「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
冬の社交界は、暖炉と蝋燭の季節である。
初雪から半月。招待状は相変わらず届くけれど、文面から見世物の匂いはすっかり抜けた。例の好事家の夫人が「余興は取りやめ」の号令をかけてくださって以来、王都の皆様は私を、見世物ではなく、ただの肝の太い令嬢として扱ってくださる。結構なことである。
今夜の夜会も、その類のはずだった。
――見知らぬ殿方が、完璧な礼とともに近づいていらっしゃるまでは。
「今宵はひときわお美しい。その藍は、冬の夜空の色ですね」
仕立ての良い、灰色の装いの殿方である。お顔に、見覚えはない。もっとも私の「見覚えがない」は当てにならないので、いったん保留である。
「恐れ入ります。……お初に、お目にかかる方かしら?」
「名は、覚えていただかなくて結構。中身で覚えていただきたい」
あら、と思う。なかなかの口上である。
「では、中身の殿方。今宵は、どのようなご用向きですの?」
「あなたとお話がしたいだけです。……近ごろの歌劇場では、何がお気に召しましたか?」
これは、と少し驚く。殿方の話の口火が「こちらへの質問」で切られるのは、社交界ではめったにないことである。しかも答えを待つ間、目が泳がない。世の中、捨てたものではない。
私は先週の演目の話をする。殿方は相槌を打ち、続きを促し、二つ目の質問をよこす。三つ目も、四つ目も、私のことである。好きな花、好きな色、好きな季節――少しばかり質問の目録めいてきたけれど、質問は質問である。
そして、楽団の曲がひとつ終わる頃――つまり、おおよそ三分が経った頃である。
「藍がお好きとは、目の付けどころがいい。実は私の領地の湖が、ちょうどその色でしてね。領地といえば、うちの冬小麦は今年も豊作で……」
あら。
「……収穫祭には領民が三千も集まる。壮観だろう?」
あらあら。
「剣も多少はやる。去年の御前試合は、惜しくも二位だった。得物の趣味がいいと、よく言われる。だろう?」
――結ばれましたわ。
お顔は存じません。けれどこの語尾、この呼吸、この「同意の返事だけを受け取る問いの形」。王都広しといえど、お一人しか心当たりがございませんの。灰色の装いも、質問の目録も、どなたかの入れ知恵で誂えた「初対面」であるらしい。三分は、もったほうである。
気づけば、私の首は、例の角度でうなずきかけていた。
顎を、止める。
会談の日に見つけた、あの癖である。あちらの殿方専用かと思えば、そうではないらしい。誰の話にも同じ角度、同じ拍子――七年ものの相槌の型は、退屈な話ほどよく動きたがる。うなずく理由は、もうどこにもない。首は、面白いときだけ動かすことにする。
私がうなずくのをやめると、殿方の口上は、目に見えて調子を崩していった。漕ぎ手を失った小舟のようなものである。あの「だろう?」は、こちらのうなずきを
「……なぜ、黙っている?」
「拝聴しておりますのよ。……ときに、中身の殿方」
私は扇を畳み、丁寧に微笑む。
「殿方のお話は、三分を過ぎると領地自慢になりますのね。本日いちばんの学びでしたわ」
「なっ……」
「中身で覚えていただきたい、との仰せでしたので――中身を、覚えましたの。ごきげんよう」
礼をして、離れる。背中で、何か言いかけて言えずにいる気配がしたけれど、振り返らない。振り返らないのも、今夜の私の選択である。
◇
週の終わりは、観劇の日である。
幕間の回廊へ出ると、足がまず、柱の下を探す。七年ものの習慣――と言いかけて、思い直す。習慣なら、やめられるはずである。やめる気がまるでないのだから、これは習慣ではなく、私の選択なのだろう。
柱の下の無愛想は、今夜も定位置にいた。私の姿を認めると、挨拶のかわりに一瞥がある。
「……冬支度だな。藍が、濃くなった」
「冬ですもの」
この方は、褒めない。ただ、見ている。それだけのことが、なぜ少しくすぐったいのか、理屈はまだ見つからない。
「冬といえば――冬の演目は、悲劇に限る」
「まあ。今の喜劇に、何かご不満でも?」
「不満はない。だが冬は悲劇だ。寒いほど、悲劇は沁みる。凍えた客席で観る五幕の別れは、暖かい季節の倍は効く」
「殿方の勝手な理屈ですわ。泣かされて、凍えた夜道を帰る身にもなってくださいまし。冬こそ、笑って帰る演目に限りますのよ」
負けじたましいの返事を待たず、公爵はわずかに顎を上げた。
「泣いて帰る夜道は、悪いものではないぞ。涙は、外套の内側を少しだけ暖める」
「あら。ずいぶんお詳しいこと」
言ってから、二人とも一拍、黙った。今のは少し、際どいところへ足を載せた気がする。公爵は目をそらさず、「経験談だ」とだけ仰った。……この方の経験談は、いつか、ゆっくり伺ってみたいものである。
結局、悲劇か喜劇かの決着がつくより先に、鐘が鳴る。
負けてはいない。勝ってもいない。それなのに、桟敷へ戻る私の機嫌は、我ながら不思議なほど良いのである。口論というものは、相手の首がちゃんと「否」に動くから成り立つ遊びである。うなずくだけの首では、できない遊びなのだ。
◇
帰邸すると、ミンナが居間の扉の前で、銀盆ではなく風呂敷包みを抱えて立っていた。心なしか、姿勢がいつにも増して執事である。
「お嬢様。本日の空白でございます」
「あら。今日は、ずいぶん大きいのね」
「書斎の整理で出て参りました。――お嬢様の、七年分の日記でございます」
風呂敷の結び目の間から、革の表紙が覗いている。いちばん上の一冊に、几帳面な字で「日記」とあった。
――私の字である。
十六の私の字が、包みの中から、じっとこちらを見上げている。開けるのが、少しだけ怖い。……怖いと思う荷物は、この一年で初めてである。