BLACK LAGOON - ODDS - 作:たこ焼き 龍月
イエローフラッグの一件から、四日が経っていた。
ラグーン商会の事務所は、いつもの気だるい午後を取り戻している。ベニーは端末の前で舌打ちを繰り返しながら回線の設定と格闘し、ルマジュールはソファでゲーム機の電源が切れたことに気づかないまま操作を続けていた。窓の外では、いつも通りの喧騒が遠く響いている。玲は自分の机で、今日の予定を記した紙片に目を通していた。
「イエローフラッグの修繕費、そろそろ払ってやらねえと、バオのやつがまた泣きついてくる」
奥の部屋から出てきたダッチが、書類の束を玲の机に置きながら言った。
「先方の請求書は届いているんですか」
「昨日届いた」
ダッチは、煙草をくわえながら続けた。
「金は用意してある。お前とレヴィで届けてきてくれ。ついでに、額に間違いがねえか確認しといてくれると助かる」
「承知しました」
玲は、書類を丁寧に受け取り、内容に目を通し始めた。数字の列を追う横顔には、いつもと変わらない静けさだけがあった。
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「四日前の件、あれから何か聞いてないか」
ダッチが、思い出したように付け加えた。
「聞いていません」
玲は、視線を書類から離さずに答えた。
「バオからも、依頼人からも、続報は届いていません」
「そうか」
ダッチは、それだけ言って肩をすくめた。深い意味のある問いではなかったらしい。玲はその声の軽さを記憶に留めながら、書類の続きに目を通した。二話で覚えた違和感を、まだ誰にも言葉にして伝えてはいない。伝えるには、材料がまだ足りなかった。
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「イエローフラッグの修繕記録って、まだつけてんの」
端末の前から、ベニーが振り返って尋ねた。
「つけています」
玲は答えた。
「今回の件で、記録上は八件目になります」
「八件か」
ベニーは口笛のような音を漏らしかけて、途中で止めた。
「そのうち、その記録がでかい意味持つ日が来そうだな」
「意味を持つかどうかは」
玲は言った。
「データが積み上がった後でなければ判断できません」
ベニーは、その返答に肩をすくめてから、また端末に向き直った。
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「なんか、また出かけんの」
ソファから、ルマジュールが顔を上げずに聞いた。
「イエローフラッグに、修繕費を届けに行きます」
玲は答えた。
「姐さんも行くの」
「行くぞ」
椅子の背にもたれていたレヴィが、億劫そうに口を開いた。
「あたしも行くのかよ」
「お前が暴れた店だろうが。顔くらい出せ」
ダッチが、短く返す。
レヴィは、それ以上言い返さずに得物を肩へ引っかけ直した。文句を重ねる気配はなく、支度を始める動きにはむしろ迷いがなかった。玲はその横顔を一瞥してから、書類を鞄へしまった。
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事務所を出ると、昼過ぎのロアナプラの熱気が二人を包んだ。
湿った空気の中に、屋台の油と潮の匂いが混じっている。錆びついた看板が、乾いた風に軋みながら揺れていた。玲は日差しを避けるように鞄を持ち直し、隣を歩くレヴィの歩調に、視界の端で合わせた。
四日前、同じ道を歩いたときとは、何かが違っている。さらに遡れば、第一話でこの組み合わせを言い渡された日がある。二人のあいだにあった沈黙は、行き先も分からないまま押しつけられた不満の色を帯びていた。今日の沈黙は、それとは明らかに質を異にしている。玲はその違いをまだ数値化できずにいたが、少なくとも比較対象となる過去の記録が、自分の中にすでに存在していることだけは自覚していた。
「あんたさ」
しばらく歩いたところで、レヴィが口を開いた。
「あの店の請求書、いくら来てんの」
「金額は現時点で確認中です」
玲は答えた。
「先方の内訳と、こちらの見積もりを照合してから、正式に伝えます」
「相変わらず、まどろっこしい言い方すんな」
レヴィは、そう言いながらも先を急かすことはしなかった。玲は鞄の中の書類を意識しながら、道の先に見え始めたイエローフラッグの看板へ視線を向けた。
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店の扉を開けると、バオがちょうどカウンターの奥で請求書らしき紙束を整理していた。
顔を上げた瞬間、その表情に疲労の色が浮かぶ。
「今日はまた、何しに来たんだ」
「修繕費の件です」
玲は答えた。
