「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
持ち帰られた言葉ほど、置き場所に困る荷物はない。
街灯の下で公爵が飲み込んだ「あのとき、君は――」の続きは、翌週の幕間になっても出てこなかった。それどころか、である。
「……先週の演目は、悪くなかった」
「ええ。……良い演目でしたわね」
口論に、ならないのである。あの方と私の評が揃うことなど年に一度あるかないかで、揃えば揃ったで、揃い方が気に食わないと一悶着するのが常であるのに、その夜の柱の下は、借り物のように行儀が良かった。互いに、相手の手の内の何かへ触らないよう、そっと言葉を選んでいる。七年目にして初めての、丁寧な幕間である。
丁寧なだけの幕間が、これほど味気ないものだとは、知らなかった。
桟敷へ戻る途中、一度だけ振り返りたくなって、やめておく。振り返れば、何かを訊いてしまいそうだったからである。
◇
帰邸して、私は暖炉の前の椅子に沈んだ。
吟味には、まず棚卸しである。
三年前の冬の千秋楽を、私は覚えている。演目も、結末も、柱の下で「あの結末は逃げだ」と言い放った自分の声も。言われた公爵が珍しく長く黙り、それから「……君は、たまに剣より鋭い」と返したことまで、ちゃんとある。
試しに、指を折ってみる。初年の秋は、結末の趣味で一悶着。二年目の春は、歌姫の当たり外れで痛み分け。四年目の秋には、新作の台本を巡って、幕間ふたつ分の大立ち回り――全部、出てくるのである。年表が編めるほど、するすると。口論なら七年ぶん、一分も欠けていない。あの方の側の時間は、全部あるのだ。
欠けているのは、口論の外側である。
口論を切り上げ、鐘に急かされて、私がどちらの桟敷へ帰っていったのかが、分からないのである。残っているのは、隣にいたはずのどなたかの、声の文言だけ。声を立てるな。頭が痛くなる。文言は、ある。理由が、ない。
そして――気づいてしまった。
柱の下は、果実水の売り場の脇。人の流れの死角。あの方は七年、あそこに立っていらした。ならば、見えていたはずなのである。私がどこから来て、どこへ帰るのかも。誰の隣で笑いを畳み、どなたの好みの若草色を着ていたのかも。口論の前と後という、私の空白のちょうど縁のところを、あの方は七年、あの死角から眺めてきたはずなのだ。
私の空白の、理由の側。
それを知っている方が、この世にお一人だけ、いらっしゃる。
火掻き棒を握ったまま、私は長いこと、
盆を持って入ってきたミンナが、火掻き棒を握りしめたままの私を一瞥して、そっと一歩、後ずさった。
「お嬢様。焼き菓子に、罪はございませんよ」
「あら。……そんなに怖い顔をしていて?」
「炉端の敵を討つお顔でございました」
焼き菓子は、甘く焼けていた。怖い顔の夜に効く、罪のない甘さである。
◇
週の終わり。冬の演目は今夜もよく鳴っていたはずだけれど、半分も聴けていない。
幕間の鐘と同時に桟敷を出て、柱の下へまっすぐ参る。回廊は香水と蝋の匂いで暖かい。無愛想は定位置にいて、私の顔を見ると、何かを察した気配で果実水の杯を台へ置いた。
「今夜は、演目の評を持って参りませんでしたの」
「……そういう顔だな」
「代わりに、一つだけ。――あの晩の続きを、なぜお飲み込みになりましたの?」
公爵は、すぐには答えない。回廊のざわめきが、この柱の周りだけ、少し遠くなった気がする。
「七年。俺はここから、幕間の君を見てきた」
やがて、低い声が言う。
「君がどちらから歩いてくるか。口論のあと、誰の隣へ帰っていくか。……君が笑いをひとつ畳むたび、隣の男がどんな顔をしていたか」
息が、ひとつ止まる。
「あの晩の続きは、俺の見た事実だ。だがあれは、君の空白の内側の話でもある。踏み込むかどうかを、俺が決めるべきではない。だから、飲み込んだ。……それだけだ」
それだけだ、で終われる話ではない。分かっていて、この方はそこで棚を閉める。私が何か言うより先に、公爵は続けた。
「言っておく」
冬の湖の色の目が、燭台の火でわずかに揺れる。
「求められれば、俺の見た事実は話す。隠しも、出し惜しみもせん。――だが、君がどんな人だったかを、俺の口から定義はしない。事実は渡す。人物は描かん。今の君が選べ」
めまいというものを、私は生まれて初めて、立ったまま経験した。
空白の理由を知る方が、目の前にいらっしゃる。七年ぶんの「なぜ」の答えを、この方は棚いっぱいに持っている。そして七年、ただの一度も、開けて見せなかったのだ。開けようと思えば、いつでも開けられたのに。「昔の君はこうだった」とひとこと仰れば、私という娘を、お好きな形に描き直すことさえできたのに。
なんという節度。なんという――不気味なほどの、律儀。
柱の石へ、手袋の指先で触れてみる。石の冷たさが、布越しにゆっくり上がってくる。体はちゃんとここにあるのに、それを確かめたくなるほど、足元が頼りない。くらりとする頭の芯で、けれど小さな棘が一本、ちくりと立った。
事実は渡す。人物は描かない。……その境目は、どこに引いてある定規なのかしら? 私が笑いを畳んだ、は事実である。私が笑いを畳む娘だった、は人物である。同じ出来事の、表と裏ではなくて?
鐘が鳴る。
公爵が台を離れ、桟敷の方へ
「公爵様」
「なんだ」
「では――教えてくださいませ。全部」