アンチ・ヘイト要素あり
特別棟の一室。
そこに並べられた机の上には200ピースの無地パズルが、山をなして置かれている。
Aクラスの代表としてこの種目に選ばれた姫野は、目の前の光景を一瞥して深い溜息を吐いた。
「……めんどくさい、本当に」
絵柄があればまだ幾分か気も紛れただろうに、あいにく用意されたのは一切の手がかりもない無地のピース。
頼れるのはピースの形状の差異、指先から伝わる手触り。そしてそれを繰り返す地道な作業だけ。
突出した才能など持ち合わせていない彼女にとって、これほど退屈で気力を削がれる作業もなかった。
だが、ここで無様に負けるわけにはいかない。
クラスの命運を背負わされているわけではないが、余計な面倒事を引き起こさないためにもここで勝つことは最低限の義務だった。
『──開始!』
電子音の合図と同時に、周囲の空気が引き締まる。
部屋のあちこちでピースを無理やり押し込もうとする音が響き渡る。
だが、無地の200ピースにおいて、形を確認せずに直感で嵌めようなど愚の骨頂だった。
そんな周囲の焦りなどどこ吹く風とばかりに、姫野は自分のペースを崩さなかった。
まずは外周のピースを正確に選別し、枠組みを作っていく。
退屈で、地味で、誰が見ても華やかではない作業。
だが、こうした作業をこなすことにかけては、彼女は誰にも劣るつもりはない。
めんどくさがりつつも、任された仕事を感情に流されずこなすタイプであるからだ。
なにより竜崎から言われたのだから『貴女ならこの競技が来た時、勝ちは固いです』と。
この1年間、居心地の良い空間を提供してくれた。なら、それに恩返しするのも良いかも。それが彼女を動かす原動力だった。
「──姫野、状況はどうだ」
インカム越しに、司令塔である葛城の落ち着いた声が響く。一之瀬では無いのは、彼女よりもパズルに理解があるからだろう。
「順調。外周は終わって、内側を組んでるところ。……ただ、無地だからスピードはそこまで上げられない」
「分かった。他クラスの進捗を見る限り、焦る必要はない。そのままのペースを維持してくれ」
葛城の指示に、姫野は小さく頷いて返事をする。
他者がどうあがこうと関係ない。彼女はただ、手元にあるピースと思考だけに集中していた。
残り時間10分。
パズルはすでに3分の2以上が組み上がり、中央を残すのみとなっていた。
脳内でピースの形と空白の形状を照らし合わせ、最適解を探る。指先の動きに一切の迷いはない。
その時、隣の卓から荒い息遣いが聞こえた。他クラスの生徒が焦りからかピースを嵌め損ね、ガタガタと卓を揺らす音がする。
姫野はその雑音に一切視線を向けず指を動かした。
「……そこ」
最後のピースが、カチリと音を立てて完璧にハマる。制限時間までまだ数分を残しての、200ピースの完成。
顔を上げた姫野は、大型モニターのタイムを眺めた。
完勝──それは、誰よりも静かな勝利だった。
「ふぅ……これで、少しは文句言われないで済むか」
額に滲んだ汗を軽く拭いながら、姫野はため息とともに椅子に深く身を預けたのだった。
─────────────────────────────────
綾小路清隆の独白。
「あんな逸材が居たんですね。なら竜崎くんが出ないのも納得できます」
椎名の言葉にオレは頷いた。
姫野があそこまでの結果を出せたのも竜崎の指導によるものだろう。
アイツも意外と周りの人間の世話を焼く事があるらしい。
…そんな間にも試験は進んでいく。
第5戦目から順番に『サッカー』これはオレたちが勝った。
サッカー部の柴田が相手にも居たが、こちら側の方が総合力で上回ったからだ。
そして第6戦目の『空手』
必要人数:合計3人 必要時間:10分
ルール・1試合3分の寸止めルール。勝ち抜きルールを採用
司令塔・任意の対戦を一度だけやり直すことが出来る
