「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
軒先の氷柱が、日ごとに痩せていく。
王都の雪は根雪になる前に緩み、石畳の隙間を、雪解けの水が細く光って走る季節になった。解消の書状が神殿へ納められ、街々に触れが出れば、七年の婚約は紙の上でも仕舞いになる。
その納めの席が、ザイフェルト侯爵家の大広間で整えられた。
約束状の開帳と、同じ広間である。長机、立会人の親族と貴族の皆様、書状、封蝋の支度。父は今日は、卵を一度も落とさない顔で私の隣に座っている。侯爵は上座から、疲れた帳簿付けのような声で式次第を進めていく。あとは署名だけ、というところで――
「――父上。その前に、一つだけ」
声の主が、立ち上がった。
侯爵の眉が険しくなる。立会人の皆様がざわめく。またぞろ何を、というお顔が広間に並ぶ中、あちらの殿方は私の前まで歩いてきて――
頭を、下げた。
満座の中で、深く、長く、である。
「カロリーネ嬢。……署名の前に、聞いてもらいたい」
顔を上げたその方の口から出たのは、練習した口上の匂いのしない、ひどく生身の言葉である。
「あの夜の破棄は、脅しのつもりだった。おまえが初めて俺に異を唱えたのが、腹に据えかねてな。皆の前で怖がらせて、頭を下げさせて、それで元通りにするつもりでいた――破棄する気など、なかった。……一度も、だ」
広間が、しんと冷える。侯爵が何か言いかけて、おやめになる。
「七年、おまえは俺に一度も逆らわなかった。俺はそれを、当たり前だと思って生きてきたのだ。……おまえを鏡にしたのは、俺だ。おまえが可愛げのない女だったからじゃない。俺が、否を知らずに育った阿呆だったからだ」
誰も、口を挟まない。
「もう一度、初めからやり直させてくれ。今度は――今度こそ、順を追って。……頼む」
だろう? は、最後まで出てこない。
私は、聞いていた。
気づけば、三分はとうに過ぎている。あの面会の日、三分で席を立った私が、今日は立たない。立つ理由が、ないからである。今日のお言葉には、嘘の匂いがひとつもない。思い出の押し売りも、同意の強要もない。この方は生まれて初めて、鏡ではなく人間に向かって、口を利いていらっしゃる。
だから私も、精一杯、正確にお答えする。
「……いまのお言葉、確かに伺いましたわ。嘘のない、良いお言葉でした。七年で――いいえ、おそらくお生まれになってから今日までで、いちばんの」
「なら……」
「ですけれど、宛先が、違いますの」
私は、静かに首を振った。
「そのお詫びを受け取るべきは、七年、あなたの鏡をして差し上げた娘ですわ。声を立てずに笑って、意見の前にひと拍飲んで、若草色を着て――あなたが怖がらせたあの夜に、生涯でいちばん丁寧な礼をした、あの娘。……お詫びは、あの娘に仰ってくださいまし」
「だから、いま、おまえに――」
「あの娘は、もうおりませんの」
広間の空気が、動きを止めた。
「あの夜、あなたの仰ったとおり、わたくしはあなたを忘れましたわ。そのときに、あの娘も一緒に、店じまいをいたしましたの。始めたのはあなたのお言葉で、仕舞いを選んだのは、わたくし。……恨んでは、おりませんわ。あの娘の七年に、あなたの知らない良いものがいくつも交じっていたことは、わたくしがいちばんよく存じておりますもの」
あちらの殿方は、立ち尽くしていた。
「……どこにも、いないのか? 俺の詫びを受け取る者は、もう」
「日記の中に、少しだけ眠っておりますわ。……ですけれど、あの娘を起こしてお詫びする権利は、もう、どなたにもございませんの。――わたくしにも、ですわ」
長い沈黙のあと、その方は一度だけ、深くうなずいた。何かがその肩から降りたような、不思議に静かなお顔である。席へ戻る足取りは、いらしたときよりも、軽く見えた。
署名は、滞りなく済んだ。
私の署名は、我ながら綺麗に書けたと思う。隣に並んだあちらの署名は、例によって、読んだそばから砂になる。七年をほどいた紙の上で、留まる名と流れる名が、静かに並んでいる。それでいいのだ。この紙は、結び目ではない。ほどいた糸の端を、風に流すための紙である。
退出の間際、侯爵は私へ、確かな会釈をひとつくださった。私も、丁寧に礼をお返しする。
三日後、王都に触れが出た。ちょうど、週の終わりの観劇の日である。
◇
当夜の演目は、半分も頭に入ってこない。
幕間の回廊へ出る。果実水の売り場の脇、人の流れの死角。触れのことは、もう王都じゅうが知っている。柱の下の無愛想は、私を認めると、台から杯を取り、ひとつを黙って差し出した。
皮ごと搾った橙の、ほろ苦い味。腹の立った日に効くはずの味が、今夜は不思議と、澄んで甘い。
「……よく言った」
それだけ、である。
演目の評も、好みの一つもない、たったひと言である。それなのに、七年ぶんの口論のどの一言より、胸の真ん中へ届いて鳴った。この方は今夜も、私の選びに点をつけない。ただ、選んだ私ごと、この柱の下に立たせておいてくださる。それが、どれほど――
言葉にしかけて、やめておいた。今夜のところは、この果実水の甘さだけで、じゅうぶんである。
◇
触れから三日ほど経った、朝である。
ミンナが、髪を結う手を止めて、妙な咳払いをした。
「お嬢様。……町で、噂が立っております」
「あら。今度は、どちらの噂ですの?」
「――ヴィンターベルク公爵様が、近くフェルゼン家に、婚約の申し入れをなさる、と」
鏡の中で、ミンナが私の顔色を窺っている。心臓がひとつ、大きく跳ねた。跳ねてから、着地の場所を探して、まだ宙にいる。
「……どちら様から出た噂ですの、それは」
「出どころは、分かりません。ですが――王都じゅうが、もう存じております」