「ダッチから、精算のために伺うよう指示を受けています」
バオは、紙束の中から一枚を抜き出し、カウンターの上に置いた。
「これだ。細けえ内訳も書いといた」
「拝見します」
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玲は請求書を受け取り、記された項目を一つずつ目で追い始めた。
壁材や木板、釘、床の補修にかかった人件費。項目ごとに単価と数量が並び、末尾に合計額が記されている。玲はその数字の並びを追いながら、過去七件の記録と照らし合わせた。単価の水準は概ね一致している。数量の欄だけが、いつもより控えめだった。
「今回は、木板の使用量が過去平均より三割ほど少なくなっています」
玲は、視線を紙面から離さずに言った。
「壁の破損範囲が、想定より狭かったためと見ています」
「よく気づくな、そんなとこまで」
バオが、グラスを拭く手を止めて言った。
「気づく気づかないの話ではありません」
玲は答えた。
「照合すれば、誰でも分かる差です」
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「頼むからよ」
しばらくして、バオが息を吐きながら言った。
「次はもうちょっとマシな組み合わせを寄越してくれよ」
その一言に、レヴィがすぐさま反応した。
「マシな組み合わせって何だよ」
低い声だった。
「あたしと電卓のどこが悪い」
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バオが、思わず言葉を止めた。
紙束を持つ手が、宙で止まったままになっている。数秒のあいだ、店主は何と返せばいいか分からない様子で、レヴィの顔を見ていた。
レヴィ自身も、自分の口から出た言葉に、一拍遅れて気づいたらしかった。視線をわずかに逸らし、得物の位置を意味もなく直す。誰かを庇うつもりで放った言葉ではなかったはずだが、結果として出てきた形は、庇うのと似た響きを持っていた。
玲は、その一連のやり取りに取り立てて反応を見せなかった。ただ請求書の数字から視線を離さないまま、次の一文を口にした。
「今回の修繕費は」
淡々とした声だった。
「前回までの平均より、およそ一割安く済んでいます」
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「一割か」
バオが、我に返ったように問い返した。
「はい」
玲は頷いた。
「破損箇所が、事前に想定していた範囲に収まったためです。壁一面と卓一台、規模としては過去の記録の中でも小さい部類に入ります」
「そりゃ、あんたらが早めに動いたからだろうよ」
バオは、腕を組みながら言った。
「三件目が起きる前に、二件とも大事にならずに済んだ。それがなけりゃ、もっとひでえことになってた」
「その見立ては」
玲は続けた。
「概ね一致しています。ただし、規模を抑えたのは介入のタイミングであって、私たちの意図的な選択ではありません。結果として、そうなっただけです」
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バオは、その言い方にしばらく黙り込んだ。
「褒めてんのか、けなしてんのか。わかんねえな、お前は」
やがて、そうこぼした。
「どちらでもありません」
玲は、請求書を鞄にしまいながら答えた。
「これは報告です」
バオは、その返答に短く息を吐いた。呆れとも諦めともつかない色が、その息の中に混じっていた。
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「そういやよ」
カウンターの布巾を手に取りながら、バオがふと口を開いた。
「『三度目の正直』とはよく言ったもんだが、この店じゃ、七度目も八度目も似たようなもんだ。正直もクソもねえ」
その言葉に、玲は一度だけ手帳を閉じる手を止めた。
「『三度目の正直』というのは」
静かな声だった。
「二度の失敗を経て、三度目に成功する確率が特別に高くなる、という意味ではありません」
「じゃあ何だよ」
バオが、布巾を動かす手を止めずに尋ねた。
「人間が、三という数字に意味を見出したがるだけです」
玲は続けた。
「実際には、四度目も五度目も、確率としては大差ありません。この店の修繕記録が、それを証明しています」
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バオは、その説明に一瞬呆気に取られたような顔をした。それから、諦めたように短く笑った。
「お前に格言なんか持ち出すんじゃなかったな」
「持ち出されたものには、答えます」
玲は言った。
「それだけのことです」