「うし、俺の出番だな」
教室に来ていた石崎が勢い良く席を立ち、教室の外へ向かって行く。
それに椎名は手を振り、激励をした。
「頑張ってください、石崎くん」
「おう、椎名も伊吹も出番が来たら頑張れよな」
「あんた、余裕ね。負けたら笑ってやるわ」
相性の良い2人なんだな。それは椎名も同じ意見のようでオレと目が合うとゆっくりと頷いた。
「ふふっ、相変らずお2人と居ると賑やかでいいですね」
そんなやり取りを見て、椎名は両手を合わせて喜んだ。
***
武道場。
外の喧騒が嘘のように静まり返った空間に、柔道着が擦れ合う乾いた音と鋭い呼吸音だけが響いていた。
マットの上に立つのは、Cクラスの石崎大地と、Aクラスの神崎隆二。
「おいおい神崎! 頭脳派ぶってるお前が、まさか空手で俺とやり合う気かよ。手加減なしだぜ!こっちはケンカで培ったタフさが取り柄だからな!」
気合を込めて鋭い構えをとる石崎に対し、神崎は表情を一切崩さず、無駄のない美しい正統派の構えで静かに立つ。選抜種目としてのルール、そしてクラスの命運を背負っているからこその重みが、その佇まいから漂っている。
「……来い、石崎」
審判の合図とともに、石崎が踏み込んだ。 野生的な勘と勢いを乗せた重い右ストレートが、神崎の顔面を捉えようと空気を切り裂く。
「っ……!」
しかし、神崎はその一撃をわずかな上体の移動で華麗にかわす。
石崎が連続して繰り出すラッシュに対し、神崎は微動だにせずガードを固め、相手の重心の移動を寸分違わず看破した。
そして、石崎が踏み込みすぎてわずかにバランスを崩した瞬間、神崎の目が鋭く光る。
「隙ありだ」
呟きと共に、神崎の体が綺麗に旋回する。
無駄な動作を排除した鋭い回し蹴り。それが石崎の脇腹を完璧に捉えた。
それはこれまでの自分と決別した神崎の圧倒的な技あり、変化を確信させる鮮やかな一撃だった。
寸止めルールの為、ギリギリで止めたがまるで当たったかのように勢いよく石崎は地面に倒れた。息を荒げながらも、悔しそうに顔を歪める。
「マジかよ……!?お前、頭が良いだけじゃなくて空手まで強いのか?」
「……昔、少しやっていただけだ。それにお前の攻撃は脅威だった。ただ、踏み込むときにどうしても足が浮いていた」
神崎は差し伸べた手を石崎に掴ませ引っ張り起こした。汗を拭いながら、石崎は苦笑いを浮かべる。
「かなわねぇな。Aクラスってのは、頭が良いだけじゃなくてこういう隠し球も持ってやがるのか……まぁ、負けたのは悔しいけど、スッキリしたぜ!!」
神崎は静かにうなずき、服の乱れを直しながら窓の外を見た。
そこには、自分たちのクラスを率いる竜崎へ報いるという想いを祝福するように青く澄んだ空が広がっていた。
「……お互い、次は負けないようにやるだけだ」
選抜種目という過酷な舞台で勝ち星をもぎ取った神崎の背中は、Aクラスがただの仲良しクラスではないことを証明していた。
***
「石崎が負けるのか」
「そうみたいですね、石崎君も健闘していたんですけど…」
この試験で竜崎のクラスが一強だけでは無いと、知らしめることとなった。
彼らは竜崎の側近として、前を向いている。だからこそ、オレは少し楽しみが増えた。
そして『社会テスト』『ムカデリレー』『弓道』『レスリング』『数学テスト』『二人三脚』
それぞれのクラスの強みを押し付ける種目が続いた。
だからこそ、異例の事態である6勝6敗の状況が起こってしまった。
つまり、最終戦は全クラスの提出した種目からランダムで決められる。
第13戦目、その内容は──。
『チェス』
必要人数:各クラス1人 持ち時間:120分(切れ負け)
ルール・1対1の盤面を2つ同時に進行し、10手起きに盤面を交換する。ただし41手目以降も持ち時間は増えない。
