「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
十日ののち。今度の席は、ザイフェルト侯爵家の大広間だった。
天井は高く、壁には歴代当主の肖像画がずらりと並んでいる。うちの応接間が、丸ごと三つは入る広さである。場所というものも口上のうちであるらしい。ようこそ、格の違いへ――と、まず壁が語ってくるのだ。
長机の中央に、
古びた羊皮紙である。二つの家印の蝋、並んだ署名、几帳面な手の文字。
「先代フェルゼン伯と、先代ザイフェルト侯の約束状である。……読み上げよう。『フェルゼンの娘とザイフェルトの嫡男とをもって、両家の縁を結ぶものとする』」
侯爵様は、そこで一度、言葉を切った。
「――お聞きになったかな、伯よ。『カロリーネ嬢』とは、ひと言も書いておらん」
勝ち誇った声では、なかった。むしろ、疲れた帳簿付けのような声である。
「『フェルゼンの娘』、とだけある。娘御は、お宅にもうお一方おられよう。……わしとて、好きで申しておるのではない。先代の約束は家の約束、家の約束は当主が果たすもの。わしは、そうやって生きてきた」
妹。イーダ。十七の、初恋の季節の真ん中にいる妹である。
膝の上の手が、ひとりでに握り込まれた。指先が、すっと冷える。これはもう、私の空白の外の話だ。私が身軽になったぶんの勘定書きが、回り回って、妹の膝に載せられようとしている。
父を、見た。
父は白い顔で、袱紗の上の羊皮紙を見つめている。七年下げ続けた頭を、また下げるのだろうか――そう思った自分を、私はこのあと長く、恥じることになる。
父は、立ち上がった。
「……侯爵閣下。先代のお約束は、重い。それは、わたしも重々、承知しております」
声は震えている。震えたまま、けれど、止まらない。
「ですが――娘は、道具ではありません。姉も、妹も、です。約束のために娘を差し出すのが当主の務めと仰るなら、わたしは、当主に向いておりません。……先代には、あの世で叱られて参ります」
広間が、静まり返った。
侯爵様の眉が、ゆっくりと上がる。父はまだ震えていて、それでも、頭だけは下げない。七年下げ続けたその頭を、今日、いちばん下げやすい場面で、下げなかったのである。
――お父様。あなたはいま、たいへん男前でしてよ。
卓の下で、母の指がそっと、父の袖に添えられた。
さて。空気が張り詰めたままでは、話は壊れて終わるだけである。壊すのではなく、解く。うちは代々、そういう家風のはずだ。
「侯爵様。その約束状、拝見してもよろしいかしら?」
「……ご覧なさるがよい」
両手で、羊皮紙を受け取る。古い蜜蝋と、書庫の匂い。先代同士の署名の下に、当代の追認の署名がひとつ――見覚えのない、流麗な筆跡が並んでいる。
字は、一字ずつなら、ちゃんと読めるのである。読めるのに――目を離したそばから、砂の字である。何度なぞっても、頭の中で名前として結ばれない。書かれた文字でも、こうなのか。糸というものは、つくづく丁寧に解けるものである。
「侯爵様。こちらの署名は、ご子息のものでいらっしゃいますわね?」
「うむ。成人の年に、追認の署名をさせた」
「さようですか。字は、読めますのよ。一字ずつは、ちゃんと。――ただ、読んだそばから、流れてしまいますの」
私は羊皮紙を、袱紗の上へそっと戻した。
「この、お名前の留まらない方と結べと仰るのは、少々、難題ですわ」
仕立ての良い殿方――本日も同席の、例の方であるらしい――が何か言いかけて、やめる。侯爵様は長いこと私の顔を見て、それから羊皮紙を見て、静かに袱紗を畳んだ。
「……祖母君の言われたことの意味を、いま、この目で見た気がするわい」
畳んだ袱紗が、懐へ納まる。
「本日は、これまでといたす。〈復縁の儀〉の話は――預かりじゃ」
流れた、ということである。少なくとも、今日のところは。辞去の際、侯爵様は父へ、一度だけ会釈をなさった。頭は下げない、けれど確かな会釈である。男親同士の帳尻は、ああやって合わせるものらしい。
◇
外へ出ると、雪が降っていた。
今年の初雪である。羽のような雪が街灯の明かりの中をゆっくりと落ちて、石畳をうっすら、白く塗り替えていく。私は馬車を待たせたまま、玄関先の石段で、しばらくそれを眺める。
――と、門の外の通りを、見覚えのある外套が行き過ぎようとしていた。
「公爵様?」
「……なんだ、君か」
傘もささず、肩と帽子に雪を載せた無愛想が、門灯の下で足を止める。
「今夜のお散歩は、ずいぶん遠うございますのね」
「たまたまだ」
「さようですか、ふふっ」
「……たまたまだと、言っている」
二度仰った。二度仰るということは、まあ、そういうことなのだろう。追及はすまい。この方の「たまたま」に、今夜の私は少しばかり、助けられた気がするから。
公爵は空を一度見上げ、それから、まだ誰の足跡もついていない石畳へ目を落とした。
「初雪は、夜のうちに踏むに限る。朝には人に踏まれて、ただの濡れ道になる。……そこの角まで歩くか。馬車は、後ろを歩かせておけばいい」
降りたての雪は、靴の下で、きゅ、と絹を裂くような音を立てた。一歩ごとに、誰も踏んでいない白へ、足跡がひと組ずつ並んでいく。
「……よい音ですこと」
「言った通りだ」
「ええ。癪ですけれど、公爵様のお好みは、いちいち当たりますのね」
「当たるのではない。……先に、山ほど外してきただけだ」
雪は、まだ降り続いている。門灯から門灯へ、白い道が続く。今夜の会談も、父の震える声も、留まらない署名も、この静かな音の中では、少しずつ遠い。雪は音を吸って、街を軽くしていく。世界に、まっさらな織り布が一段ずつ、織り足されていくようである。
私の七年にも、こうして新しい織り目が足されていくのだろう。解けた糸のぶんだけ軽くなった
――もっとも。あちらの殿方がこれで諦めてくださるかどうかは、別のお話であるけれど。
◇
ザイフェルト侯爵家、深夜の書斎。ローレンツは暖炉の前で、送り戻された木箱の山を眺めている。品は戻り、面会は三分で立たれ、約束状は父の懐へ仕舞われた。積み上げた七年は、あの女の中のどこを探しても、もうない。……なら、積み直すまでだ。俺という男の値打ちは、七年前と変わらん。
「なら――初めからやり直す。初対面から、口説き直してやる」
七年かけて落とした女だ。二度目は、もっと早い。