レヴィは、その一連のやり取りを少し離れた場所で聞いていた。カウンターに肘をつき、煙草に火をつけながら、玲の横顔を一瞥する。反論する気配はなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、煙を吐き出しただけだった。
「今の話」
やがて、レヴィが呟いた。
「四度目も五度目も同じって言うなら、こないだの三件目は、たまたま今日だっただけってことかよ」
「そうです」
玲は答えた。
「三という数字自体に、意味はありません。ただ確率が積み重なった先に、三件目が来た。それだけのことです」
レヴィは、その返答に片方の眉を上げただけで、それ以上は何も言わなかった。
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「金は、明日にはこっちに届く手筈になっています」
玲は、鞄の留め金を確かめながら言った。
「額に相違があれば、改めて連絡してください」
「わかった」
バオは、紙束をカウンターの下にしまいながら頷いた。それから、思い出したように付け加える。
「そういや、今日は静かに帰ってくれるんだろうな」
「暴れる予定はありません」
玲が答えるより先に、レヴィが煙を吐きながら短く返した。
「今日は仕事っつーか、金の話しに来ただけだっつーの」
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会計の話が一段落したところで、店の扉が軽い音を立てて開いた。
昼の光が一瞬だけ差し込み、埃の粒子を白く照らす。入ってきたのは、玲もレヴィも見覚えのない男だった。
年齢は三十代半ばほど。仕立ての良くも悪くもない服を着て、両手をポケットに入れたまま、ゆっくりと店内へ足を踏み入れる。その動きに、急いだ様子はなかった。
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男の視線が、一度だけ玲とレヴィのほうへ流れた。
長くはなかった。だがその一瞥には、単なる通りすがりの視線とは違う質があった。値踏みでもなく、興味でもない。位置関係を確かめるような、事務的な動きだった。
男は何も言わず、視線をすぐに店の奥へ戻すと、カウンターの反対側の席へ向かって歩いていった。歩調は終始一定で、急ぐ様子も、周囲を気にする素振りも見せなかった。
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玲は、その一連の動きを見逃さなかった。
男が扉をくぐった瞬間の、出入り口の幅を確かめるような目の動き。店内を一巡させた視線が、レヴィの得物と玲の鞄の位置で、それぞれ一拍だけ止まったこと。そして奥の席に着く直前には、もう一つの出口――厨房へ続く裏の扉――にも、同じ長さだけ視線を送っていたこと。三つの動きはいずれも短く、傍目には自然な仕草の範囲に収まっていた。だが三つが揃って一人の人間の中に現れることは、玲の経験則の中ではめったにない。
玲は、その一連の情報を、頭の中で静かに並べ直した。
(出入り口を確認する客が、また一人)
二話の商談で覚えた違和感と、同じ性質のものだった。あのときの護衛は、乱闘のあいだ一度も卓へ近づかず、ただ観察に徹していた。目の前の男の動きには、それと同じ手つきの丁寧さがあった。
歩き方にも、共通する特徴があった。肩の力を抜きながらも、重心は常に両足の中心に置かれている。とっさに動く必要が生じたとき、最短距離で反応できる姿勢だった。素人の歩き方ではない。玲はその評価を、頭の中の帳簿に静かに書き加えた。
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男は、奥の席に着くと、店員に何かを短く注文した。それ以上の動きは見せず、ただグラスが運ばれてくるのを待っている。焦りも、周囲を窺うような落ち着きのなさもない。むしろその静けさこそが、玲の中で評価の重みを増していた。
「バオ」
玲は、カウンターの店主に、声量を落として尋ねた。
「あの客に、見覚えは」
バオは、視線だけを奥の席へ動かし、しばらく黙っていた。
「いや」
やがて、そう答えた。
「初めて見る顔だな。この店にゃ、いろんな連中が来る。あの手の静かな客は、あんまり長居しねえもんだ」
「長居しない、というのは」
「用があって来て、用が済んだら帰る。そういう手合いだ」
バオは、それだけ言うと、また別の作業に戻っていった。玲はその答えを、記録の一部として静かに受け取った。
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玲は、鞄から手帳を取り出した。
ページをめくる音は、店内の喧騒にほとんど紛れて消えた。ペン先を紙に落とし、短い一文を書き加える。