司令塔・任意のタイミングから共通する持ち時間40分を使い、指示を出す事が出来る。
フィッシャールールなど、着手一回ごとに時間が加算されるルールではない。
これは恐らく試合時間が長くなる傾向にあるチェスを採用させるための策だろう。
そして何より、竜崎のクラスの種目だった。
神に微笑まれたのはアイツなのか、そんな思いがオレを襲うが目の前の椎名は種目が決まった時も変わらない笑顔を浮かべていた。
「6勝6敗で、最後の13戦目に挑める。しかもこの種目が最後に選ばれるなんて……頼んでみるものですね」
何故か、最後に来るのがチェスだと知っていたと言わんばかりの態度を椎名は取っていた。
「椎名は知っていたのか?チェスが最後に来ること」
「いいえ、ただの直感です。ですが、時にはそれを信じてみるのも良いですね」
そしてモニターの映像が変わり決戦の舞台が映し出される。
用意された舞台は、講義室の一角のようだ。そこにチェス盤が置かれていた。
「…Dクラスは誰が出るんだ?」
その質問に椎名は自分を指差しながら微笑んだ。
「私です、どうですか?ビックリしましたか」
「いや、椎名がここまで出てない以上出るとは思ってたぞ」
これまでの種目で椎名が選ばれていない事は知っていた。
なぜならオレとずっと雑談をしてたからだ。しかし、オレの答えが気に食わないのか頬を膨らまして抗議の視線を向けてきた。
「…綾小路くんはつまらないですね。そこは予想外でしたと言うべきですよ」
「…そうなのか?」
そうです、と言い切り椎名は席を立った。
そしてオレと椎名は並んで教室を出て、講義室に向かう。きっと相手にはAクラスからは竜崎、Bクラスからは坂柳が出てくる。
きっと接戦となる、そんな予感がするからこそ勝負が楽しみだった。
──いよいよ、最終戦が始まる。
────────────────────────────────
竜崎正の独白。
目の前に置かれたチェス盤。
これが来ることを私は楽しみにしていた。彼らは私たちと同じ数勝利を掴み取り、この舞台が用意されることは……
予想通りなのと同時に、既定路線だった。
「竜崎くん、今回はよろしくお願いしますね?」
「…なぜ今までの種目で出なかったんですか?」
「それはやる気が無かったからです。葛城くんが今回は全権を握るというのでチェス以外の種目ではわざと負けると言ってますから」
「相変らず、我儘ですね」
坂柳有栖は私を意味深げに眺めた後、この場にそぐわない人物である彼女へ視線を移した。
「椎名さんはチェスやった事あるんですか?」
「はい、一週間ほど前からです」
その言葉に嘘は感じられなかった。だからこそ、綾小路清隆が確かめるという意味で質問をする。
「それは素人というんじゃないか?」
「いえ、ちょっぴり毛が生えた素人です」
自信満々に胸を張って出た言葉に綾小路清隆は深いため息を吐いた。
「なるほどな…」
「私の限界はこんなところではありません。いざ限界突破ですっ」
その言葉に坂柳有栖は愉快そうに目を細めた。敵ではない、そう認識したのだろう。
「その心意気は買いますがそれでは私たちには勝てませんよ?」
「やってみなければ分かりませんよ。私もこの一週間頑張ってきましたから」
それに返答を返す事はせず、私たちはそれぞれの席へと歩みを進めた。
そして私と綾小路清隆。そして坂柳有栖と椎名ひよりが対面して座る。
この種目は10手ごとに盤面を入れ替える都合上、対面に居る人間との勝負が基本だ。
つまり、純粋な実力勝負となる。
私は目の前にある黒の駒をゆっくりと触った。いつの日か坂柳有栖と戦った日を思い出す。
あの日も確か、私は後攻だった。
「では、始めましょうか」
こうして始まった第13戦目。
講義室の空気を切り裂くように、チェスの駒がボードを叩く乾いた音が響く。
