今は昔。妖怪全盛の平安を過ぎ去りはしたものの、まだ夜の闇は人を惑わした時代。
人ならざる者は依然として、人々の間で恐怖と共に確かな危機感を抱いて語られていた。
そんな時代において、ある所に宙を駆ける少女を見つめる老人がいた。
少女の背中から生えた、濡れた髪の様に艶やかな黒い翼。
一目で分かる人外の特徴に、しかし老人の顔に恐怖の色は無く。
その羽を大きく広げて悠々と空に飛ぶ天狗を、ただ感慨深く眺めるだけであった。
周囲を旋回していた鴉天狗は、最後に男に目線を向けてから背を向けて遠ざかって行った。
ほんの少しの間に彼女は遠くに見える山のその向こうにまで飛び去っていた。
入道雲の高く積み上がった夏の空に黒い点が消えていく。
男はじりじりと目に刺さる様な眩しい空を眺めてから、ゆっくりとその腰に掛けた刀を引き抜いた。
辺りは多少開けているが人里からはかなり離れた山の奥深くであり、もう彼の他に誰も周囲に物影など見当たらない。
だがそれでも男は空の彼方に消えた天狗に向かって、刀をすっと差し向けた。
一体あの天狗は既に何里程の空を駆けたのか。あれは後どれ位の距離を飛ぼうというのか。
そのどちらも知る術を男は持たぬ。
ただ知っている事はあの天狗にとってこれ位の距離なぞ有って無い様な物という事だけ。
この巨大な山の一つや二つはすっぽりと入りそうな遠間が、二人の試合の間合いだったのだ。
ふっと息を吐いて、男は緩んでいた精神の糸を張り詰めていく。
これは食う者と食われる者の生死を賭けた殺し合いではない。
これは恨み憎しみあって、互いを傷つけあう為の争いでもない。
どちらが速いのかを決めるだけの、何の意味もない力比べ。
ただそれだけであった。
「さて今日こそ切ってやろうぞ、射命丸め」
勝負が始まれば決着は一瞬。
だからこそ男はこの少しばかりもどかしい準備時間に、侘び寂びの味を見出していた。
☆
少しばかり時を遡って。
射命丸と呼ばれた天狗はゆっくりと山間を飛びながら、地表を見回していた。
老人と天狗はこれまでに、次はいつに試合をやろうかなんて話し合ったことは無い。
お互いがそれぞれふらりと山に入って、偶々かち合ったのなら試合をするだけだった。
そうして今日の男は特に鹿や猪などの獲物を探してはいなかった様で、いつもの場所で鍛錬している姿を発見する。
直ぐに視線を察したのか、男は振るっていた木刀を地面に突き刺して上空を見上げた。
そのまましばらくの間天狗は見せつける様に空を飛び続けた。わざわざ彼の元に降り立って、挨拶を交わす間柄でもない。
ある程度してお決まりの合図も伝わっただろうと、飛び去る前に男に一瞥だけくれた。
男はその額にある鮮やかな炎の様な痣を除けば、特段目を引く風貌ではない。
その骨ばった体に、白髪交じりの髪を見れば刀を振れるのかすら心配になる。
しかしながらあの老人はそんな見た目程度では到底推し量れぬ常識外れの化け物である事を、天狗はよく知っていた。
この男の名を、『継国・エーデルワイス・一心』。*1
この世の理すら乱す程の人切りの才を与えられながら人を切る事を嫌い、ただの棒振りで終わる人生を良しとした男である。
己の腕だけで天下を取れると知りながら、静かに畑を耕し続けて生きてきた。
それでもこの荒れた戦乱の時代である。身を守る力を欲してその才を一人磨いてきたが、これまでの人生で刀よりも農具を持った時間の方が圧倒的に長い。
そんな人の世では誰にも知られぬこの男こそが、恐るべき大妖怪の様々を切った大剣豪であった。
単身で国一つ滅ぼせる程の化け物達を相手にしてその身に一点の陰り無く。
後の幻想郷でその名を轟かす花妖怪に隙間妖怪、そして鬼の四天王ですらもこの男に掠り傷の一つも与えられずに容易く切り捨てられた。
