「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
包みは昨夜のうちに、母がいったん持っていってしまった。
「夜に読むものではありませんよ」
と、それだけ仰って。翌朝、居間へ下りると、卓の上に包みと母が揃って待っていた。
「読むも読まぬも、あなたが決めなさい。母は、どちらでも構いません」
「お母様は、お読みになりまして?」
「読みませんよ。人様の日記ですもの」
人様、と母は仰った。娘の、ではなく。母方の血の人の言葉の選び方は、時々こうして、真ん中を射抜いてくる。そう――これはもう半分ほど、人様の日記なのである。
「ただ、ひとつだけ」
母は立ち上がり、去り際に、暖炉へ薪を一本足していった。
「読むなら、暖かいお部屋でお読みなさいな」
◇
暖炉の前で、一冊目を開く。
十六の春から、日記は始まっていた。
インクの色まで、弾んで見える。気のせいではない。字が、跳ねているのである。『ワルツのお稽古、三回目。先生に筋が良いと褒められる。雨。傘を一本駄目にする。惜しくない』。ふふ、と声が出た。傘は確か、二本駄目にしたはずである。一本目の時点では、まだ惜しくなかったらしい。
正確には、いたはずの場所が、ある。私の字が、どなたかのお名前を大切そうに書いている。読める。一字ずつ、ちゃんと読める。そして読んだそばから、砂になる。自分の手で書いた字ですら、こうなのだ。つくづく、丁寧な解け方である。
七年ぶんは、思ったより厚い。頁を順に繰る根気も、実はない。私は季節の変わり目だけを、飛び飛びに拾って読むことにした。
二冊目。三冊目。
拾う頁、拾う頁、字から跳ねが消えていく。
『声を立てて笑うものではない、と教わる。淑女とは、そういうものらしい』『意見は、一拍おいてから。今日は、うまくできた』『お稽古は、お休みすることになった。理由は――』理由の行は、途中から線で消してある。消した線の下の字は、もう読めない。
四冊目のあたりから、日記は目に見えて短くなる。
『今日は、何も間違えなかった』
それだけの日が、続く。
頁を繰る手が、止まった。
何も間違えなかった――それが日記に書く値打ちのある一日。そういう暮らしを、この娘はしているのである。会ったこともない娘の話なら、私はきっとこう言う。この娘は、よく我慢している。誰かこの娘を劇場へ連れ出して、思い切り笑わせておやりなさいな。
――泣けてきたのは、そのあたりである。
他人事のように、と言うのが正確だと思う。頬を伝うものは温かいのに、胸の痛みには不思議と距離がある。弔いの涙とは、こういうものかもしれない。この娘は、私だ。私であって、もう私ではない。七年かけて静かに萎んでいったこの娘を、あの夜、綛の糸と一緒に解いて送り出したのは、私である。
拾い読みは、そこまでにした。
読み残した頁は、どの冊にもたっぷりある。それでいい。読めない、ではなく、まだ読まない、である。急ぐ旅ではないもの。この娘との付き合いは、これから長いのだから。
「ミンナ。この包み、わたくしの部屋の書き物机へ」
「処分では、ないのでございますね?」
「ええ。――わたくしの七年ですもの。空白ごと、わたくしのものですわ」
◇
午後は、〈糸の家〉へ茶をいただきに行った。
泣いた日の顔というものは、隠しても祖母には通じない。案の定、戸を開けるなり一言である。
「湿っぽい顔だね」
「弔って参りましたの。十六から二十三の、よく我慢する娘を」
「そうかい」
祖母は多くを訊かず、茶を淹れ、蜂蜜の壺を私の側へ寄せた。糸繰りの手を再び動かしながら、手元から目を離さずに言う。
「湿った糸は、切れやすい。……乾かしてお行き」
茶は熱く、蜂蜜は甘い。窓の外では冬の風が鳴っているのに、この家の中だけは糸と蜜蝋と薬草の匂いがして、季節がひとつ緩んでいる。二杯目の頃には、頬の強ばりはほどけていた。
「おばあさま。あの娘は――日記の中の娘は、死にましたのかしら?」
「おや」
祖母は糸車を止めずに、ふん、と鼻で笑った。
「藍色を選んだのは、どこの誰の目だい? ワルツを踊ったのは、どこの誰の足だい?」
「……わたくしの、ですわね」
「なら、生きているんだろうよ。我慢だけ置いて、身軽になっただけさ」
◇
週の終わり。幕間の柱の下で、私は日記の顛末を、演目評のついでのような顔をして話した。
公爵は最後まで黙って聞き、それから、果実水の杯に目を落とす。
「俺は、日記はつけない」
「あら。まめでいらっしゃりそうですのに」
「つけない。……大したことが、なかったのでな。書き留めるまでもない一日は、書かんでも減らん」
なるほど、この方らしい理屈である。頷きかけた私の耳に、続きが落ちてきた。
「――近ごろは、書く気がする」
一瞬、意味を取り損ねた。
取り損ねている間に、幕間の終わりの鐘が鳴り始める。公爵は杯を売り場の台へ返し、いつも通りの無愛想のまま、桟敷の方へ歩き出している。近ごろは、書く気がする。つまり――書き留めたい一日が、近ごろは、あるということで。
……それは、どういう一日ですの?
訊きそびれた問いだけが、鐘の音の中に取り残される。耳の奥が、冬だというのに温かい。あの方の言葉はいつも、返事を待たない形で置かれていく。拾うも捨てるも私の胸三寸――そういう約束のはずなのに、今夜のこれは、拾うも何も、勝手に胸へ入ってきてしまった。
帰り際、正面玄関の脇に、新しい貼り紙が出ている。
冬の演目替わりの報せである。並んだ演目の中に、七年、素通りしてきた楽派の名前がある。読んだ途端、耳の奥で、誰のものでもない声がした。
――頭が、痛くなる。