(出入り口を確認する客が、また一人。目的は不明。歩き方に訓練の痕跡あり)
書き終えると、玲は視線だけを上げ、男の後ろ姿をもう一度確かめた。男はすでに運ばれてきたグラスに口をつけ、窓の外へ視線を向けている。それ以上の動きは、今のところ見られなかった。
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「なんか用か」
レヴィが、煙草をくわえたまま尋ねた。玲の視線の先に気づいた様子はなく、その声には特に緊張の色もなかった。
「いいえ」
玲は、手帳を閉じながら答えた。
「記録を一つ、加えていただけです」
「相変わらず、暇さえありゃメモってんな、あんた」
レヴィは、そう言って先に扉のほうへ歩き出した。奥の席の男には、一度も視線を向けていない。玲はその背中を見送りながら、男の存在を伝えるべきかどうかを、一瞬だけ検討した。
結論は、すぐに出た。
今の段階で確定しているのは、店の出入り口を確認する仕草と、訓練を経た者に特有の歩き方のみである。それだけでは、報告に値する脅威とは断定できない。玲はその判断を、感情ではなく手順として下した。
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「行くぞ」
扉の前で、レヴィが振り返った。
「はい」
玲は頷き、手帳を鞄へしまうと、男の背をもう一度だけ視線で追った。それ以上は追及せず、静かに歩き出す。バオが、カウンターの向こうから軽く手を上げた。
「また来いよ。……いや、来なくていいから、金だけちゃんと届けてくれ」
「承知しました」
玲は短く答え、扉をくぐった。
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外は、変わらず強い日差しに満ちていた。
レヴィは煙草の灰を落としながら、通りの先へ視線をやっている。玲はその隣で歩調を合わせながら、店の中で見た男の視線の運びを、頭の中でもう一度なぞり直していた。
「あんた、さっきから静かだな」
しばらく歩いたところで、レヴィが言った。
「いつも通りです」
玲は答えた。
「静かでないときのほうが、少ないと思いますが」
「まあ、それもそうか」
レヴィは、短く笑った。
「今日はもう、揉め事もなしか。珍しいこともあるもんだな」
「今日の記録は」
玲は言った。
「揉め事の発生件数、ゼロ件です」
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「じゃあ、今日の分は貸しにしとくか」
レヴィが、口の端をわずかに上げながら言った。
「貸しの概念は」
玲は、一拍置いてから答えた。
「今回の業務には該当しません。ゼロ件は、単なる観測結果です」
「相変わらず、可愛げのねえ返し方だな」
レヴィは、そう言いながらも、それ以上追及はしなかった。二人は、しばらく無言のまま、雑踏の中を並んで歩いた。
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四日前と同じ道だった。日差しの角度も、道端の屋台の並びも、記憶にある光景とほとんど変わらない。だが玲は、行きと帰りの空気の質が、四日前と比べてわずかに変わっていることに気づいていた。
言葉を交わす回数が増えたわけではない。むしろ沈黙の時間のほうが、いつもより長いくらいだった。それでも、その沈黙には確かに何かが混ざっている。初めて二人一組にされた日の気まずさとは、質を異にするものだった。玲はその違いを、まだ正確な言葉に変換できずにいた。
(信頼、という単語を当てるには、材料が不足している)
その保留を、玲は否定しなかった。断定できない状態を、そのまま抱えておくことも、一つの査定の形として成立する。四話にわたって積み重ねてきた事実は、少なくともその方向を示す確率を、わずかながら押し上げていた。
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「なあ」
レヴィが、煙を吐き出しながら言った。
「次にまた組まされたら、あんたどうする」
「組み合わせは」
玲は答えた。
「ダッチが決めることです。私の意向は、判断材料の一つにはなりません」
「そういう話じゃねえよ」
レヴィは、舌打ちを一つ落とした。だがその音の硬さは、四話で聞かせたものとも、また少し違っていた。
「あんた自身は、どう思ってんのかって聞いてんだよ」
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玲は、その問いにすぐには答えなかった。
数歩分の沈黙を挟んでから、静かに口を開く。
「今回の組み合わせは」
一拍置いて、続けた。
