「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
あの晩、「全部」と申し上げた私に、公爵は即答なさらなかった。
鐘の二度目が鳴り終わるまで黙り、それから「……次の幕間までに、答えを用意しておく」とだけ仰って、桟敷へ戻っていかれたのである。即答の方の、宿題である。よほど大きな棚を開ける支度でもなさるのだろうと、私は勝手に、そう構えていたのだけれど。
想像は、外れることになる。
◇
一週間、私は上の空で過ごした。
ミンナに三度「お嬢様」と呼ばれて二度聞き逃し、刺繍の針を同じ場所へ二度刺す体たらくである。知りたい、と思う。七年ぶんの「なぜ」を、洗いざらい。その望みのどこにも、後ろ暗いところはないはずである。自分のことを自分が知らないままでいる謂れこそ、どこにもないのだから。
それなのに、胸の隅がずっと、薄曇りなのである。理由は、当夜に分かることになる。
◇
幕間の柱の下で、公爵は先に待っていた。
「宿題の、返事だ」
「伺いますわ」
公爵は、一拍おいた。反論の前のいつもの一拍ではない。もっと重い、目方のある一拍である。
「――君は、空白を埋めたいのか?」
静かな声だった。
「それとも、誰かの目で描いた『昔の君』を、もう一度、着せられ直したいのか?」
着せられ、という言葉が、耳の奥で若草色に鳴った。
「……どういう意味ですの?」
「俺の見た七年は、俺の目で描いた君だ。俺が語れば、君はそれを着ることになる。……それは、君自身ではない」
理屈は、通っている。通っているから、なお腹が立った。
「わたくしは、事実を伺いたいと申し上げましたのよ。着せていただきたいなどとは、ひとことも」
「事実は、着る物になる。……渡した先で、な」
売り場の灯りが、杯の中でちらちらしている。私は自分の声が硬くなるのを、他人事のように聞いていた。
「では、伺いますけれど。あなたは七年、あの死角からわたくしの空白の縁だけを眺めて、事実だ、人物だ、と定規をお引きになって――その定規は、どなたのためのものですの? わたくしのため? それとも、描いた責めを負いたくない、ご自分のためかしら?」
言い終えてから、一拍遅れて自分の耳へ届いた。これは口論ではない。的を狙って、人を射る言葉である。
公爵の眉は、動かない。動かないことが、返事のようだった。
「……今夜は、これまでにしよう」
「ええ。そういたしましょう」
礼だけは、していた。体は七年、礼だけは忘れないのである。柱の下を離れる私の背中で、幕間の終わりの鐘が鳴った。いつもは名残惜しいはずの鐘が、今夜は救いの鐘に聞こえる。それが、いちばん情けなかった。
◇
帰りの馬車で、ミンナは何も訊いてこない。
訊かない代わりに、屋敷へ着くなり熱い茶を淹れ、蜂蜜の壺を黙って私の側へ寄せる。祖母の家の流儀である。うちの侍女どのは、あれで存外、目端が利く。
茶を半分ほどいただいて、気がついた。
今夜、あの方の「一つ」が、ない。
二重唱の席。外れの日の見切り。二曲目の理屈。皮ごとの果実水。思い返せば、あの柱の下には、いつも何かしらひとつ、あの方の好みが置いていかれた。拾うも捨てるも私の胸三寸の、値札のつかない小さな一つ。それが今夜は、ない。ないと気づいた途端、夜が、奥歯を一本抜かれたようにすうすうするのである。
……いつの間に、私は。
あれを、当てにして――。
その先は、今夜は考えないことにする。考えるべきは、もう一つの方である。私はなぜ、あれほど腹が立ったのか? 的外れな問いなら、笑って受け流せたはずなのだ。七年、的外れにはたっぷり慣れている。腹が立ったのは、あの問いが、真ん中に当たったからである。
埋めたいのか、着せられ直したいのか――あの二択が、茶碗の湯気の向こうで、まだゆっくり回っている。
その二つの境目が、自分でも分からないのである。分からないところへ、先に定規を引いてみせた方が現れたから、腹が立った。八つ当たり、という言葉が、茶碗の底からこちらを見上げている。
……今夜は、決めない。
決めないことだけを決めて、私は茶を飲み干した。
◇
ヴィンターベルク公爵邸、家令ヨストの覚え書き。閣下、夜半の書斎にてブランデーをご所望になる。仰せの銘が、当家の酒蔵には置かぬ銘であった。その旨申し上げると、閣下は空の杯を長くご覧になり、「……そうか」とのみ仰せである。閣下が酒の銘をお違えになるのは、お仕えして十五年で初めてのこと。秋の折は、屋根の雨漏りで済んだ。この度は屋根では済むまいと見て、明朝、蔵と
◇
翌々日、私は〈糸の家〉の戸を叩いた。
泣いてはいない。泣いてはいないのに、祖母は戸を開けるなり、いつもの調子で言うのである。
「――喧嘩をしてきたね」
「……なぜ、お分かりになりますの?」
「湿ってもいないのに、しわの寄った顔だからさ。乾いた洗濯物を握り潰すと、そういう顔になる」
茶が出て、蜂蜜の壺が寄って、糸車が回り出す。私は洗いざらい話した。持ち帰られた言葉のことも、棚と定規のことも、あの問いのことも、自分の言い過ぎたことも。祖母は糸繰りの手を止めずに聞き、聞き終えると、ふん、と鼻を鳴らした。
「その問いはね、あんたを突く問いじゃないよ」
「……と、仰いますと?」
「七年、自分を突いてきた男の、癖が出ただけの問いさ。悔いのある人間はね、人の傷の前に立つと、決まって言葉が不器用になる。……踏んだ覚えのある足は、よく痛むからね」
糸車が、からりとひと回りした。
「カロリーネ。次の幕間はね、口論はお休みにしてごらん。――喧嘩の相手の悔いを、見ておいで」