「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
春の王都は、噂の育ちがいい。
公爵様が近くフェルゼン家へ申し入れをなさるそうな――あの朝の噂は三日で王都を一周して、早くも定説の顔つきになりかけている。夜会でも茶会でも、奥様がたの扇が私の前で意味ありげに揺れる。当の私はと申せば、心臓の着地がまだである。跳ねたきり宙ぶらりんのまま、日々のご挨拶だけを上の空でこなしている。
今朝の食卓でも、父は卵を匙から二度落とした。
「か、カロリーネ。その、噂の……お、お返事は」
「お父様。卵が、三度目になりますわよ」
母はと見れば、茶を静かに含んで、それきりである。訊かないんですの、と目で伺うと、母は目だけで笑った。
「あなたが選ぶのなら、どちらでも良いのよ。……ただ、選ぶまでのあなたの顔は、見ていて飽きませんけれど」
母方の血の人は、こういうところが少し意地悪である。
答え合わせの行き先なら、ひとつしかない。
週の終わり、幕間の柱の下である。
◇
春の演目は軽い喜劇で、客席の笑い声も冬より明るい。私は今夜、三割ほどしか聴けていない。鐘と同時に回廊へ出て、果実水の売り場の脇へまっすぐ参る。
無愛想は、定位置にいた。
「……評は、三割ぶんでいいぞ」
「あら。お見通しですのね」
「そういう顔だ」
顔で当てられることが、もう癪ではない。癪でないことが、少し癪である。私が扇を畳み、単刀直入に切り出そうとしたら――先を越された。
「今夜は、俺から先だ」
珍しいことである。私は扇を畳み直して、拝聴の構えを取った。
「町の噂の、件だ。出どころは――俺になる」
「……伺いましょう」
「三日前の夜会で、正面から問われた。フェルゼン家へ申し入れる肚はおありか、とな。……嘘は言わん主義だ。『ある』と答えた。それだけのつもりが、一晩で王都を回ってな」
公爵は果実水の杯を台へ置き、それから、頭を下げた。浅く、けれど確かに、である。
「君より先に、王都が知ることになった。順序が、逆だ。……悪かった」
悪かった、が二度目である。在庫の少ないはずの言葉を、私はまたひとつ受け取ってしまった。
「噂を消して回る手も、あるにはある。だが、やめた。……俺が噂に触れて回れば、それは君の返事を、俺が先回りで決めることになる。だから今夜は、順序だけを戻しに来た」
顔が上がる。冬の湖の色の目が、まっすぐにこちらを見た。
「――俺は、申し込むぞ」
回廊のざわめきが、遠のいた。燭台の火だけが、やけに近い。
「君の吟味が終わり次第、正式にな。急かすためじゃない。君は、自分の知らないところで自分の話が進むのを、いちばん嫌う。……これ以上、君の知らないところへ置かんための、予告だ」
そのとおりである。七年、知らないところで進む話の中で暮らした。そしてこの方は、その七年を、柱の下から見てきた方である。
それなのに――返事の代わりに、私の膝が静かにすくんだ。
怖い、のである。
自分でも一拍遅れて気づいた。求婚が怖いのではない。この方が怖いのでも、ない。選びたい気持ちなら――白状すれば、とうにある。桟敷の壁越しに「一つ目」と数えたあの夜から、私はそれを、気づかなかったことにして抱えてきたのだ。
怖いのは、この選択に、下書きがないことである。
私は一生に一度の〈選び忘れ〉を、もう使った。この先の私が何を選んでも、選び直しの魔法は二度と利かない。若草色なら、着替えればいい。香水なら、空ければいい。けれど人ひとりは――結婚は、そうはいかないのである。間違えても、解けない。忘れる手を持たない女の選択は、最初の一字から全部、清書である。書き損じの許されない手紙を、私はこれから、生まれて初めて書く。
しかも、この手紙の宛先は、私ひとりの暮らしではないのである。間違えれば、隣で待つと仰ってくださった方まで、間違いの中へ道連れにする。二人ぶんの、一発書き。指の先が、春だというのに冷えていく。
「……吟味の、お時間をくださいませ」
声が、少し
公爵は、掠れには触れなかった。一拍おいて、いつもの調子で仰る。
「待つのは得意だ。七年の実績がある」
……この方は、時々ずるい。
怖さの粒がひとつ、ころりと笑いの側へ転がっていく。
◇
帰邸すると、ミンナが鏡台の前で私の髪を解きながら、鏡越しに一瞥をよこした。
「お嬢様。本日は空白のご報告ではなく、進捗のお伺いでございます。……王都じゅうが、お返事の日取りの噂で持ちきりでございますゆえ」
「吟味中、と触れておいてちょうだいな」
「かしこまりました。厨房にも、そのように」
「……厨房まで?」
「厨房が、いちばんうるさいのでございます」
笑って、それから寝台の中で、私は天井へ小さく申し上げた。吟味は、する。一生ぶんの丁寧さで、する。ただし、怖さを理由の棚上げには、しない。棚上げは七年の私の得意芸で、もう看板から下ろした芸だからである。明日からの吟味の道具を、頭の中で並べてみる。舌と、目と、一年ぶんの新しい記憶。……存外、揃っている。
◇
ザイフェルト侯爵家、当主の書斎。公爵家申し入れの噂は、むろんこの屋敷にも届いている。ヴィーラント侯爵は金庫から古い約束状を取り出し、燭台の下で長いこと眺めた。