「事前の見積もりよりも、良好な結果を出しました。次回、同じ組み合わせが指示された場合、拒否する理由は見当たりません」
「それだけかよ」
「それだけです」
玲は、視線を前に向けたまま言った。
「感想を付け加える必要は、業務上ありません」
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レヴィは、その返答に何も言い返さなかった。
短く鼻を鳴らし、煙草を吸い殻入れに投げ捨てる。だがその横顔には、不満というより、何かを飲み込んで納得したような静けさがあった。玲はその表情の変化を目の端で捉えたが、あえて言葉にはしなかった。
「業務上、な」
レヴィは、口の中だけでもう一度呟いた。それ以上、繰り返す気配はなかった。
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二人の足音が、ロアナプラの喧騒の中に紛れていく。
事務所へ戻る道のりは、まだ半分ほど残っていた。玲は、鞄の中の手帳を意識しながら、そこに書き加えたばかりの一文を思い返した。
(出入り口を確認する客が、また一人。目的は不明。歩き方に訓練の痕跡あり)
その一行は、まだ結論を持たない一つの変数として、静かにページの隅に残されている。二話で覚えた違和感と、今日見た男の視線。二つの点が、いずれ一本の線につながるのかどうかは、今の玲には見積もることができなかった。だが線につながる確率は、ゼロではない。玲はその一点だけを、頭の中に留めた。
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隣を歩くレヴィは、その変数の存在にまだ気づいていない。
いつも通りの足取りで、少し先を歩いている。玲はその背中を一度だけ見てから、歩調をわずかに速め、隣に並び直した。今日という日は、大きな出来事も、派手な結末もないまま終わろうとしている。それでも玲の帳簿には、次の査定を静かに待つ一行が、確かに刻まれていた。
ロアナプラの午後は、いつもと変わらぬ喧騒を続けている。だがその喧騒の奥では、まだ正体の知れない何かが、ゆっくりと動き始めていた。それを、玲はまだ誰にも伝えていなかった。
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事務所に戻ると、ダッチはすでに無線機の前に座っていた。
「金は届けてきたか」
「明日、先方の口座に振り込まれる手筈です」
玲は答えた。
「請求額に相違はありませんでした」
「そうか。ご苦労だったな」
ダッチは、それだけ言って無線機のつまみに視線を戻した。玲はその横で、鞄から手帳を取り出しかけて、一度手を止めた。
奥の席にいた男のことを、今この場で報告するべきかどうか。玲はその判断を、もう一度だけ頭の中で見直した。確度の低い情報を、確度の高いものとして扱えば、判断を誤らせる材料になりかねない。玲はその結論に従い、手帳を鞄の中に戻した。
「何か、あったか」
ダッチが、無線機から目を離さないまま尋ねた。手を止めた玲の動きに、気づいていたらしい。
「特には」
玲は答えた。
「報告するに値する事案は、現時点では確認していません」
「そうか」
ダッチはそれ以上追及せず、短く頷いただけだった。玲の判断を疑う様子はない。材料が揃っていないという玲の言葉を、そのまま受け取るだけの信頼が、その反応の短さには滲んでいた。玲はその信頼の重さを、数字にはしないまま、静かに受け止めた。
(もう少し、材料が揃うまで)
その一文だけを、胸の内に留めた。
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事務所に、夕方の気配が忍び寄り始めていた。
窓の外では、屋台の明かりが一つ、また一つと灯り始めている。ベニーはすでに端末の電源を落とし、伸びをしながら椅子から立ち上がっていた。ルマジュールは、ソファの上でうとうとと舟を漕ぎかけては、はっと目を覚ますことを繰り返している。
「今日、結局何もなかったわけ」
ルマジュールが、あくび混じりに尋ねた。
「揉め事は起きませんでした」
玲は、机の上で今日の記録を清書しながら答えた。
「静かな一日でした」
「珍しいじゃん、姐さんと組んで何も壊れないなんて」
ルマジュールがそう言うと、少し離れた場所で得物の手入れをしていたレヴィが、片方の眉を上げた。
「あたしだって、いつも壊してるわけじゃねえよ」
「え、そうだっけ」
ルマジュールが本気で首を傾げると、レヴィは舌打ち一つでその話を打ち切った。玲はその一連のやり取りを、手を止めずに横目で見ていた。ペン先が紙の上を滑る音だけが、二人のやり取りの合間に静かに続いていた。
