「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
湖への道は、街道を北へ半日である。
供は、ミンナと御者たちである。母は玄関で「お土産は結構よ」とだけ仰った。席の吟味は娘に任せる、という顔である。
冬の街道は、空気が硝子のように澄んでいた。畑は霜で白く、並木は影ばかりが長い。半日かけて着いた湖は――一面の、氷である。
岸辺の東屋は、見事に設えられていた。
炭火の鉢がふたつ、膝掛けの毛布、湯気の立つ茶。傍らには楽士までひとり、弦の楽器を抱えて控えている。その真ん中に、仕立ての良い殿方が立っていた。
「来てくれたな。……ようこそ、俺たちの始まりの場所へ」
俺たちの始まりの場所。初対面のご挨拶という文面は、どちらへ参りましたの――と思ったけれど、口には出さない。招かれた側の作法として席に着き、茶を一口いただく。熱くて、上等な茶である。
「この東屋だ。七年前の春、両家の顔合わせのあと、皆でここへ遠出をした。おまえは白い服で、あの手すりのところに立っていてな。俺が声をかけると、振り向いて――」
殿方は、
私は、手すりへ目をやる。
白い石の手すり。その向こうの、凍った湖。
立った覚えは、ある。この手すりに手を置いて、水面を眺めた覚えも。けれど、それだけである。隣にいた誰か。遠出の理由。この場所が持っていたはずの意味。思い出の真ん中だけが、この東屋ごと、きれいにくり抜かれている。
「……なあ。思い出しただろう?」
殿方が、身を乗り出した。
私は茶碗を置き、正直に、丁寧に、お答えする。
「参ったことは、ございますわね。……何のためにだったかは、存じませんけれど」
風が、氷の上を渡っていった。
楽士の指が、弦の上で所在なく止まっている。殿方は口を開け、何かを言いかけ――
「そんな、はずは。ここで、おまえは俺に、初めて笑いかけて……そう、だろ……」
語尾が、途中で凍った。
だろう、の先が続かないのである。あの器用な問いの形は、こちらのうなずきを貰って、初めて完成する。うなずく首は、ここにはない。練習した初対面の口上も、今日は出てこない。殿方はただ、氷の湖を見た。長いこと、動かない。
「……そうか」
やがて、それだけ仰った。
勝ち誇りも、食い下がりもない、初めて聞く声である。殿方は楽士を下がらせ、自分は手すりの前に立った。広い背中と、その向こうの白い湖だけが、しばらく並んでいる。
――重いのだろう、と思う。
私の空白は、痛まない。くり抜かれた場所は、明るくて、軽い。けれどあの方の中には、七年がまるごと残っているのである。光も、白い服も、笑い声も、ぜんぶ。そして、その置き場所が、もう世界のどこにもない。荷物の重さは、背中の丸みで分かるものらしい。
気の毒、とは少し違う。憐れみは、たぶん無礼である。ただ――覚えている側の寒さというものを、私は今日、初めて隣で見た。
「……帰りは、冷える。早めに発つといい」
殿方は、振り向かずにそれだけ仰った。
私は立ち上がり、丁寧に礼をする。
「お茶は、ごちそうさまでした。……良いお席でしたわ」
礼は、事実の分だけ。それが今日の私に言える、精一杯の、嘘のない言葉である。
◇
ザイフェルト侯爵家、当主の書斎。湖畔から戻った息子は、
◇
帰りの馬車が王都へ入る頃、冬の陽は暮れかけていた。
大通りの広場に差しかかったところで、見覚えのある外套が、石畳を歩いているのが見える。
「停めてちょうだい」
我ながら、言うのが早かった。ミンナが目を丸くしている間に、私は馬車を降りている。
「公爵様」
「……なんだ、君か」
振り向いた無愛想の鼻先が、寒さで少し赤い。それだけのことが、なぜだか可笑しい。
「湖の帰りか」
「あら。よくご存じですこと」
「ヨストが聞いてきた。屋敷の者は、耳が早い」
公爵は言い訳のようにそう仰って、それから、広場の奥を親指で示した。
「――いいものを見せてやる。回り道になるが」
「回り道は、嫌いな家風ですの」
「そうか。なら、やめておこう」
「本日だけ、家風を曲げますわ」
広場の奥には、大きな石の噴水があった。冬のあいだ水を止められて、受け皿には張った氷と、縁から垂れた
――キィン。
澄んだ高い音が氷の面を走って、石の縁をぐるりと回った。
「凍った噴水は、いい音で鳴る。水を止めた冬の間だけの楽器だ。……誰も聴かんがな」
「まあ」
私も欠片を拾う。手袋越しにも、指先がきんと冷える。放る。私のは途中で跳ねて、間の抜けた音を立てて転がった。
「骨のある音ですわね」
「今のは外れだ。薄い欠片ほど、よく歌う」
「では、薄いのを」
二枚目は、鳴った。キン、と細い声で鳴いて、氷の上をどこまでも滑っていく。三枚目は、もっとよく鳴る。四枚目を放る頃には、私は声を立てて笑っていた。夕暮れの広場で、伯爵令嬢と公爵閣下が、いい歳をして氷を放っているのである。行き交う人は疎らで、誰も見世物にしない。
「……よく笑うようになったな」
「ええ。七年ぶんを、笑い直しておりますの」
帰りの馬車の中で、私は今日の二つの氷を思い返す。
同じ、凍った水である。湖の氷は、あの方の七年を抱えたまま、白く黙りこんでいる。噴水の氷は、放られて、歌う。どちらになるかは、たぶん水の性質ではない。誰の隣で鳴るかを、自分の手で選べるかどうかである。
――私は、鳴る方の氷がいい。
屋敷に着くと、玄関の銀盆に、ひときわ華やかな封書が載っていた。金の縁取りに、薔薇の香を焚きしめた便箋。差出人は父方の大伯母――社交界の重鎮、レオカディア様である。
曰く。『愛しいカロリーネ。あなたのために、心づくしの会を開きますからね』
「……ミンナ。嫌な予感がいたしますわ」
「奇遇でございます。わたくしも、先ほどから」