そうして打ち破った妖怪を、その身に宿した"契約"の能力によって不殺生の戒を結ばせて命だけは見逃した。
彼にとって妖怪は恐れる敵ですらなく、あっさりと無力化しては言葉を問い掛けるだけの余裕があったのだ。
後の幻想郷にはその様な死なずとも食うに困った妖怪が多く身を寄せ、遠い未来ではその小さな異界のみで男の名は語り継がれる事となる。
あれこそが本物の化け物だったと。
そんなもはや無敵と言っても過言ですらない人間を相手に天狗は自然体で向き合った。
この数十年何度も繰り返してきたことであったからだ。
妖怪である彼女にとってもそれなりの付き合い。向こうにとってはまだまだ若い青年だった頃からの長い付き合いとなる。
射命丸こそが彼が初めて出会った物の怪であり、そして一生を通して切ろうとしてきた好敵手であった。
この天狗は誰よりも多く長く彼と戦って、しかし未だに決定的には負けていない。幾たびの果し合いの末に無数の刀傷を刻まれたが、その全てでなんとか芯を外して逃げ切って来たのだ。
ぎりぎり負けていないと言い張っているだけの、泣けるほど情けない引き分けでしかない。
だがそれだけで妖怪の山の鬼達は彼女に一目も二目も置いた。
けれど別にそんな尊敬が欲しくてこの天狗は挑んでいる訳ではない。*2
欲したのは最速のその名。天狗とはそういう種族であった。
例え力で負けようと、しかし速さであれば負けぬと素知らぬ顔が出来る。それ故力を示さずにはいられない妖怪でありながら、天狗は飄々と自身の全力を隠して生きる事が出来た。
だが。だからこそ。
速さでだけは人間に負ける訳にはいかなかった。
天狗が雲の上層に反射した太陽の光が眩しく感じる程に高く飛び上がった頃、ビシバシと鋭い剣気が体を通り過ぎた。
そろそろ始めようかという彼からの物騒な合図であった。
もはや目視は出来ぬ程の遥か彼方の大地に立つ人間を睨みつける。
「最速の名はいい加減返してもらいますよ」
届かぬと知りながら語りかけて、宙で体を一捻り。
足が天を突きさすようにして、天狗はその身を重力へと任せた。
速さの追及の果てに推進の源足りえないと判断した翼を後方に伸ばしきり、大きな三角を形作る。
後の幻想郷の賢者が人の作り出した戦闘機を見て、収斂進化の言葉を思い出す程に。
その姿は、鋭い流線形であった。
「いざ尋常に……
━━━勝負と行きましょうか」
夏でも肌寒い高所の風が全身を撫でる。
空の広さを噛み締める自由落下。
ああ。こんなにも心地よいというのに、なぜ人は落ちる事を恐れるのか。
強まり続ける風の壁が耳元でごうごうとうるさく鳴き始めた辺りで、射命丸は風の制御を掴んだ。
風を推進の力に使うのと同時に、薄く風の刃を研いで目の前の大気を切り裂いていく。
ただ速くを求めるだけではない。速く飛べば飛ぶ程に邪魔をする風を如何に押しのけるかも天狗の腕の見せ所であった。
昔は他の天狗と同じ様に風の防壁を編んでいた。
だが大気とはどう切ればよいか。その最上の答えを、自身の操った風を切られる事であの男から学んでいた。
最上級の霊刀を以てしても切り傷すらそうそう付けれぬ鬼の体を、あれはただの刀でいとも容易く両断出来るのだ。
その猿真似でさえ空気を切るには十分すぎた。
ほとんどの天狗が耐えかねるまでに苛烈になった空気抵抗を無視して、甘い重力の蜜を貪り続けた。
加速度的に近づく大地。
音すら置き去りにする桁並み外れの速度。
衝突の目前で、垂直から水平へと舵を切る。
ここからが本番。
あの全てを切り裂いてきた剣神の、その恐るべき領域にへと突っ込むのだ。
意識を加速させて、時の流れを薄く切り取っていく。
