「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
扉を叩くと、泣き声が、ひゅっと引っ込んだ。
「イーダ。姉ですわ。開けてちょうだいな」
返事の代わりに、しばらくして、鍵の外れる音がする。
妹は、寝台の上で膝を抱えていた。デビューしたての十七歳。頬は涙の道で光り、目の縁は杏の色である。床には、招待状が一枚落ちていた。拾い上げると、婚約披露の宴の報せである。お相手の令嬢のお名前の隣に、妹が今年の春からずっと、便箋の端に書いては消していたお名前があった。
「……騎士団の、あの方ね」
「知らないっ」
知らない、と言える程度には、知っているのである。私は招待状を裏返して床へ戻し、寝台の端に腰をおろす。妹はしばらく枕と格闘してから、涙でふやけた声で、ぽつりと言った。
「お姉様は、いいわ」
「あら。何がですの?」
「忘れられて。……きれいさっぱり、痛くも痒くもなくて。わたしも――わたしも、解きたい。おばあさまのところへ、連れて行って」
来たか、と思う。
説教の言葉なら、十ほど浮かぶ。浮かんだ十を、全部飲み込んだ。七年、正しい言葉で曲げられてきた身である。曲げられた側の私が使っていい道具は、説教ではない。
「いいわ。……その前に、一つだけ、見せたいものがあるの」
◇
私の部屋の書き物机で、私は妹の前に、日記の束を置いた。
「読んでごらんなさいな。どこでもいいわ」
妹は
「……お姉様、ここ。お名前が書いてあるわ。『今日も、ローレンツ様と』……って」
「もう一度、ゆっくり読んでちょうだいな」
「ローレンツ様、よ」
妹の唇が、四つぶん動く。私の耳に残ったのは、最初のひと粒だけである。
「……ロ、まででしたわ。あとは、砂」
「砂……?」
「聞いたそばから、流れていきますの。読んでも、同じ。わたくしの字が、それは大切そうに書いてあるでしょう。読めるのに、結ばれないの。この日記に七年通っていらっしゃるその方が、どなたなのか、わたくしにはもう一生、分かりませんのよ」
妹の目が、日記と私の顔を、何度も往復した。
頬の涙は、いつの間にか乾いている。かわりに、血の気も少し引いている。妹が見ているのは、たぶん、忘れられた後の世界の実物である。軽いですわよ、と私は胸の内で申し上げる。軽くて、明るくて――そして、ただでは、ないの。
「イーダ。それでも解きたいのなら、お連れするわ」
◇
翌日、二人で〈糸の家〉へ参った。
祖母は妹の顔を一目見て、何も訊かずに奥へ立ち、黒い糸の
「これを、日暮れから夜明けまで、素手で解く。指の腹が擦り切れても、途中でやめれば、それきり。あんたの一生の一度は、解きかけの綛と一緒に失くなるよ」
「……一晩、我慢すればいいのね?」
「おや、威勢がいいね」
祖母は綛を、ことりと妹の前へ押した。
「なら、その前に訊くがね。――あんたの縁は、どこにあるんだい?」
「……え?」
「この糸はね、相手の側から手放された縁しか、解けないんだよ。生きている縁は、解けない。……あの騎士どのは、あんたに何をくれたね? 約束かい? 指輪かい? 言葉ひとつでもいい。あんたを『手放す』と言えるだけの何かを、あの子は一度でも、あんたに握らせたかい?」
妹の唇が、震えた。
「……何も。お話したのだって、二回だけ。二回とも、わたしばっかり喋って……」
「なら、解ける縁が、まだないのさ」
突き放す声では、なかった。糸を撚るときの、あの静かな手つきと同じ声である。
「イーダ。あんたのそれは、縁じゃない。恋だよ。あんたがひとりで始めた、あんたひとりのものだ。……誰の手も借りずに始まったものはね、誰の手も借りずに、仕舞えるんだよ」
「……仕舞い方が、分からないもの」
「泣くのさ」
祖母は、あっさりと言った。
「泣いて、食べて、眠って、また泣く。若い恋の仕舞い方なんぞ、大昔からそれひとつきりだよ。……あたしのひと巻きもね、使わずじまいさ。七十年生きて、忘れたい人より、覚えていたい人のほうが、多かったのでね」
妹は、黒い綛を長いこと見つめている。
それから顔をくしゃりと崩し、祖母の膝に突っ伏して、声を上げて泣いた。解きたい、とはもう言わない。祖母は妹の背中を、上等の糸の束でも扱うように、ゆっくり撫でている。私は三人ぶんの茶を淹れ直しながら、窓の外の、冬の終わりの薄い青空を見ていた。
泣けるうちは、泣くのがいい。私は、泣く道の代わりに選んだ道を、後悔してはいない。それでも――泣いて仕舞える恋を、少しだけ、眩しいと思ったのである。
◇
週の終わりの幕間、柱の下。
罰の二つ目を用意して参りましたの、と切り出すつもりが、口をついて出たのは妹のことだった。
「妹が、初めての失恋をいたしましたの」
「……そうか」
それだけである。愛想のなさに、今夜は拍車がかかっている。慰めのひとつ、気の利いた言葉のひとつもなく、鐘が鳴って、それきりだった。まったく、あの方ときたら。
――翌朝、フェルゼン家に使いが来た。
公爵家の紋の入った、飾り気のない包みである。中身は、今季の悲劇の演目表が三枚と、短い文が一枚。
『妹君に。悲劇の演目表を送る。泣くには、道具が要る』
朝食の席で読み上げると、妹は腫れた目のまま、ぷっと噴き出した。
「……何よ、それ。変な方」
「ええ。変な方ですのよ」
妹は演目表を並べて眺め、いちばん悲しそうな演目に、まだ少し震えの残る指の先で、印をつけた。
◇
その晩、父が居間で、一通の書状を広げた。両家の署名の入った、正式なものである。
「……決まったよ。解消の触れは、早春。雪解けの頃だ」
七年の婚約が、紙の上でも仕舞いになる日取りである。父は私の顔をそっと窺い、私は紅茶をひと口いただいてから、にっこりと申し上げた。
「あら。――良い季節に、なりそうですこと」