序盤、長考することなく手が進んでいく。
司令塔が介入できる時間もあるが、今回使用されることは無いだろう。なにせ、この場にいる4人が最もチェスを理解しているからだ。
駒を交わしながら彼らの打ち方を分析していく。
坂柳有栖の指し手は攻撃的で尖っており、綾小路清隆は隙のない定石通り。
そして、椎名ひよりの打ち方は――あまりにも型破りで、どこかめちゃくちゃだった。それはただの無策とも取れるし、こちらの予測を意図的に乱す撹乱の手とも取れる。
「……ふふ、実に興味深いルールですね。10手ごとの交換、このせいで目の前だけに集中するだけでは勝利の女神は微笑んでくれませんね」
盤面から目を離さず、坂柳有栖が笑みを湛えながら呟く。
「そうですね。ですが、面白い。4つの戦い方が混ざり合う事で単純なチェスよりも考える事が増えている」
「なにより、綾小路くんと椎名さんは相性がいいですね」
「フフ、そうですね。お互いに次に打つ手が分かっているみたいです。仲が宜しいんですね?」
坂柳有栖のその言葉は純粋な質問にも取れ、また嫉妬とも取れた。
「そんな事は無い。なぁ椎名」
「そうですね。私と綾小路くんは放課後図書室で読書する仲なだけです。何処かの誰かさんは最初以降めっきり来なくなりましたが…」
私の事を指しいているとは理解していたが、面倒だったので惚ける事にした。
「そんな薄情な人も居るんですね」
「はい、私に綾小路くんを紹介しておきながら来なくなった酷い方なんです」
冗談とも本気ともつかない会話を交わしている間にも、最初の10手が終わり、交換。
そして次の10手が終わり交換、目まぐるしく盤面が回転する。
私から綾小路清隆へ、坂柳有栖から椎名ひよりへ、手番と視界が目まぐるしく入れ替わっていく。
常人であれば、この高頻度なスイッチは致命的な思考の分断を招き、自滅を誘発するだろう。しかし、私たちの頭脳はそのような生理的な限界をとっくに超越していた。
私たちは個の持つ純粋な実力で。対する綾小路清隆たちは、呼吸すら同調したような完璧な連携で。
互いの手番が入れ替わるたびに、高度な心理戦と計算が幾重にも積み重なっていく。 20手目が終わり、さらに次の10手へ。
30手目を迎えた時点での形勢は、完全なる互角。どちらが有利とも不利とも言えない、息が詰まるほどバランスが保たれていた。観戦者さえも息を呑む、完璧な拮抗だった。
「流石ですね、貴方たちの成長速度というのはいつも予想外を突いてくる」
「ふふ、だそうですよ。綾小路くん」
中盤戦を過ぎ、後半戦に突入しても差を広げるどころか詰められない事で4人が精一杯。
一つのミスが命取りになる状況が出来た。
そして私たちの手が止まり始める。1分、2分と時間は只過ぎていく。
「…まずいな、膠着状態だ」
「綾小路くんがミスしてくれても良いんですよ」
次の手を考えつつも、言葉は忘れない。
私が冗談交じりにそういうと何故か隣の人間が返事をした。
「竜崎くん、綾小路くんは些細なミスなど絶対にしませんよ。だから諦めてください」
「…なんで坂柳が言うんだ?」
「それは、貴方の昔を知る私の特権という事で」
からかうような坂柳有栖の声音を片耳で受け流しながら、私はじっと盤面を見つめた。
「あぁなんという楽しい時間なんでしょうか。もう、この時間が永遠であればいいのに、そう思いたくなるほど死力を尽くしています」
歓喜に震えるような声で坂柳が呟く。
あと持ち時間が10分を切った。しかし綾小路清隆は動かなかった。その異変に気が付いた椎名ひよりが小さく首を傾げる。
「綾小路くん?」
だが、その呼びかけに綾小路清隆は一切反応しなかった。彼は限られた持ち時間を贅沢に消費しながら、深く、深く沈思黙考し始めたのだ。
「……」
私は彼の次の一手を待ち続けた。それが生死を分ける事になるのだから。時間を存分に使う事は大事だった。
