「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~   作:aquali

2 / 20
2. 若草色は、どなたのお好みでしたの

 昼過ぎ、祖母が屋敷へ来た。

 

 父と母を居間に座らせて、茶も待たずに、一言。

 

「解きました。結び直せません」

 

 父は、伯爵家当主の威厳をもって、優雅に卒倒しかけた。

 

「か、母上……〈選び忘れ〉は、その、言い伝えの類では……」

 

「言い伝えなら、いまごろあの坊やは忘れられておりませんよ。ザイフェルトの旦那にも同じことを伝えてきました。あちらは話が早くて助かったね」

 

 母は静かに茶器を並べている。母も、母方の血の人である。驚いた様子は、欠片もない。

 

「カロリーネ。あなたが選んだのなら、それでいいのよ」

 

「はい、お母様」

 

「ただ、まあ」

 

 母は湯気の向こうで、ほんの少しだけ笑った。

 

「あの坊やの顔は、見たかったわねえ」

 

 見ました、と申し上げたら、父がもう一度卒倒しかけて、妹のイーダが目を輝かせた。十七の妹にとって、姉の婚約破棄は悲劇ではなく、どうやら物語の類であるらしい。

 

「お姉様、それで、本当に何も覚えていないの?」

 

「破棄されたことは覚えているわ。お相手だけ、きれいに空白よ」

 

「すごい……」

 

 妹よ、感心するところではなくてよ。

 

 帰り際、祖母がひとつだけ、私の目を覗き込んだ。しわの奥の目は、糸の目利きをするときの目である。

 

「後悔は、あるかい?」

 

「まだ、見つかりませんの。……探した方が、よろしくて?」

 

「いいや」

 

 祖母は私の頬を、乾いた手のひらでぱたりと叩いた。

 

「見つかった日に、お茶をしにおいで」

 

 ――――。

 

 屋敷の中は、その日じゅう蜂の巣をつついたような騒ぎだった。婚約破棄。侯爵家。七年。使用人たちの囁きは廊下を三往復して、夕方には厨房の端まで届いたらしい。

 

 当の私はといえば、平熱である。

 

 むしろ困り事は、翌朝、別のところから出てきた。

 

「お嬢様。本日のお召し物ですが」

 

 侍女のミンナが、衣装部屋の扉を開けて言う。

 

 若草色。若草色。萌黄(もえぎ)。若草色。また若草色。

 

 ずらりと並んだ列を前に、私は初めて、まじまじと自分の衣装部屋を眺めた。壁一面、春の野原の出来損ないである。

 

「……ミンナ。この部屋、緑ばかりですわね」

 

「はい。お嬢様のお好みですので」

 

「わたくしの」

 

「はい。仕立て屋では、いつも迷わずこの色を」

 

 記憶を掘り返す。確かに、迷わず指してきた覚えがある。反物を前に、これを、と言った自分の声まで覚えている。

 

 ただ――その理由だけが、抜けている。

 

 誰かの好みだった、はずである。その誰かの見当が、まるでつかない。そこだけ、ぽっかりと明るい穴が開いている。覗き込んでも、底に何もない。なるほど、これが「解いた」ということらしい。出来事は残るのに、理由が消える。

 

 少しだけ、指先が冷えた。理由をなくした癖というものは、結び目だけが残った糸に似ている。結んだ手を思い出せないまま、七年ぶんの結び目が、暮らしのそこかしこで静かに締まっている。この衣装部屋も、笑い方も、きっとまだ序の口である――。

 

 いえ。

 

 怖がる話ではなくてよ、カロリーネ。結んだ手がどなたのものでも、糸はもう、私のものである。解くか、結び直すかは、私が決める。

 

 一枚を取り、鏡の前に当ててみた。干しかけの薬草である。頬の色が三日分ほど悪く見える。

 

「……嫌い。あら」

 

「お嬢様?」

 

「わたくし、この色、嫌いですわ。……あらあら。まあ」

 

 七年買い続けた色を、私は嫌いだった。口に出してみると、胸のどこかで小気味よい音がする。嫌い、という言葉は、存外にいい香りがした。

 

 ミンナが衣装部屋の奥へ潜り、埃よけの布を剥がして、一角を掘り出してくる。

 

「こちらは、お嬢様が十六の年に(あつら)えたきり、袖を通していない品々でございます」

 

 布の下から、藍色が現れる。

 

 深い、夜の入り口のような藍である。当ててみる。鏡の中で、頬の色が生き返った。十六の私が選んだ色。七年前の私は、ちゃんと自分の目で選べていたのだ。私の好みは消えたのではない。ここで、埃の匂いの中で、健気に待っていたのである。

 

「……好き。あら」

 

「お似合いでございます」

 

「ミンナ。今日からしばらく、買い物が続きますわよ」

 

「かしこまりました。――僭越(せんえつ)ながら、お嬢様」

 

 ミンナは執事のように胸へ手を当て、緑の列を見渡した。

 

「この若草色の皆様の、身の振り方はいかがいたしましょう」

 

「そうねえ。……お似合いになる方に、貰われていくのがよろしいわ」

 

 嫌いは、手放す。好きは、着る。決めるのは、私。

 

 たったそれだけのことが、玩具箱を開けた朝のように楽しいのだから、我ながら安上がりである。七年ぶんの「なぜ」は、これから一つずつ、この手で確かめていけばいい。急ぐ旅ではないもの。

 

 週の終わり、ミンナが暦を繰って言った。

 

「お嬢様。明後日は、観劇の日でございます」

 

 そうだった。七年、毎週欠かさず通った歌劇場。通っていた事実だけが、体の芯に習慣として残っている。理由は――さて。

 

 行けば、分かることですわね。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。