それは文字通り目が瞬くまでの一瞬の世界であった。
緩慢な視界の明滅に、普段は意識すらしない瞼の開閉を再認識する。
きっと今なら小さき虫の慌ただしい羽ばたきですら、その一振りをつぶさに観察出来た。
そして、この世界に至ってなお。
男の剣は身震いする程に早いのだ。
いきなり背中を這いまわる悪寒に。
右側に体を投げ出す様にして、回転しながらの咄嗟の回避。
寸前まで天狗がいた場所を不可視の斬撃が通り過ぎる。
まだあの老人との間にはいくつかの尾根が挟まっているというのに。
あれの振るう剣は剣術の在るべき領域を当たり前かの如く逸脱して、距離という最大の制約を無視した。
信じがたい事に幻想の力を借りずして、剣とは飛ぶのだ。
『あなたは"ことわり"という物を知らぬのですか?』
あの男は気が付けばいつの間にか刃は飛んでいたと、酒の席でそうほざいていたが。
この世の理の内側で生きているはずの人間なのに、理の外で生きている妖怪よりもよっぽど奇想天外で、何物にも縛られずに自由であった。
そして勿論この一撃で終わりなどではなかった。
間髪入れずに致死的な斬撃の雨が地上から降り注ぐ。
神経を擦り減らす紙一重の回避の連続であった。
切り裂かれる空の泣く声を聴きながら、天狗は幾重もの大きさの異なる円を空に描き続ける。
僅かに前に進むために、その何倍もの距離を余分に移動しながら少しずつ距離を詰めていく。
それは傍から見たならば枝から舞い落ちた木の葉が地に着くまで位の間であっただろうか。
それまでに向こうからの攻撃を躱す事、数百。
ようやく眼下の山を一つ越えたばかりで依然として距離は長く、未だに男の姿は山の緑に紛れて判別する事は叶わず。
それでも天狗の目に諦めの意思は無かった。
「まだこれからですよ、私!!」
それとほぼ同時、老人は剣を振りながら嬉しそうに笑った。
「あやつめ、また速くなりおったな!」
この前にやりあったのは凡そ半年ほど前だったか。
年を取るに連れて、あの天狗と剣ではなく言葉で語らう事の方が増えた。
それでも体の衰えと技術の冴え、未だ後者が上回っている自信はある。
自分はわずかなりとも確実に剣の道を上ったはずなのに、しかし前回よりも天狗の姿を捉えきれていない。
きっとあれも少しばかりまた歪めたのであろう。
妖怪としての在り方を歪め、速さへの不要を削り、力を捨ててまで。
より軽く。より鋭く。より速い『風』へとなったのだ。
これまでどんな妖怪も我が剣の十二振りを超えて立っていた者などいないのに。
日の呼吸拾十三ノ型、それを何十回繰り返してもほんの僅かにその身に掠らせるのがせいぜい。
するりするりとあの風は自由に空を舞い続けていた。
ああ、あと少し。あと少しなのに。そのあと少しがいつも届かぬのだ。
それがどうしようもなく歯がゆかくて。
このまま我が人生はあの風に届かぬまま終わるのか、と焦燥が身を焦がした。
不足の無い人生であったのに。
悲しみに溢れるこの戦乱の時代に飢える事無く、奪われる事無く。
よく尽くしてくれる美人の嫁を貰い、天狗の妙薬によって子を一人も失わずに済み。
一体これ以上の何を望もうか。
けれど、これがひどく浅ましい事だと自戒しながらも。
己はあれを切りたいという欲を捨てきれなかった。
「はっはっは!やはり
━━━参ノ型 『烈日紅鏡』
右回りに飛ぶ天狗の先に攻撃を置けば、すぐに奴もそれを察して体を捻り上向きへと舵を切った。
さて、こうなれば。
重なる様に縦の斬撃を放てば相手は右か左かの二択を迫られる。
━━━肆ノ型 『灼骨炎陽』
大きめに体ごと剣を振りかぶって、空を二つに切り分けた。
直感に従って、次に狙うのは左側。