「貴方はその程度なんですか?本当にここで終わるんですか」
そんな私の姿に気が付いていないのか、高揚感に呑まれた坂柳有栖は問い掛ける。
勝つことよりも、楽しむ事にしか興味が無い坂柳有栖。彼女にとってこの場は絶好の機会なのだろう。
私と彼を比較できる、天然と人工の天才との勝負だと捉えていてもおかしくなかった。DNAに拘っている彼女がこうも熱くなるという事は、綾小路清隆の両親は凡人なのだろう。
しかし、私は綾小路清隆の実力はそうでは無いと断言できる。
「なるほど、綾小路くんは本当に面白いですね」
長考の末、力強く置かれた駒は今までと違った。
最初、綾小路清隆の指し手は「定石通り、かつ堅実な防衛」に徹しているように見えた。だが、10手ごとの盤面交換を繰り返すたびに、彼の指し手から「迷い」や「模索」の気配が綺麗に削ぎ落とされている。
この変則ルール特有の空間認識、そして数手先の盤面交換を前提とした逆算の精度が、異常な速度で最適化されている。
「…竜崎くん、どうかしましたか」
坂柳有栖に声を掛けられた。それにより私は息を吐き、平静を保てるよう気を持ち直した。
「……少し驚かされています。綾小路くんの実力にです」
学習スピードの次元が違った。
綾小路清隆という人間は、未知のルールのなかに放り込まれた瞬間から、その環境のすべてを解析し、自らの血肉へと昇華させていたのだ。盤面交換が起きるたびに、綾小路の放つ手はより鋭く、より重い刃に変貌していく。
私は素直に息を呑み、目を閉じた。
彼の事を見誤っていたのだと気が付いた。彼は秀才では無く、天才だったのだろう。素直に敬意を評したい腕前だった。
制限の41手目。持ち時間は一切増えない。
残り時間は、私たちがわずか3分、相手が4分。もう、後がない状況だった。
2人で共有しているからこそ、持ち時間の消費速度は桁違いだった。
「本当に並んでいますね」
最初のスムーズな展開は遠い過去だった。今や一手に掛かる時間は伸びるだけ。
もう少しで決着がつく、あと少しでチェックメイト。そのもどかしさが私に笑みを浮べさせた。
「…そうだな、オレとお前の実力は寸分違わず同じだ」
私たちの実力は変わらない。なら、勝敗が付くとしたら、それは他者によるものだろう。
それに気が付いているであろう坂柳有栖が、目の前の彼女へと勝利宣言をした。
「見事です」
最初の言葉は対戦相手への称賛だった。
「ここまで、複雑かつ強力な敵と戦った覚えはありません。椎名さん、貴女は確かに強かったです。今の一手も、他の人ならどうなっていたか分からないです」
持ち時間が5分を切った。ついに私たちの時間が綾小路清隆たちを下回った。
「──ですが、これで終わりです」
穏やかな声色から繰り出される痛烈な一手。
それは最強の駒とされるクイーンを犠牲にしたものだった。
その技はハイリスクで失敗すれば敗北は必至。この追い込まれた土壇場でそれを仕掛けるのは坂柳有栖らしかった。
「はぁ…」
一見すれば、形勢を一気にひっくり返すための鮮やかな逆転手に見えた。
だが、相手が悪かった。駒が盤に触れ、甲高い音を室内に響かせた。
「……坂柳さん、ダメですよ」
呟いたのは、椎名ひよりだった。
彼女は、坂柳有栖が持ち時間を削ってまで仕掛けた手を見抜いていた。止まっていた時間が進み出す、今までの長考が嘘のように椎名ひよりは迷いなく手を進めていく。
だからこそ2手、3手と進む度に、坂柳有栖が不利になっていった。
坂柳有栖の作戦は、確かに悪くなかった。
椎名ひよりは所詮中級者で、私たちの中でチェスの技量という点では一番劣っていた。
だが、彼女はそこで立ち止まる人間ではない。ずっと私たちの手を見つめ、吸収し続けていたのだ。本質を見抜く洞察力において彼女を上回れる存在は少ない。
