「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~   作:aquali

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14. 凍った湖の東屋

 湖への道は、街道を北へ半日である。

 

 供は、ミンナと御者たちである。母は玄関で「お土産は結構よ」とだけ仰った。席の吟味は娘に任せる、という顔である。

 

 冬の街道は、空気が硝子のように澄んでいた。畑は霜で白く、並木は影ばかりが長い。半日かけて着いた湖は――一面の、氷である。

 

 岸辺の東屋は、見事に設えられていた。

 

 炭火の鉢がふたつ、膝掛けの毛布、湯気の立つ茶。傍らには楽士までひとり、弦の楽器を抱えて控えている。その真ん中に、仕立ての良い殿方が立っていた。

 

「来てくれたな。……ようこそ、俺たちの始まりの場所へ」

 

 俺たちの始まりの場所。初対面のご挨拶という文面は、どちらへ参りましたの――と思ったけれど、口には出さない。招かれた側の作法として席に着き、茶を一口いただく。熱くて、上等な茶である。

 

「この東屋だ。七年前の春、両家の顔合わせのあと、皆でここへ遠出をした。おまえは白い服で、あの手すりのところに立っていてな。俺が声をかけると、振り向いて――」

 

 殿方は、滔々(とうとう)と語る。声には熱があり、目は懐かしさに細められている。作り話をしている目では、ない。この方の中には、あの日の光も、白い服も、手すりの位置も、まだ全部あるのだろう。

 

 私は、手すりへ目をやる。

 

 白い石の手すり。その向こうの、凍った湖。

 

 立った覚えは、ある。この手すりに手を置いて、水面を眺めた覚えも。けれど、それだけである。隣にいた誰か。遠出の理由。この場所が持っていたはずの意味。思い出の真ん中だけが、この東屋ごと、きれいにくり抜かれている。

 

「……なあ。思い出しただろう?」

 

 殿方が、身を乗り出した。

 

 私は茶碗を置き、正直に、丁寧に、お答えする。

 

「参ったことは、ございますわね。……何のためにだったかは、存じませんけれど」

 

 風が、氷の上を渡っていった。

 

 楽士の指が、弦の上で所在なく止まっている。殿方は口を開け、何かを言いかけ――

 

「そんな、はずは。ここで、おまえは俺に、初めて笑いかけて……そう、だろ……」

 

 語尾が、途中で凍った。

 

 だろう、の先が続かないのである。あの器用な問いの形は、こちらのうなずきを貰って、初めて完成する。うなずく首は、ここにはない。練習した初対面の口上も、今日は出てこない。殿方はただ、氷の湖を見た。長いこと、動かない。

 

「……そうか」

 

 やがて、それだけ仰った。

 

 勝ち誇りも、食い下がりもない、初めて聞く声である。殿方は楽士を下がらせ、自分は手すりの前に立った。広い背中と、その向こうの白い湖だけが、しばらく並んでいる。

 

 ――重いのだろう、と思う。

 

 私の空白は、痛まない。くり抜かれた場所は、明るくて、軽い。けれどあの方の中には、七年がまるごと残っているのである。光も、白い服も、笑い声も、ぜんぶ。そして、その置き場所が、もう世界のどこにもない。荷物の重さは、背中の丸みで分かるものらしい。

 

 気の毒、とは少し違う。憐れみは、たぶん無礼である。ただ――覚えている側の寒さというものを、私は今日、初めて隣で見た。

 

「……帰りは、冷える。早めに発つといい」

 

 殿方は、振り向かずにそれだけ仰った。

 

 私は立ち上がり、丁寧に礼をする。

 

「お茶は、ごちそうさまでした。……良いお席でしたわ」

 

 礼は、事実の分だけ。それが今日の私に言える、精一杯の、嘘のない言葉である。

 

       ◇

 

 ザイフェルト侯爵家、当主の書斎。湖畔から戻った息子は、夕餉(ゆうげ)も断って部屋に籠もったという。ヴィーラント侯爵は、廊下の静けさに耳を澄ませた。近ごろ、あの「だろう?」を聞かない。屋敷が、妙に静かである。折しも、フェルゼンの大伯母レオカディア様より文が一通。曰く、あの娘のために心づくしの会を催すゆえ、案ずるな、と。侯爵は文を二度読み、長い息を吐いた。ああいう善意ほど、止めにくいものはない。

 

       ◇

 

 帰りの馬車が王都へ入る頃、冬の陽は暮れかけていた。

 

 大通りの広場に差しかかったところで、見覚えのある外套が、石畳を歩いているのが見える。

 

「停めてちょうだい」

 

 我ながら、言うのが早かった。ミンナが目を丸くしている間に、私は馬車を降りている。

 

「公爵様」

 

「……なんだ、君か」

 

 振り向いた無愛想の鼻先が、寒さで少し赤い。それだけのことが、なぜだか可笑しい。

 

「湖の帰りか」

 

「あら。よくご存じですこと」

 

「ヨストが聞いてきた。屋敷の者は、耳が早い」

 

 公爵は言い訳のようにそう仰って、それから、広場の奥を親指で示した。

 

「――いいものを見せてやる。回り道になるが」

 

「回り道は、嫌いな家風ですの」

 

「そうか。なら、やめておこう」

 

「本日だけ、家風を曲げますわ」

 

 広場の奥には、大きな石の噴水があった。冬のあいだ水を止められて、受け皿には張った氷と、縁から垂れた氷柱(つらら)が残っている。公爵は足元から親指ほどの氷の欠片を拾い、受け皿の氷の上へ、滑らせるように放った。

 

 ――キィン。

 

 澄んだ高い音が氷の面を走って、石の縁をぐるりと回った。

 

「凍った噴水は、いい音で鳴る。水を止めた冬の間だけの楽器だ。……誰も聴かんがな」

 

「まあ」

 

 私も欠片を拾う。手袋越しにも、指先がきんと冷える。放る。私のは途中で跳ねて、間の抜けた音を立てて転がった。

 

「骨のある音ですわね」

 

「今のは外れだ。薄い欠片ほど、よく歌う」

 

「では、薄いのを」

 

 二枚目は、鳴った。キン、と細い声で鳴いて、氷の上をどこまでも滑っていく。三枚目は、もっとよく鳴る。四枚目を放る頃には、私は声を立てて笑っていた。夕暮れの広場で、伯爵令嬢と公爵閣下が、いい歳をして氷を放っているのである。行き交う人は疎らで、誰も見世物にしない。

 

「……よく笑うようになったな」

 

「ええ。七年ぶんを、笑い直しておりますの」

 

 帰りの馬車の中で、私は今日の二つの氷を思い返す。

 

 同じ、凍った水である。湖の氷は、あの方の七年を抱えたまま、白く黙りこんでいる。噴水の氷は、放られて、歌う。どちらになるかは、たぶん水の性質ではない。誰の隣で鳴るかを、自分の手で選べるかどうかである。

 

 ――私は、鳴る方の氷がいい。

 

 屋敷に着くと、玄関の銀盆に、ひときわ華やかな封書が載っていた。金の縁取りに、薔薇の香を焚きしめた便箋。差出人は父方の大伯母――社交界の重鎮、レオカディア様である。

 

 曰く。『愛しいカロリーネ。あなたのために、心づくしの会を開きますからね』

 

「……ミンナ。嫌な予感がいたしますわ」

 

「奇遇でございます。わたくしも、先ほどから」

 

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