継国家の一室で老婆が静かに横になっていた。
今朝に長年共に過ごしてきた夫が息を引き取ったばかりであった。
彼は良き人であった。
これ程長く過ごしておきながら、喧嘩らしい喧嘩をした事もなく。二人の様なおしどり夫婦になりたいとよく言われたものだった。
きっともう自分もそれほど長くは無い。
数年も持てば御の字であろう。
彼ならば極楽浄土にも行けるだろうから、後は自分も許される事を祈るだけ。
今頃天に向かって進んでいるであろう彼に対してゆっくりと念仏を唱えていると、不意に耳元で声がした。
「もし、夜中にすみません。
どなたかいらっしゃいますか?」
その一言で老婆は目を開けた。ゆっくりと起き上がりながら、聞き間違いかと思案する。
それほど大きな声には聞こえなかったのに、妙にはっきりとその声を聴きとれたのが不思議であった。
念のために、扉を開けて外を見ても誰もいない。
風が運んでくる秋口の寒さにぶるりと身を震わせて、老婆はその身だけでなく心まで冷えている事を自覚して悲しげに微笑んだ。
互いに大往生と言える程生きても、やはり別れの悲しみは堪えるかとまた寝に戻ろうとした時。
「こちらです」
あり得ざる上空からの言葉に、ばっと宙を見上げた。
秋の月から降り注ぐやらかな光を、飲み込むような『黒』がそこにはあった。
夜の闇と混ざり合いながら、月明かりにその輪郭を少しだけ覗かせて。
──天狗は舞い降りた。
「ひぃっ・・・・!!」
今目の前にいるそれが、恐るべき物の怪の類だとすぐに察して老婆は腰を抜かして後ろへと倒れこんだ。
その様を見ながら、ふわりと天狗は地に降り立って手を差し伸べた。
「ご安心を。あなたに害をなすつもりはありませんから」
返事は無い。ただ老婆は必死に床を手で押し込みながら、距離を取ろうと藻掻いていた。
その様子を天狗は何も言わずにただ眺めるだけ。
ずるりずるりとその体を引きずりながら、老婆の視線が揺れ動いてある一点に吸い込まれる。
怪物の背後に広げられた大きな羽。
それを見て、ぽつりと言葉を零した。
「天狗・・・?
もしかして、あの人が言っていた・・・」
「はい、一心の刀を受け取りに来ました」
天狗は神妙な顔で深く頷いた。
あんぐりと老婆の口が開いてから、静かに右手が口元に添えられる。
「まさか本当だったなんて・・・」
あの人は死ぬ間際になって何度か、自分が先に死んだのならば残った刀は天狗にくれてやって欲しいと言っていた。
「実はな。天狗と友達になったのよ」と笑いながら言うものだから、どうせいつもの下らない冗談だろうと笑い飛ばしていたのに。
確かに今。
彼女の目の前に否定しようのない現実として、天狗は存在していた。
これまでの人生、生活の片隅で人ならざる彼らの息吹を感じた事は幾度もあれど、こうして直にその姿を見たのは初めてであった。
自身の孫よりも幼く見えるのに、身に纏う空気のその異質さよ。
彼女の人生で見て来たどんな人間よりも美しく、怪しく、禍々しい有様。
こんなモノと人間が、本当に友情を結ぶ事なんて出来るのかとすら思う。
それでもきっと、あの人が約束を交わしたのは事実なのであろう。
まだ上手く力の入らぬ下半身に鞭を打ちながらなんとか立ち上がって、老婆は刀を取りに向かおうとした。
戸惑いは未だに心をかき乱している。
だが、彼の最後の願いなのだ。叶えてやらぬという選択肢は無かった。
「良ければ私も彼に手を合わせても構いませんか?」
遠慮がちな天狗の声が聞こえた。
その声に振り返ってみれば、ただ悲しみに暮れた顔だけがあった。
家族や村の人間に夫の死を伝えて回った時でも、こんな顔は見たことが無い程に。
そこでようやく彼女は、あの人は自分の知らぬ所でこの天狗と本当に深い関係を築いていたのだと理解した。
あの黒い着物は、恐らく本当に彼の死を悼む為の喪服なのだ。