それに、私と坂柳有栖は息があっていない。
お互いにお互いの実力を最大限出そうとして噛み合ってない。
綾小路清隆と椎名ひより、彼ら2人が合わさった力にそんな状況で勝てる訳は無かった。
『2人なら越えれる』『1人でも並べる』
──この違いは、明白だった。
「綾小路くんと竜崎くんばかりに気を取られて、目の前の私を侮るのは……悲しいです」
椎名ひよりの瞳に宿る静かな闘志が、坂柳有栖の思考を狂わせる。そして、その綻びのバトンを繋ぐのは──。
「その一手は、悪手ではないがオレたちの想像の範疇にある」
バトンを受け取った綾小路清隆が、一切の迷いなく、冷徹に決定打となる駒を滑らせた。 盤面が噛み合い、完璧な連携が完成する。
『チェックメイト』
キングの逃げ場を完全に、美しく塞いでいた。
極限のプレッシャーに呑まれ、読み違えを犯してしまった瞬間だった。
坂柳有栖の震える指先が、これ以上動かせなくなったキングの駒に触れる。
「勝負ありだな」
綾小路清隆の宣言とともに、キングが音を立て倒れた。
俯いた坂柳有栖を横目に、私は力を込めた拍手を彼らに送った。
「おめでとうございます。貴方たちの勝ちです」
敗北の事実を飲み込みながら、私は素直に負けを認めた。
そしてこの余韻に浸りつつ、私は終了の笛が鳴るのを待った。
隣の盤面はまだ勝負は付いていなかったが、片方が終われば盤面の交換は成立しない。つまりルールの都合上、勝負は終了する。
『──それまで』
静かに見守っていた教師の一声で最後の種目の勝敗が着いた。
『今の種目、CDクラスの勝利。よって最終特別試験の結果は7勝6敗でCDクラスの勝利となります、AとBクラスの人たちも大健闘でした』
室内にアナウンスが響く中、私は淡々と息を整えた。
そして対戦相手と、同じチームの味方に向かって会釈をしてから部屋を後にした。
…今は、この胸の中で渦巻く気持ちを、ただ独りで噛みしめたかったからだ。
──しかし、人生というのはそう上手くいかない。
「いやぁ、見事でした竜崎くん。貴方の実力を存分に見させてもらいました」
静けさに包まれたはずの廊下の曲がり角。その陰から、不敵な笑みを貼り付けた月城理事長代行が現れた。
「そうですか、今話しかけるなんて性格悪いですね」
「いえいえ、それは誤解ですよ。私はただ良いものを見せてくれた貴方に賛辞を述べたかっただけです」
月城という男の腹積もりは手に取るように分かる。
彼はもし仮に試験が6対6までもつれ込み、延長戦と成った場合には妨害工作を仕掛けるつもりだったはずだ。
それは試験の内容を指定するものだと推測していた。綾小路清隆を狙うには最高の機会だからだ。
だからこそ、私は退学というペナルティを消し、彼が堂々とその実力を発揮できるだけの舞台を整えたのだ。
月城は以前、実力を隠している生徒への憤りを語った。
なら、この最終試験で自らの力を包み隠さなかった綾小路清隆は、彼の定める「排除の対象」から一時的に外れる──そう踏んでの行動だった。
「なるほど、それは殊勝な事ですね」
「はい。どうです、少し場所を移して今後の話をしませんか?」
どこか底の知れない愉快さを瞳に宿しながら視線を合わせてくる老獪な男に、私は内面の苛立ちを押し隠し、嫌々ながらも首肯した。
***
誰も寄り付かない特別棟の、人気のない最果ての廊下端。 冷たいコンクリートの壁に囲まれた空間に、私と月城理事長代行の二人がぽつんと立っている。
「残酷な人ですねー、竜崎くん」
彼は窓の外の昏い夕闇に目を向けながら、ねっとりとした声でそう語りかけた。
「貴方は最初から坂柳さんが負ける事を確信してましたね?」
「何のことでしょうか」
それは違う。
私は勝負について一歩も譲る気が無かった。なぜなら勝敗に絶対は無いからだ。
