「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
喧嘩の相手の悔いを、見ておいで。
祖母の言葉を外套の内側に入れて、週の終わり、私は歌劇場の大階段を上がった。演目は先週と同じはずである。同じでないのは、こちらの胸の内だけで――正直に申し上げれば、幕の間じゅう、舞台より幕間のことばかり考えていた。
鐘が鳴る。
回廊へ出ると、柱の下に、無愛想は今夜も立っていた。目が合って、どちらからともなく、小さな会釈になる。喧嘩の翌週の作法など、七年のどこにも書いていないのである。互いに、手探りである。
「……先週のことですけれど」
と、私が口を開きかけたときだった。
「俺から話す」
公爵は、果実水の杯を二つ、台から取った。一つを私に持たせる。皮ごと搾った橙の、ほろ苦い匂いがする。腹の立った日に効く味――ではなく、今夜のこれは、覚悟の匂いに似ていた。
「七年」
と、公爵は言う。
「俺は、週に一度の、この柱の下だけを楽しみにしてきた。芝居がはねて、君が来る。君の評は俺と揃わん。揃わんのが、良かった。……あの時間の外で俺が何をしていたかと言えば――何も、していなかった」
珍しく、言葉が順を追わない。棚から下ろすのではなく、床に散らばった物を拾い集めるような話し方である。
「君の連れの物言いも、君が笑いを飲む癖も、若草色が君の顔に合わんことも――見えては、いたのだ。見えていて、貴族の婚約とはそういうものだと、深くは見なかった。俺は口論の続きだけを惜しんで、君の窮屈に、名前を付けてやらなかった」
燭台の火が、揺れる。
「君が、自分の色のひとつも選べずにいたと知ったのは、全部が終わってからだ。……先週の問いを、覚えているか?」
「……空白を埋めたいのか、という、あの問いですわね」
「あれは、君に向けた問いじゃない。七年遅れの、俺に向けた問いだ。――見えていたのに埋めなかった男が、いまさら口を開いていいのか、というな。それを君にぶつけた。不器用にも、ほどがある。……悪かった」
この方の「悪かった」を、私は初めて聞いた。
回廊のざわめきが遠い。手の中の杯を見る。橙の果肉が、燭台の灯りを受けて小さく光っている。怒りは、もうどこにも見当たらなかった。かわりに胸へ来たのは、もっと厄介なものである。七年、私の窮屈を「そういうもの」の棚に置いたことを、この方はずっと、罰のように持ち歩いてきたらしい。私の空白より、よほど重い荷物である。あの晩から回り続けていた二択が、いつの間にか、止まっていた。この方の白状が、二択の外側に、三つ目の道を照らしたからである。
「埋めるかどうかは、君が決めろ」
公爵は言った。
「事実が要るなら、全部渡す。要らんと言うなら、二度と口にせん。俺は、どちらでも従う」
鐘が、鳴った。
四幕の始まりを告げる、いつもの鐘である。公爵は、動かない。私も、動かない。七年、この鐘に急かされて別れてきた二人が、今夜は二人とも、鐘より大事なものをこの柱の下に置いている。回廊から人が引いて、遠くで幕の上がる気配がする。
「――決めましたわ」
と、私は言う。
「空白は、埋めませんの」
公爵の目が、わずかに開かれる。
「七年かけて曲がった娘を、七年ぶんの伝聞で組み立て直しても、出来上がるのは『どなたかの描いたわたくし』ですわ。それを着るのは、もう、ごめんですの。わたくしは、これから選ぶほうを生きます。……ですから、あなたの棚は、閉めておいてくださいまし。鍵は、かけなくてよろしくてよ」
「……いいのか? 俺は、君の七年を見ていて――埋めなかった」
「ええ。伺いましたわ」
私は杯を台に置き、背筋を伸ばした。生涯でも上から数えるほど、丁寧な礼をする。
「その罪状でしたら、罰は、わたくしが決めますわ」
「……罰?」
「罰として、覚え直しなさいませ。今のわたくしの好みを、一つずつ。七年ぶん、利子をつけて。……終身の罰ですわよ。何しろわたくしの好みは、これから先も、増えますもの」
公爵は、しばらく黙っている。
それから、ゆっくりと息を吐く。笑うと存外に人相がお悪いこの方が、人相の悪くなる一歩手前の顔で、杯をわずかに上げた。
「……重い罰だな」
「あら。刑に、服しませんの?」
「服す。――一生かけてな」
四幕は、もう三場面ほど進んでしまっている。私たちは廊下を戻り、それぞれの桟敷の扉の前で別れた。後ろの席に座る。音が天鵞絨の壁に溜まる、あの聴こえ方の中で、私は仕切りの壁へ、小声で言ってみる。
「――公爵様。聞こえていらして?」
壁の向こうで、衣擦れの気配が止まった。
「一つ目ですわ。四幕は、後ろの席で聴くのが好きになりましたの。……どなたかの、入れ知恵で」
一拍。
「……一つ目。確かに、覚えた」
低い声が、天鵞絨越しに返ってくる。舞台の上では、誰かが誰かに永遠を誓っている。私は暗がりで一人、扇の内側で笑った。罰と言いながら、私がこの方に頼んだのは、つまり――これから先の私を、隣で見ていてほしい、ということなのである。気づいてしまったけれど、今夜のところは、気づかなかったことにしておく。
◇
上機嫌で帰邸した私を迎えたのは、玄関の、妙な静けさである。
出迎えたミンナの顔が、硬い。廊下の奥、妹の部屋の扉の下から、灯りが漏れている。近づくと、灯りと一緒に、押し殺した泣き声が漏れていた。