曲がり始めるであろう点を狙って、突きを構える。この広大な空の向こう、その見えぬ程小さな一点を穿つなんて針に糸を通すどころの話ではない。
だが外すつもりはなかった。
━━━伍ノ型 『陽華突』
渾身の突きによって世界がズレた結果、空へと伸びる奇妙な白線が僅かに残った。
その線の続く先、気配からして間違いなく天狗は己の予想通りの場所を飛んだはずである。
しかし、あるのはほんの僅かな手ごたえのみ。
薄皮を切り裂いた程度であろうか。また躱されたのだ。
間違いなくあれは己の剣の起こりに反応している。
こちらがどう剣を振るうのかを瞬時に察して避けている訳だ。
「それでこそよな・・・!!」
くっくっと男の喉が鳴った。
切れぬ事がこんなにも悔しいというのに。
それでも、この世にまだ己に切れぬ物があるという事が、どこか嬉しかった。
ほんの僅かな一瞬の、気の遠くなるまでの積み重ねの果てに。
遂に私は最後の尾根を越えた。
向こうの山に米粒程度の大きさになった男の姿が見えた。
完全に避けきる事が叶わなくなった斬撃によって、体の至る所から血が流れ出していたが、あともう少しだと思えばいくらか気力が戻る。
そのまま山の斜面に沿うように空を滑り落ちていく。
もはや笑い話の類ではあったが、天狗が山を背にして飛べば、あれは山そのものを切ってしまわぬ様に加減して刀を振るわねばならぬのだ。
勿論あの域に至った剣士にとって、そんな事で生まれる隙などあって無い様な物である。
だが何もかもを投げ捨ててその領域へと割り込んだ天狗にとっては、ほんの一寸ばかり身をよじるだけの隙になった。
そう、これでまた勝負は五分五分。
まだまだ自身は舞えると判断して、天狗は思いっきりに空気を吸い込んだ。
体中を吹き荒れる風の感覚と背筋から登ってくる緊張感。
そうして天狗はその意識をより深く落とし込みながら、また一つ時を縮めた。
それは、空を迸る電光も淡く消える石火も止まって見える程の世界であった。
矢の如く過ぎる光陰ですらひたすらに遅く。
とうとう疾風は。
ここに迅雷を置き去りにした。
最終局面を目前にして、二人のやりとりは過激さを増していった。
僅かに加減をし損ねた男の攻撃が数本の木をすっぱりと切り裂き。
天狗が地を這うように飛び去った後の地表には、引き裂かれてぐちゃぐちゃになった空気の塊だけが残った。
ちらりと天狗は後方を目線だけで覗き見る。
きっと次の瞬間には、この周囲は私達によって破壊されつくして盛大な土埃を巻き上げる事になるだろう。
だが!そんな常人向けの、遅すぎる《次》とやらは!
私達にはまだ訪れないのだ!
ねえ、一心。あなたもそう思うでしょう?
だって、そんなにも笑っているのだから!
「ようやくその顔が見れましたね!!」
「来たか、射命丸!!」
お互いに会話するつもりもなく、ただ相手に向かって言葉を投げかけただけ。
次の言葉は続かない。
代わりにあるのは、鋭い風の刃の応酬のみ。
そうこの距離にまで近づいたならば、天狗の風は十分に人を切り裂くことが出来た。
目紛しく男の周囲を飛び周りながら、一心不乱に風の刃を放ち続けた。
見えぬ刃が神速で飛び交う、恐るべき剣劇の海。
その中心で、当然あれはその全てをあっさりと躱しているが、しかし回避が挟まれば当然その分圧力は減る。
そうして圧力が減った分、天狗は攻撃へと意識を割いていく事が出来た。
それは将来幻想郷で行われるスペルカードシステムとは全く別の、速さによる押し合いというべき弾幕勝負であった。
時たまの妙手によって天秤は揺れながらも、徐々に弾幕の比率は天狗に傾いていく。
地上に縛られ二次元的回避しかなせず、斬撃を一つ飛ばすのにわざわざ刀を振らねばならぬというのは男の弱点であった。
(それでも押し切れない・・・・!)