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玲は、手帳の最後のページに視線を落とした。
今日の記録は、いつになく簡潔だった。修繕費の照合、支払いの手筈、揉め事の発生件数はゼロ。数字だけを見れば、これといって特筆すべき点のない一日だった。だが手帳の隅には、まだ結論の出ない一行が残されている。
(出入り口を確認する客が、また一人。目的は不明。歩き方に訓練の痕跡あり)
玲は、その一行を指先でなぞった。今すぐに答えの出るものではない。だが答えが出ないという事実そのものを、記録として留めておく価値はある。玲はペンを置き、手帳を静かに閉じた。
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「もう終わったのか」
いつの間にか、レヴィが得物の手入れを終え、玲の机の脇に立っていた。
「今日の分は、終わりました」
玲は答えた。
「地味な一日だったな」
レヴィは、そう言いながら伸びをした。
「地味な一日、というのは」
玲は、鞄の留め金を確かめながら言った。
「悪い評価ではありません。損失がゼロの日は、統計上、最も望ましい部類に入ります」
「あんたのそういう言い方、慣れてきた自分が怖いわ」
レヴィは、短く笑ってそう言った。皮肉のようでいて、そこに込められた響きは、四話の頃よりも幾分か柔らかくなっていた。
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事務所を出る頃には、日はすでに西の水平線に近づいていた。
橙色の光が、湿った通りの水たまりに反射している。玲は鞄を抱え直し、隣を歩くレヴィの足取りを、視界の端で追った。二人一組にされたあの日から、五日が経っている。短い期間だったが、玲の帳簿には、その五日間の記録がすでに幾つも積み重なっていた。
(繰り返される損失は、学習によって減らせるか)
玲は、その問いを頭の中で静かに反芻した。今日という一日だけを切り取れば、答えは肯定的に見える。だが損失の総量がゼロに近づいたとしても、それが完全にゼロになることはない。玲はその限界を、悲観としてではなく、一つの前提として受け止めていた。
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「なあ」
レヴィが、煙草をくわえながら言った。
「あんたと組んで、五日か」
「五日です」
玲は頷いた。
「短い期間ですが、記録としては十分な量が集まりました」
「十分な量、ね」
レヴィは、煙を吐き出しながら続けた。
「じゃあ、次はもっと長い期間組んでみりゃ、あんたの数字もっと増えるってことか」
「その可能性はあります」
玲は答えた。
「ただし、それを決めるのは私ではありません」
「わかってるよ、そんくらい」
レヴィは、そう言って短く笑った。呆れと、それだけではない何かが、その笑い方には混ざっていた。
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二人は、それ以上言葉を交わさないまま、夕暮れのロアナプラを並んで歩いた。
街灯がまだ灯らない時間帯、通りの輪郭は橙と紫のあいだで曖昧に滲んでいる。玲はその光の変化を目で追いながら、隣を歩くレヴィの横顔を一度だけ見た。刺々しさは、まだ完全には消えていない。だがその奥にある何かは、五日前よりも確かに輪郭を持ち始めていた。
玲の帳簿には、今日もまた一行が書き加えられている。数字にできない何かを、玲はまだ言葉にできずにいた。それでも、いずれこの帳簿のどこかに、その言葉を書き加える日が来るかもしれない。玲はその可能性を、否定はしなかった。
「三度目の正直、か」
不意に、レヴィが呟いた。独り言に近い声量だった。
「な。あんた的には、あれ、どういう意味なんだよ」
「三度で成功する確率が特別に高いという意味では、すでにないと申し上げました」
玲は答えた。
「ただ」
一拍、間を置いた。
「三度という数字に、後から意味を見出すことは、可能です。この五日間がそうであったように」
「後づけかよ」
レヴィは、短く笑った。
「別に、いいけどな。それはそれで」
夜の気配が、少しずつロアナプラの街を包み始めていた。橙色の光は薄れ、通りの輪郭が藍色に沈んでいく。玲はその変化を目の端で追いながら、鞄の中の手帳と、まだ答えの出ない一行の存在を意識の底に置き直した。三度目の正直と呼ぶには、まだ早い。けれど確かに積み重なった五日間の記録を胸に、玲とレヴィは、暮れゆく街の中を歩いていく。
その足音は、いつもより少しだけ、間合いが揃っていた。それが何を意味するのか、答えを出す式は、玲の中にまだ存在しない。ただ、式が存在しないという事実そのものを、玲は今日静かに帳簿の外側に置いておくことにした。