噴火まで十七年、ポンペイの水道技師に転生しました ~街は救えないので、逃げ道と習慣を作ります~ 作:ramunade
八〇年の春、ヌケリアの新しい辻に、水が通った。
山向こうの泉から、素焼きと鉛の管を継ぎ、勾配を測り直すこと、ひと冬。管を運んだのはニゲルの川船で、石を寄進したのは両街の旦那衆で、甕の腹には例によって、旦那衆の名が誇らしげに刻まれている。見栄というのは、街が変わっても、まったく、頼りになる。
最後の水門を開ける役は、俺ではない。若親方である。アッティウス水道工房、と看板を出し直した工房の、ケレルだ。二十六になった弟子は、俺の顔をひとつ見て、うなずいて、堰板を上げる。
管の中を、水の走る音が近づいてくる。
新しい噴水の吐き口が、ひとつ咳をして、それから、太い水を吐いた。冬の間じゅう桶を担ぎ続けた女たちから、歓声が上がる。子供らが飛沫に手を突っ込み、犬が吠え、年寄りが目元を拭う。水は、石の鉢を満たし、縁を越え、春の光を割って、砕けた。
十八年前、ポンペイの辻で見た夕暮れの水と、同じ色である。
「これで、うちの水売りは商売あがったりだ」と、脇でムナティウスがぼやく。「……まあ、いい。水道のある街、ってのは、粉の売れる街だ」
式には、両街の参事会が顔を揃えた。ポピディウスが短い口上を述べ、新しい水盤に葡萄酒をひと注ぎして、神々と、それから、戻らなかった者たちとに捧げる。口上を長くしないところが、あの男の芸である。ニゲルは式の間じゅう、俺の隣で鼻をすすっていた。川屋は、涙もろいのだ。
式の輪の真ん中で、俺は、逃げそこねた。
サルウィアが、後ろから俺の頭に、ぽん、と何かを載せたのである。手を伸ばすと、指先に、麦の穂と野の花が触れた。花冠である。十七年前の婚礼の朝、彼女が自分でこしらえて、俺の頭に載せた、あれと同じ作りだ。
「定年、ってやつだろ。あんたの国の」妻は、悪びれもせず言う。「勤めを上がる日に、偉い人から冠をもらうんだって? 昔、あんたが寝言で言ってたよ。……偉い人の当てがないからね。パン屋の女房で、我慢おし」
花冠は、少し焦げた匂いがした。竈のそばで編んだのだろう。前の世で俺がもらい損ねたものは、感謝状と、花束と、それから――名前を正しく呼ばれることだった。
「アッティウス!」と、広場の誰かが呼ぶ。「水道屋! こっちの水も見てくれ!」
……ぜんぶ、ここでもらった。感謝状の代わりに水の音を、花束の代わりに焦げた花冠を、そして名前は、もう、数え切れないほど。冠をかぶったままの俺を見て、ユスタが吹き出し、妻が笑い、笑いは輪になって広がっていく。
◇
午後、工房の卓で、年次の写しの検めがあった。
ヌケリアで初めての、年次写しである。書き手はケレル。検めは俺。そして最後の欄の前で、ケレルが筆を置き、卓の向こうへ滑らせた。ユスタの前へ、である。
「観測の三分の一は、おまえの鼻だ」と、若親方は言う。「書き手の欄に、名を連ねる資格がある」
娘は、十六になる。井戸の匂いを言い当てる鼻は、この一年、ヌケリアの水を守る側で働いてきた。娘は筆を取り、それから、俺を見る。
「……書いて、いいの? お父さん」
「署名ってのは、書いた中身の間違いごと、責めを負う判だ」俺は、いつかの言葉を繰り返す。「負えるなら、書け」
「負う。……あたしの鼻は、あたしの字で書く」
筆が走る。粒の揃わない、勢いだけの若い字が、ケレルの名の隣に並んだ。染みはない。震えも、ない。時代は、そうやって図々しく若返っていくものである。先代の帳面の隅の走り書きから始まった線が、俺を通り、ケレルを通って、四人目の字まで届いた。線というものは、一本の目盛りからでも、こうして伸びる。書き終えた写しに、ケレルが判を捺し、俺が判を捺す。三つ目の判の場所を、俺は空けておいた。いずれ、この娘の判が入る。急がなくていい。物差しと同じで、判というものも、年を重ねて初めて重くなる。
◇
夕方、俺は道具袋を担いだ。
「もう出かけるのかい?」と、妻が呆れる。「冠をもらった日くらい、休んだらどうだね?」
「維持管理に、定年はないんだ」
言い置いて、俺は工房の棚の前に立つ。MONSの綴りを、いちばん奥へ、静かに納めた。代わりに、新しい綴りを一冊、手前に置く。表紙に、鉄筆で、太く一語――NVCERIA。ヌケリアの水の、基準の一年目が、これから始まる。物差しは、ここでも、年を重ねて初めて物差しになる。
戸口を出ると、新しい辻の水音が、春の夕暮れに、絶え間なく鳴っていた。
歩き出しながら、俺は癖で、指をひとつ折りかけて――やめる。数える期限は、もう、どこにもない。これから数えるのは、水位と、平年の幅と、それから、孫の歳くらいのものである。花冠を頭に載せたままの水道屋を、夕暮れの人通りが、笑って見送ってくれる。
「――水の見回りだ。すぐ戻る」