それならば断わる訳にも行くまいと、彼女は天狗を家にへと招き入れた。
そうして彼の元へと案内する途中。
老婆ははたと天狗にまつわる昔のことを思い出した。
「そういえば子供達が小さい頃熱を出して、あの人が何やら天狗の妙薬だとかを煎じた事があったのだけれども」
七つまでは神のうちとよく言うが、その妙薬のおかげで我が家は誰一人として失う事はなかった。
あの人はよく山に籠っていたから薬草にも特別詳しいのだと思っていたが、もしかすればこの天狗が関わっていたのか。
「ああ、あれですね。覚えていますよ。
彼が珍しく私に頼みごとをした時の出来事ですから」
さらりとした天狗の肯定。
それで自分はこの天狗に大きな恩を受けていたらしいと気づいて、老婆はすぐさま感謝の念を伝えた。
詳しく聞けばこの辺りには生えていない薬草まで融通してもらったそうで、「お構いなく」と手を掲げる天狗に、ひたすら頭を下げ続けた。
けれど、最後にその一言はするりと彼女の口をついて出てしまった。
「でもあの人とは随分と長い付き合いだったのね」
一体それはどちらへ向けて零れた嫌味だったのか。
すぐに命の恩人に対して、少しばかり刺々しい言い方だったやもしれぬと後悔したが、けれど天狗は別の意図を汲み取った様で寂しげに笑った。
「長い付き合い・・・。ええ、あなた達の感覚で言えば、きっとそうなるのでしょうね。
初めて出会ったのは彼が成人する前でしたから」
本日何度目の驚愕であろうか。
それは自身よりも長い付き合いであった。隣町に住んでいた私が彼と出会ったのは、彼が成人してからのことである。
そして、それだけ長く生きていながら目の前の天狗は若々しかった。
きっと彼と出会った時から、いやそれよりもずっとずっと昔からその容姿は変わっていないのだろう。
人外が年を取らぬというのは分かっていたが、こうして過ぎた時間の長さを実感すると自分達とは違う世界に住んでいるのだと思い知らされる。
きっと彼女にとって、数十年という期間はそれ程大したものではないのだ。
一体どうやってあの人は、人と妖怪という障壁を乗り越えてこの天狗と仲良くなったのであろうか。
・・・・・一体どうしてあの人は、この天狗の事を私に話してはくれなかったのだろうか。
悲しげに沈黙する天狗を前に。
私はその疑問を発する事が出来なかった。
「こちらです」
あの人が眠る部屋の扉を開ける。
部屋の中心には眠る様に横になったあの人の姿があった。
ただその胸が呼吸によって膨らむことは無く。どうしようもない淋しさと冷たさだけが部屋には詰まっていた。
そんな部屋の中へと、ふらふらと天狗が歩いていく。
現実を確かめる様に一歩一歩ゆっくりと。
「本当に死んでしまったのですね・・・」
近くまで歩み終えた天狗が、彼を見下ろしてぽつりと呟いた。
その綺麗な黒髪が垂れ下がって、彼女の顔を覆った。
「人の死なんてこれまで数え切れないほど見てきたというのに・・・」
僅かに彼女の声が湿っていく。
ゆっくりと膝を付いて、彼女はあの人の傍に腰を下ろした。
「一心・・・・・」
悲痛な泣き顔であの人の顔を撫でる少女の姿に。
どう見てもその画は祖父を亡くした子の様にしか見えぬというのに、ただ私の心に浮かんだのは。
あの人への生涯で初めての疑いであった。
自分よりもずっと美しく、年を取らぬ彼女の存在を隠していた事に、私の心は揺り動かされていた。
「思っていたより、あなたはずっと浮気性だったのかしら・・・?」
☆
彼の元に案内してもらった後、約束通り老婆は刀を持って来た。
「これを・・・・。
あの人が残した刀です」
「はい、しかと」
皺くちゃな手で老婆は刀を差しだした。
確かに年を刻んだ彼女の手と、それより長くを生きながら年を刻まぬ私の手が交わる。
その刀の重みを感じながら、私はしっかりと刀を握りしめた。
そのまま手元へと持ってきて、その刀身をゆっくりと抜き放つ。