段々と天狗の体から流れる血は増えていくのに。
未だに男に掠り傷の一つも付けられず。
このままではジリ貧の末に、擦り潰される結末は避けられない。
奥歯を噛み締める。
いつもの様にまた負けを避けるだけの戦いで終わるというのか。
あなたに追いつけぬまま、私は━━━━━━
━━━━━━━━━
━━━━━━
━━━
脳がその光景の意味を近くする前に飛び込んでいた。
きっと全身全霊で足掻き続けた本能の叫びだった。
遅れて何が起こったのかを理解する。
彼の腕が本当にごく僅かにぴくりと震えたのだ。
それは少し意識が離れた後に、神経が再接続された筋肉の硬直である様に思えた。
本来であれば隙とすら言えぬそれも、この一瞬の戦いにおいては明確な隙にしか成りえなかった。
これまで一度もあれはそんな隙を晒した事などない。あれは当然の様に武人が求める理想を体現して、己の体の全てを意識化に置いている。
自分が彼を追い込んだ事で生まれた好機だったのか。二度と訪れないだろう千載一遇の機会に、天狗は己に残っている全てを速さへと費やした。
さて世界に問うとしよう。
速さの果ては一体どこなのか。
見渡す限りの、静寂と静止。
全てはただただ遅く。
雨粒が弾けるまでの、幾何学模様の変化を見届けるだけで退屈すら覚えそうな程。
それは、永劫と隣り合わせの刹那で。
私は極小の一瞬のその先に、不変の永遠を見た。
那由他の裏返し、零への極限の世界であった。
ああ、そうしてその時。
私の指先は━━━
もはや回避など考慮に無い全身全霊の突撃。
体の限界なんて疾っくの疾うに過ぎ去って、血は沸き立ち視界は赤く染まりつつあった。
それでも彼が刀を振るうよりも早く、先に己の風が到達するだろうと天狗は笑みを浮かべた。
━━━本当に届くのか。
周囲の景色は引き延ばされて、意味を持たない線に成り下がる。
ただ視界の中心で舞おうとする彼の姿だけが鮮やかだった。
━━━遂に届くのだ。
彼我の距離は潰えたぞ。
我々は既に互いの声がはっきりと聞こえる程の距離にまで踏み込んでいた。
もう目前の、遥か遠き終着点。
・・・しかしながら。
後僅かまで迫ったにも関わらず、男の口元から零れた僅かな笑みに。
天狗は即座に間違いを直感した。
もしやあれは武者震いだったのか。
果てを見つけた興奮が彼の腕を振るわせたのか。
我々の追い求めた速さの果てに。零への道の果てに。
絡み合う因果の鎖を超えて。逆らう事叶わぬ筈の時の壁を越えて。
あの剣は真に『 零 』にへと辿り着いたのか!!
それは切ったという結果が表れてから、切ろうと剣を振るう矛盾だった。
必要な過程の一切合切を無視して、いきなり結果だけを相手に押し付ける理不尽。
決して見落としてなどいない。男はまだ刀を振るってすらいない。
だが唐突に無数の斬撃の壁が視界を埋めたのだ。
(これは・・・・!)
天狗は信じられぬ物を見たとばかりに目を見開いて、自身の負けを悟った。
周囲を取り囲むこれら全ての攻撃を躱しきれるはずがない。
ああ、全く・・・・!
なんて滅茶苦茶!!
なんたる超絶技巧の、その意味不明さよ!!