何より坂柳有栖が椎名ひよりに劣るわけではない。彼女は椎名ひよりを侮っていたからこそ、慢心により本質が見えていなかっただけだ。
しかし、坂柳有栖にとってこれは成長の機会となるだろう。あの慢心が無くなれば彼女はより強くなれるのだから。
「素直に言っても構わないんですよ?椎名さんの方が優れている、と」
優しげな仮面を貼り付けたまま、月城は私との距離を詰めてくる。
「少し雑談でもしましょうか?」
彼は上着のポケットから一枚の紙を私に見せてきた。それはこの学校に入学した際に提出した私の履歴書だった。
「キミの経歴は一見すると本物でした。なんの違和感もない、美しすぎる履歴書でしたよ」
「しかし、……だからこそ、人間はそこに深い違和感を抱くんです。あまりにも隙がなく、完璧すぎて不自然極まりない……。心当たりはあるでしょう、竜崎くん?」
それは、何故か私の心に響いた。
別の世界では、私が言っていたであろう台詞に思えたからだ。人は完璧を目指し、それを疑問視する。なぜなら完璧であればある程、これ以上のプレッシャーは無いからだ。
「竜崎くん、キミは何者ですか?」
突きつけられた問いに対し私は微動だにせず、微笑み返した。
「私はただの、どこにでもいる一般人の生徒ですが?」
「そうですか、そうですか……まぁ、今はそれでも構いませんよ。私にとって利用価値がある限り、私はいつでも貴方の良き味方でいてあげますから」
彼はふっと含みのある笑みを浮かべ、私の肩を軽く叩いた。
「来年は大いに期待していますよ?──『警察関係者』の竜崎くん」
その言葉は、私の本当の姿に迫っているという脅迫であり、まだ猶予があるという証拠だった。
なにせ、『L』としての私を知っているのならこんな回りくどい真似をせず、最初からそう言えば良いからだ。
だからこそ、私はその後ろ姿を見て考える。
この月城という男を、今後いかに利用してやるべきかを。
彼がこの学園の裏で糸を引く本当の目的な一体何なのかを、私は頭の中で考え続けていた。
───
月城との話が終わり、寮へ帰るかと考えていると考えていた時。
特別棟の出入り口の脇に、見覚えのある人影が佇んでいるのが目に入った。
「綾小路くん?」
壁に背中を預け、目を伏せていた彼は、私の足音に気づくとゆっくりと瞼を開け、まっすぐにこちらへと歩み寄ってきた。
「随分と遅い帰宅だな」
「そうですね。少し野暮用がありましたので」
私のあからさまな誤魔化しに気が付きながらも、綾小路清隆は深くは聞かなかった。
そして、少しの沈黙の後ぽつりと一言零す。
「…今から少し時間はあるか?」
「はい。ですが場所を移しましょう」
無言のまま、数分歩いた先。
少し人気が無い場所に設けられたベンチ、そこに私たちは腰を掛けた。
「今回はお見事でしたね」
「あぁ、そうだな。楽しかったぞ」
私たちは、目の前の日が落ちかけた景色を見つめつつ、この一年を振り返っていた。
「始めて、綾小路くんに会ったのはいつでしたっけ」
「多分、中間試験の時の図書館だと思う」
「…そうでしたね。そして、無人島試験で宣戦布告したんでした」
彼との戦いはあの頃から既に始まっていたのだろう。それがここまでのものになるとは、あの時の私は思っていなかった筈だ。
「…竜崎、船上試験で言った約束を覚えてるか」
「はい。負けたら一つ願いを聞く、ですよね?」
私は本来の実力を隠す綾小路清隆に一つだけハンデを上げた事がある。
その権利を今、使うという事だろう。
「なら、勝ったオレから一つ頼みたい」
どんな理不尽な要求が飛び出すのか。もし彼が『退学』を望むというのなら、私はそれすらも呑む覚悟があった。
私の独りよがりが招いた結末なのだと、それを受け入れるつもりでいた。
だが、彼の口から零れ落ちた言葉は、私の予想の斜め上をいく、あまりにも拍子抜けするものだった。