何度見ても、そこにある様な数打ち。
何の変哲もないただの刀である。
だがこの刀こそが、数々の大妖怪を切り捨てたのだ。
一心。誰にも知られぬ最強の大剣豪よ。
あなたの誇りは、私がきちんと受け取りました。
じっと刀を眺める私の姿に何かを感じたのだろう、不意に老婆が問い掛けてきた。
「あの人は、強かったのですか?」
何も知らぬという風に。
私はただ彼女の瞳を見つめた。その瞳に、一体彼はどう映っていたのか。
人の世界での彼を、私がほとんど知らぬ様に。
戦いの世界での彼を、きっと彼女はほとんど知らぬのだ。
「ええ・・・・。
恐らくあなたが想像するよりも、ずっとずっと強かったですよ」
老婆は目を大きく見開いていたが、今彼女の脳裏に再び描かれている姿ですら、間違いなく実際の彼には遠く及ばないはずだ。
あんな規格外、想像なんて付く訳がないのだから。
そうして彼女は「そうですか」とぽつりと呟いて、寂しそうな表情を浮かべた。
「戦う事を全く好まない人だと思っていたのだけれど・・・。
けれど、そうではなかったのね」
「いいえ、あなたの言う通りの平和主義者でしたよ。
人知れず世の為人の為、人を食らう妖怪へ刀を振るっていました」
彼は何かを奪うために、誰かを傷つけるために刀を振るった事などない。
争いと殺生を嫌う彼の剣は、余りにも高潔で綺麗であった。
だからこそあの鬼ですら、敗れた後に彼の剣をつまらぬ殺生で汚す訳にはいかぬと降伏を受け入れたのだから。
「でも、あなたとの試合は楽しんでいたのでしょう?
そうでなければ、あの人が刀を託したりはしませんから」
「・・・・・・・・」
そうして、その唯一の例外であると自負している私は。
その言葉にただ押し黙るしかなかった。
さすがは彼と連れ添ってきた人間である。よく分かっていると言うべきか。
私はゆっくりと言葉を探しながら、ぽつりぽつりと語り掛けた。
「・・・・そうですね」
「私達は、・・・最高の友であり。
・・・そして」
「互いに、──最強の好敵手でした」
これだけは胸を張って、彼女へと告げた。
これだけは彼女に知っていて欲しかった。
私と彼女の、数瞬の視線の交わり。
それは共に彼の傍にいた数十年を分かりあうには余りにも短く、そしてそれで充分だった。
静かに刀を鞘へと納めて、彼女に背を向けた。
人外は決して人と共に生きる事は叶わないのだ。
唯一許される事は、共に終わることのみ。
その残酷を知っていたから、人間の社会に潜り込むことは無く。
私達はお互い人と妖怪の領分のその端っこに立って満足していた。
家を出て空を見上げれば、月光が雲を照らす綺麗な夜であった。
彼と酒を飲みかわした時はいつもこの様な夜であったか。
なんだか妙に今日の月は寂しくて、また心の内に悲しみが波打ってくる。
きっと妖怪の山に帰ったならば、彼を見送る為に開かれた鬼達の宴はまだ続いているであろうから、この悲しみを紛らわせる為に彼らの酒をいくらか頂く事に決めた。
そうして私は最後に老婆と顔を見合わせた。
「それでは。
あなたもご健勝で」
日の世界で生きる者よ。
共に生き、共に終わる者よ。
どうか彼岸では彼と末永く。
「さようならですね、一心・・・・」
別れの言葉を告げて、私は夜の世界へと飛び去った。
ただこの目からあなたへの"思い"を零しながら。
ああ、この思いに名を付けるとするならば。
きっと愛情と呼んでしまえば余りにも程遠く──
本作のヒロイン(?)
射命丸:メインヒロイン。
まあ互いに向ける感情はほぼほぼ友情なんだけど、そういうルートが無い訳でも無い。
老婆:サブヒロイン。
周辺の村でも話題になった器量良し。偶々隣村に訪れた主人公に惚れ込んだ彼女からの働きかけで結婚した。
鬼達:二人のヒロインに負けず劣らずの好感度なのに、主人公からの好感度はそんなに高くない可哀そうな集団。