もはや致命的な怪我を食らわぬ様にただ身を捩じるので精一杯だった。
あらゆる全てを切り裂いてきた刃が今更天狗の羽程度を切れぬ筈無し。
右翼を半ばからすっぱりと断ち切られて、誰よりも自由に宙を舞った天狗は。
遂に、地へと撃ち落とされた。
これにて━━━
御前試合とて恥じ入るばかりの至高の速さ比べ。
勝った所で何一つ得るものすらない、ただの意地の張り合い。
☆
舞い上がった土煙が晴れるのに合わせて男は残心を解き、天狗の元へと足を進めた。
「はぁ……はぁ………はぁ……。
おい、射命丸よ。これで認めざるを得ないだろう。
・・・儂の勝ちだ」
「・・・・えぇ。私の負けです」
その生涯で初めて息を切らしながら、男は地に伏せた天狗に笑いかけた。
切り落とされた彼女の右腕と右翼からは夥しい血が溢れ出て地面を赤く染めていたが、この程度なら人ならざる者にとっては致命傷になりえない事をよく知っている。
天狗は男に顔を向ける事無く、ただ遠くなった空を見上げて静かに微笑んだ。
雲がゆっくりと流れるのを眺めながら、ただ心のどこかに失くしてしまった悔恨の念を探していた。
遂に迎えた完膚なきまでの敗北に、しかし訪れるのは物悲しい喪失感だけだった。
あんなにも身の全てを焦がした速さへの熱はどこに行ったのだろうか。
これが二人の最後の戦いだった。
今から挽回するだけの時間なんてもう彼には無いのだから。
人として生き切った彼はその終わりを前向きに捉えていたが、妖怪として生きていく私はその別れを受け入れられずにいる。
ただ互いに速さを競うだけの関係だったはずなのに。
もっと殺伐としている物だっただろう。もっと私は器用に生きられただろう。
だが私は人間の尺度で生きようとした妖怪がどうなるかを知りながら、終ぞこの愚かな友情を捨てられないでいた。
人間よ。あなた達は余りにも早すぎるのだ。
自分とは無縁だと思っていたはずの感情の波に呑まれて、天狗はそっと目を閉じた。
そしてそんな心ここにあらずと言った状態の天狗の機微には気づかずに、男は誇らしげに刀を構えた。
「はっはっはっ!初めて、初めてだ!
何かを切って嬉しいと思ったのは!」
天に向かって立てられた刀を赤い血が流れ落ちて、握る手へぬめりとした感触を与える。
それが妖怪の血であれ、こんなものを好ましいと思った事など一度もない。
痛く苦しい事の何を喜べようか。
だが今この時胸の内にあるのは、すっきりとした達成感だけだった。
随分昔に目を奪われたあの自由な風を切った事が何よりも誇らしかった。
今になって武士が苦痛に歪んだ首を掲げてその事を誇らしげに叫ぶ、野蛮の意味を少しばかり理解する。
己はここまで武を積み上げたのだと示したかったのか。
己が下した相手がどれだけ強く厄介であったかを認めて欲しかったのか。
だがこんな山奥に語り掛ける人間などいるはずもなく。
いつの間にやら辺りに複数の視線を感じれど、気配からしてどれも物の怪の類だと思われた。
半分ほど何かズレた感覚。恐らくは以前に切った隙間妖怪の仕業なのだろう。
毎度試合をただ盗み見にしにくるだけであれが何がしたいかは分からぬ。
きっと何かしらを企んでいるのであろう、が。*3
それでも今はただ叫ばずにはいられなかった。
「天よ!神よ!ご照覧あられたか!
何よりも速く鋭き風を!
妖怪山の黒天狗、射命丸文を!」
ああ、どうか認め給え。褒め称え給え。
人ならざる我が友と。
心躍ったこの激戦を。
「我、ここに打ち取ったりいいぃぃぃぃ!!」
戦闘シーンとか「━」を使った表現の練習で書いてみました。
良ければ感想とか教えてくれるとすごく嬉しいっす。