は、いつになく簡潔だった。修繕費の照合、支払いの手筈、揉め事の発生件数はゼロ。数字だけを見れば、これといって特筆すべき点のない一日だった。だが手帳の隅には、まだ結論の出ない一行が残されている。

 

(出入り口を確認する客が、また一人。目的は不明。歩き方に訓練の痕跡あり)

 

玲は、その一行を指先でなぞった。今すぐに答えの出るものではない。だが答えが出ないという事実そのものを、記録として留めておく価値はある。玲はペンを置き、手帳を静かに閉じた。

 

---

 

「もう終わったのか」

 

いつの間にか、レヴィが得物の手入れを終え、玲の机の脇に立っていた。

 

「今日の分は、終わりました」

 

玲は答えた。

 

「地味な一日だったな」

 

レヴィは、そう言いながら伸びをした。

 

「地味な一日、というのは」

 

玲は、鞄の留め金を確かめながら言った。

 

「悪い評価ではありません。損失がゼロの日は、統計上、最も望ましい部類に入ります」

 

「あんたのそういう言い方、慣れてきた自分が怖いわ」

 

レヴィは、短く笑ってそう言った。皮肉のようでいて、そこに込められた響きは、四話の頃よりも幾分か柔らかくなっていた。

 

---

 

事務所を出る頃には、日はすでに西の水平線に近づいていた。

 

橙色の光が、湿った通りの水たまりに反射している。玲は鞄を抱え直し、隣を歩くレヴィの足取りを、視界の端で追った。二人一組にされたあの日から、五日が経っている。短い期間だったが、玲の帳簿には、その五日間の記録がすでに幾つも積み重なっていた。

 

(繰り返される損失は、学習によって減らせるか)

 

玲は、その問いを頭の中で静かに反芻した。今日という一日だけを切り取れば、答えは肯定的に見える。だが損失の総量がゼロに近づいたとしても、それが完全にゼロになることはない。玲はその限界を、悲観としてではなく、一つの前提として受け止めていた。

 

---

 

「なあ」

 

レヴィが、煙草をくわえながら言った。

 

「あんたと組んで、五日か」

 

「五日です」

 

玲は頷いた。

 

「短い期間ですが、記録としては十分な量が集まりました」

 

「十分な量、ね」

 

レヴィは、煙を吐き出しながら続けた。

 

「じゃあ、次はもっと長い期間組んでみりゃ、あんたの数字もっと増えるってことか」

 

「その可能性はあります」

 

玲は答えた。

 

「ただし、それを決めるのは私ではありません」

 

「わかってるよ、そんくらい」

 

レヴィは、そう言って短く笑った。呆れと、それだけではない何かが、その笑い方には混ざっていた。

 

---

 

二人は、それ以上言葉を交わさないまま、夕暮れのロアナプラを並んで歩いた。

 

街灯がまだ灯らない時間帯、通りの輪郭は橙と紫のあいだで曖昧に滲んでいる。玲はその光の変化を目で追いながら、隣を歩くレヴィの横顔を一度だけ見た。刺々しさは、まだ完全には消えていない。だがその奥にある何かは、五日前よりも確かに輪郭を持ち始めていた。

 

玲の帳簿には、今日もまた一行が書き加えられている。数字にできない何かを、玲はまだ言葉にできずにいた。それでも、いずれこの帳簿のどこかに、その言葉を書き加える日が来るかもしれない。玲はその可能性を、否定はしなかった。

 

「三度目の正直、か」

 

不意に、レヴィが呟いた。独り言に近い声量だった。

 

「な。あんた的には、あれ、どういう意味なんだよ」

 

「三度で成功する確率が特別に高いという意味では、すでにないと申し上げました」

 

玲は答えた。

 

「ただ」

 

一拍、間を置いた。

 

「三度という数字に、後から意味を見出すことは、可能です。この五日間がそうであったように」

 

「後づけかよ」

 

レヴィは、短く笑った。

 

「別に、いいけどな。それはそれで」

 

夜の気配が、少しずつロアナプラの街を包み始めていた。橙色の光は薄れ、通りの輪郭が藍色に沈んでいく。玲はその変化を目の端で追いながら、鞄の中の手帳と、まだ答えの出ない一行の存在を意識の底に置き直した。三度目の正直と呼ぶには、まだ早い。けれど確かに積み重なった五日間の記録を胸に、玲とレヴィは、暮れゆく街の中を歩いていく。

 

その足音は、いつもより少しだけ、間合いが揃っていた。それが何を意味するのか、答えを出す式は、玲の中にまだ存在しない。ただ、式が存在しないという事実そのものを、玲は今日静かに帳簿の外側に置いておくことにした。

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ハリー・ポッターと上位者の娘(作者:アーマウニー)(原作:ハリー・ポッター)

ヤーナムにて果てしない狩りの果てに上位者となったクリスティーナ・ブラウン。▼ある日彼女のもとに届いたのは聞いたこともない学校からの入学許可証だった。▼ホグワーツ魔法魔術学校。▼より良い存在となるため、赤子を抱くため、何よりも好奇心を満たすため。彼女は''神秘''ではない新たな世界へ身を投じる。▼(初めての投稿となる為、非常に粗…


総合評価:2178/評価:8.53/連載:12話/更新日時:2026年07月17日(金) 17:31 小説情報

~転生したら奈良シカマルの双子の兄でした~(作者:ZAZAI)(原作:NARUTO)

奈良シカマルの双子の兄・カゲマルとして転生した主人公。アカデミーで仲間との絆を育みながら、未来を変えるため忍として歩み始める。


総合評価:1705/評価:7.12/連載:32話/更新日時:2026年09月20日(日) 22:51 小説情報

【推しの子】もしも星野アイの隣人が天才外科医だったら〜命を救う、その先へ〜(作者:ペンギンって可愛いですよね)(原作:推しの子)

表紙イラスト↓▼【挿絵表示】▼世界的な名声を得た天才外科医は、数え切れない命を救った末、過労によりその生涯を終えた。▼――しかし、目を覚ますと彼は記憶を持ったまま、日本で赤ん坊として転生していた。▼二度目の人生でも迷うことなく外科医の道を選び、再び天才と呼ばれるまでに成長した彼は、都内の大学病院へ勤務することになる。▼病院の近くへ引っ越し、新たな生活を始めた…


総合評価:5391/評価:5.8/連載:64話/更新日時:2026年09月26日(土) 21:00 小説情報


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