「───オレと『友人』になって欲しい」
私は一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
「…友達ですか?それは既になっているんでは?」
私は既に彼と友達という間柄だと思っていたが、彼からすれば違ったらしい。
しかし、それは違うと綾小路清隆は首を横に振る。
「いや、竜崎はオレの事を信じていない。そして疑っているんだろう。
だから……オレの過去を話す。それを聞いて改めて判断してくれ」
過去。それはこの状況を作り出している原因の話。
私にそれを話す意味を彼は理解しているのだろうか。いつの日にかテニスをした際にも同じこと聞いたが彼は、核心的な事は一切話さなかった。
いかなる心境の変化が彼をここまで動かしたのか、私の胸の内でわずかな興味の波紋が広がる。
「良いんですか、隠しておきたかったのでは?」
「今更だろう。それに坂柳もこれについては知っている話だ」
目立つことを嫌っていた彼は、今やその面影も無い。実力を見せてしまえば自らが窮地に立つ可能性も秘めているのに、だ。
だが、私からすれば好都合なのでゆっくりと頷いた。
「へぇ、やはり彼女も関係者ですか…なら、月城理事長代理もそうなんです?」
「あぁ、何度か接触された事がある」
やはり、月城も刺客であるらしい。露骨な態度だった為、意外性は無かった。
「なるほど、それで綾小路くんが育った施設の名前は、なんですか?」
「『ホワイトルーム』そう呼ばれている、育成施設だ」
聞いたこともない名称だった。
だが、これまでのパズルピースが音を立てて噛み合う。その隔離された実験室から脱走し、連れ戻すために月城という刺客が送り込まれた。そんなストーリーが、私の脳裏で構築されていく。
「そうですか…、なら今度その施設の詳細を聞かせて貰いますね」
私は腰かけていたベンチからゆっくりと立ち上がり、彼からわずかに距離を取った。
突然立った私に綾小路清隆は疑問の声を上げようとしたが、それを遮るように私から言葉を発する。
「──なら、私からも一つ良いですか」
「なんだ?」
「清隆くん、そう呼ばせてもらいますね」
その親密すぎる響きに、彼はいつもの無表情を崩した。
「キミが一番何かを感じさせた。だからこそ、認めましょう。清隆くん、貴方は私の敵になりうると」
「敵か、友達なのに?」
「それは両立出来ますよ。ライバルという関係性が存在するように、これも成り立ちます」
来年はきっとそのホワイトルームの関係者が乗り込んでくるのだろう。
月城が明確に動き出したのだ、なりふり構っていられない筈だ。だからこそ、私は綾小路清隆と決別しなければならない。彼を守るために近すぎては不都合だからだ。
「来年、私の言うことはみなデタラメですので、一言も信じないでください」
「……?」
私の唐突な宣言に、綾小路はわずかに戸惑いの色を浮かべながらも、言葉を繋いだ。
「…そうだな、竜崎。お前の言うことは大概デタラメだ。一々真面目に取り合っていたらきりが無いし、それはこの一年でオレも理解した」
「えぇ、その通りです」
私は彼の本質にこの1年で辿り着けなかった。
ならば、来年ふたたび相まみえよう。彼が追い込まれた時、私と同じ感情になるのか、それとも違う色を見せるのか。
「楽しみにしてますね、綾小路清隆。キミがどう切り抜けるのかを」
「…竜崎、お前はなんなんだ?」
彼も私を知りたいという事なんだろう。そしてそれは私からすれば、毒だった。
「──私は『未知』を求めているだけの人間ですよ」
本音など必要ない。情などという感傷は、遠い昔に捨て去ったはずだ。
私はそう言い放つと、振り返ることなく手を振り歩き出した。
椎名ひよりは実力が分からないから、どれだけ盛っても良い説。
そして次回──1年生編最終回。