「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
演目替わりの朝、ミンナが恭しく進み出た。
「お嬢様。本日の空白でございます」
「あら。今日は、何かしら?」
「新しい演目の楽派でございます。……お嬢様は七年、この楽派がお嫌いでございました。決まりの口上まで、ございます。――『頭が痛くなりますの』と」
頭が、痛くなる。
耳の奥の文言と、ぴたりと同じである。使ってきた覚えも、ある。この楽派の話題が出るたび、私はその一句で扉を閉めてきた。誰の受け売りだったのかだけが、例によって空白である。借り物の口上で、聴かず嫌いを七年。
「ミンナ、支度をなさい。頭痛の吟味に参りますわよ」
「……お薬を、お持ちいたします」
◇
当夜の歌劇場は、常より客の入りが薄かった。この楽派、王都では好みの割れることで有名なのだそうである。桟敷に座り、白状すれば、少しだけ身構えている。
序曲の、最初の一音で――床が、鳴った。
低い弦の音が床板を伝い、椅子から膝へ、膝から背骨へ上がってくる。旋律は甘くない。飾りも少ない。その代わり、音の柱が胸の真ん中へまっすぐ立つ。三つ目の和音のあたりで私は身構えるのを忘れ、五つ目のあたりで、手すりへ身を乗り出していた。
頭は――少しも、痛くならない。
痛くなるどころか、幕が下りる頃には、掌が熱くなるまで拍手をしていた。
……好き。あら。
あらあら。まあ。
七年である。七年、この音を、私は借り物の口上ひとつで素通りしてきた。演目表にして何本ぶんになるのか――いえ、勘定はよそう。悔やむより、今夜から聴き直す方が早い。幸い、演目替わりの季節は始まったばかりである。
幕間の回廊へ出ると、柱の下の無愛想が、どこか機嫌が良かった。
分かるようになってしまったのである、この方の機嫌が。眉も口も動いていないのに、立ち姿の重心で分かる。今夜は、軽い。
「良い顔だな」
「良い夜ですもの。……白状いたしますわ。わたくし、この楽派を七年、聴かず嫌いしておりましたの」
「知っている。この楽派の週だけ、君の評は『頭が痛くなる』の一言で終いだった。……七年、その週の口論は、留守でな」
さらりと仰るけれど、それはつまり、留守だった口論を七年、数えていた、ということである。……この方は時々、さらりと恐ろしいことを仰る。
「今夜の指揮は当たりだ。四幕の頭、低弦だけになる場面がある。あそこは、目を閉じて聴くに限る」
「また、公爵様のご趣味ですのね」
「ああ。だが今夜は、口論にならんな」
「なりませんわね。……困りましたこと。誉めるところしか、ございませんの」
「……ああ。困った」
二人して、しばらく黙った。口論にならない夜の柱の下は、勝手が違う。沈黙の置き場所に、二人とも慣れていないのである。先に口を開いたのは、珍しく、公爵の方だった。
「――七年前の秋から、俺はこの柱の下にいる」
問わず語り、という声ではない。棚の上の物を、順に下ろすような声である。
「先代が急に死んだのが、その年の夏だ。二十二で、気づけば公爵だった。……それからの社交界は、顔を上げれば値踏みでな。俺の顔に、皆が値札を探す。爵位の値、領地の値、縁組みの値。誰と話しても、目の奥で
珍しく、長い。長いのに、声の温度は変わらない。この方はいま、好みを語るのと同じ調子で、ご自分の七年を語っている。
「劇場の暗闇だけが、顔を使わんで済む場所だった。幕の間は、皆が舞台を見る。誰も俺を見ない。……この柱は人の流れの死角でな。幕間を立って過ごすには、都合が良い」
「それで、七年」
「ああ。七年だ」
七年。私の七年と、同じ長さである。私が作法の鎧を編んでいた七年、この方は無愛想の鎧を編んでいたらしい。編み方まで、どこか似ている。
そして、気づいてしまった。
この方の「一つずつ」は――二重唱の席も、外れの日の見切りも、皮ごとの果実水も――値踏みの、ちょうど反対側の営みなのである。値段のつけようのないものばかり、この方は差し出してくる。売り物にならない雨上がりの匂い。誰の得にもならない二曲目の理屈。私が拾っても、この方には一文の得もない。得のない交換を、この方は七年、この柱の下で続けてきたのだ。私との口論も、勘定してみれば――きっと、その仲間である。
「公爵様。わたくし、決めましたわ」
「なんだ」
「公爵様のお顔は、値踏みいたしませんの。今後も、一切」
公爵の眉が、わずかに動いた。
「そのかわり、演目のお好みは、遠慮なく値踏みして差し上げます。今夜のところは――癪ですけれど、上値ですわ」
「……上等だ」
目もとが、一段だけ緩んだように見えた。暗い回廊の燭台の下のことだから、確かなことは申し上げられないけれど。
◇
帰邸すると、銀盆の上に、見覚えのある上等な封書が待っていた。
ザイフェルト侯爵家の封蝋である。文面は、練りに練った跡のある、丁寧なものだった。曰く――湖畔の
湖畔の東屋。参った覚えは、ある。冬枯れの並木と、水の匂いのする風と、白い石の柱。覚えているのは、そこまでである。誰と参ったのか、何のための遠出だったのか――例の、明るい穴である。
「ミンナ。湖まで、馬車でどれほど?」
「片道、半日仕事でございます。……お受けになるのですか?」
「ええ。断る理由を探しましたけれど、退屈しか見つかりませんでしたの」
それに――凍った湖というものを、私はまだ、ゆっくり眺めたことがない。空白の場所がいまどんな顔をしているのか、この目で確かめるのも、吟味のうちである。