「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
レオカディア様は、父方の大伯母である。
社交界に君臨すること四十年、王都の茶会の格式は、この方の扇のひと振りで決まると言われる。
「だ、大丈夫なのか? 大伯母上のお招きは、あれは実質、召喚状だぞ」
「あら。お茶会ですわよ、お父様」
「大伯母上のお茶会は、お茶会という名前の、何か別のものなのだ……」
怯える父と、面白がる母に見送られて、当日、私は藍色で参上する。
――会場の扉が開いた瞬間、深呼吸がひとつ、要った。
若草色、である。
壁の飾り布から、卓の花から、給仕の胸元のリボンまで、会場ぜんたいが見事に若草色で統一されている。春の野原の出来損ないが、屋敷ひとつ分。卓には焼き菓子と杏の砂糖漬けが並び、楽団は七年前に流行った円舞曲を奏でている。
中央の椅子から、大伯母様が両腕を広げた。
「いらっしゃい、愛しいカロリーネ! さあ皆様、始めますよ。本日は――『昔のカロリーネさんに戻す会』ですからね」
名前まで、ついていた。
「あなたが、あの騒動ですっかり変わってしまわれたと聞いて、わたくし、いても立ってもいられなかったのよ。ここには、あなたの好きだったものだけを集めましたからね。ゆっくり、元のあなたにお戻りなさいな」
悪意は、ない。
匙一杯ぶんも、ない。まじりけなしの、上等な、砂糖漬けのような善意である。だから、質が悪いのである。悪意なら、悪趣味ですのよと申し上げれば済む。善意は、そうはいかない。
周りの奥様がたも、口々に仰ってくださる。
「昔のあなたは、それは静かで、奥ゆかしくて」
「若草色がお似合いでしたのよ。――ほら、大伯母様が」
大伯母様が自ら、若草色の肩掛けを広げて、こちらへいらっしゃる。会場じゅうの目が、私の肩へ集まった。ここで羽織れば、めでたく「元のカロリーネ」の出来上がり――そういう式次第である。
私はまず、卓の
「まあ。……こちら、いまでも好きですわ」
「そうでしょうとも! あなたの、大好物で……」
「甘さの奥に、杏の酸っぱいところが残っておりますもの。七年前のわたくしも、良い舌をしておりましたのね」
大伯母様が、おや、というお顔をなさる。私は肩掛けの一歩手前で足を止め、精一杯たおやかに礼をした。
「大伯母様。皆様。本日は、わたくしのために、ありがとう存じます。……皆様が覚えていてくださる『昔のカロリーネ』は、静かで奥ゆかしい、それは良い娘ですのね。伺っていて、少し、会ってみたくなりましたわ」
「……会う、って。あなた」
「ええ、読み残した頁で、いずれ。――ですけれど本日は先に、皆様にお引き合わせしたい者がございますのよ」
会場が、しんとなる。私は扇を胸に当てた。
「今のわたくしですわ。――藍色を着ます。劇場では、声を立てて笑います。ワルツは、二曲目に踊ります。謝るのは、謝る理由のあるときだけ。つまらないお話には、うなずきません。……そして、杏の砂糖漬けは、いまでも好き。以後、お見知りおきくださいませ」
戻すのではなく、引き合わせる。式次第の書き換えは、ほんの一行である。
長い、長い沈黙が落ちた。
大伯母様は扇を止めたまま、私の顔をじっと見ていらっしゃる。責める目ではない。絵姿の出来を確かめる、目利きの目である。やがて――
「……あら」
扇が、ぱちりと閉じた。
「今のほうが、顔がいいわね」
「大伯母様!?」と、どなたかの声が裏返る。大伯母様は構わず、給仕を手招きなさった。
「この飾り布は、全部お下げなさい。辛気くさい。皆様、お聞きの通りですよ。本日の会は、名前を替えます。『今のカロリーネさんと知り合う会』。……楽団、その曲もおやめなさいな。何か、今の曲を」
好事家の夫人の折といい、王都の貴婦人の引き際は、どうしてこうも豪快なのだろう。会はそのまま、存外に楽しいお茶会になった。帰り際、大伯母様は私の手を取り、耳元で一言だけ仰る。
「――気に入らない相手が出てきたら、わたくしの名前をお使いなさいな。ああ、それと」
扇の先が、ちょい、と窓の外を指した。
「お迎えが、来ているわよ」
◇
門の外の街路に、見覚えのある外套が立っていた。
夜会嫌いで、茶会など尚更お嫌いのはずの方が、冬の門前に、である。馬車は、例によってどこにもない。
「公爵様。……本日は、茶会ですのよ?」
「知っている。入る気はない。……散歩だ」
「公爵様がたのお散歩は、皆様こちらの門の前を通りますの?」
「……偶然だ」
二度目の「偶然」を伺う前に、奥様がたが門から流れ出ていらした。私と公爵とを見比べて、扇の陰の目が忙しく往復する。やがて、お一人が勇気を出された。
「ヴィンターベルク公爵様……ですわよね? あの、カロリーネさんの、お連れ様でいらっしゃいますの?」
「連れではない」
即答である。奥様がたの扇が、いっせいに揺れる。公爵はその空気を一拍だけ泳がせて、いつもの断定で続けた。
「……口論の相手だ」
奥様がたは、きょとんとなさった。それでも何か、ただならぬものだけは察したお顔で、会釈とともに散っていかれる。
残された私は、扇の内側で、名乗りを転がしてみる。
口論の相手。
連れでも、お友達でも、求婚者でもない。七年、名乗りもせず芝居の話だけをしてきた仲を過不足なく言えば、確かにそうなる。世の殿方の飾った口説き文句より、よほど正確で――正確であることが、なぜこんなに、くすぐったいのだろう。
「変わった名乗りですのね」
「事実だ」
「ふふ。……ええ。事実ですわ」
冬の夕暮れの道を、馬車を後ろに歩かせて、並んで歩く。息が白い。街灯が一つずつ点いていく。沈黙が、今日は少しも重くない。
別れ際――屋敷への辻で、公爵がふいに足を止めた。
「――三年前の冬。君は『あの結末は逃げだ』と言った」
「……ええ、申しましたわ。あの冬の千秋楽。よく覚えておりますもの」
口論なら、私も全部覚えている。あの冬の演目も、言い合った台詞も。けれど公爵は今、口論の続きを仰らない。街灯の下で、冬の湖の色の目が、私の知らない、あの冬の何かを見ている。
「あのとき、君は――」
言いかけて、公爵は口を閉じた。
「公爵様?」
「……いや。今日は、ここまでだ」
一礼して、無愛想は夕闇の中へ歩き去っていく。いつも言葉を置いていく方が、今夜は初めて、言葉を持ち帰った。
――あの続きは、何でしたの?
持ち帰られた言葉の形だけが、街灯の下に、置き忘れた手袋のように残っている。