「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
〈糸の家〉から、文が来た。
『次の茶の日に、その無愛想どのをお連れ。顔を、見ておきたいのでね』
差出人の名は、ない。要らないのである。ミンナが文を盆に載せて運んできたときから、屋敷じゅうが中身を察している気配だった。断る、という選択肢は、この血筋には最初から存在しない。
週の半ば、私は公爵にその文をお見せした。お誘いというより、召喚状の回覧である。公爵は文面を二度読み、短く仰った。
「行く。当然だ」
「……とても、手ごわいお方ですのよ」
「望むところだ。いい勉強になる」
◇
当日の〈糸の家〉は、糸と蜜蝋と薬草の、いつもの匂いである。
祖母は戸口で公爵を、頭のてっぺんから爪先まで、糸の目方でも量るようにご覧になって、開口一番こう仰った。
「……手ぶらかい」
「物は、吟味の邪魔になる」
「ほう」
祖母の眉が、面白そうに片方だけ上がる。
「言うねえ。お入り。……お茶をしにおいで、とは言ったがねえ、カロリーネ。まさか連れの茶碗まで要る日が来るとは」
「お呼びになったのは、おばあさまですわ」
茶が出て、三つの茶碗が湯気を立てた。祖母と公爵の会話は、思いのほか噛み合う。噛み合うというより、双方が値踏みをしない話し方をするので、値段の話にならないのである。演目の話、糸の話、雨上がりの匂いの話。祖母が「歌劇場なんぞ四十年ご無沙汰だよ」と仰れば、公爵が「損をしている」と断定し、祖母が「言うねえ」ともう一度眉を上げる。
そこへ――表で、馬車の音がする。
祖母は驚きもせずに窓の外へ目をやり、それから私と公爵へ、顎をしゃくった。
「お客だよ。おまえたちは奥へ。……茶でも淹れておいで」
「どなたですの?」
「ザイフェルトの、頭の固いご当主さ」
台所へ引っ込む私たちと入れ違いに、戸口で低い、疲れた声がした。帳簿を付け終えたあとのような、あの声である。
「……先触れどおり、参ったよ」
「ようこそ。まず、お茶をどうぞ」
◇
台所で、公爵と私は、盆を挟んで立ち尽くしている。
湯は沸いた。茶葉も量ってある。あとは運ぶだけの茶を前に、二人とも動かない。居間の話し声が、薄い戸の向こうから筒抜けなのである。盗み聞きは淑女の作法に反する。反するけれど、この戸の薄さも、茶の日とお客の日が重なったことも、たぶん全部、祖母の設計なのだ。
「――約束状の件よ」
侯爵の声が言った。
「先代同士の、あの紙だ。解消の触れは出た。倅の詫びも、あの娘の答えも、わしはこの耳で聞いておる。……聞いた上で、だ。家と家の約束が紙のまま宙に浮いておるのは、どうにも尻の据わりが悪うてならん。今日は、その帳尻の付け方を聞きに来た」
「帳尻なら、とうに合っておりますよ」
祖母の声は、通告の日と同じ、静かな他所行きである。
「解きました。結び直せません。……あの晩から、それだけです。何度おいでになっても、お出しできるのは同じ答えと、茶だけですよ」
「……わしの縁組もな、親が決めた」
侯爵の声が、少し緩んだ。責める声ではない。帳簿の余白に独り言を書き付けるような声である。
「顔も知らん相手と、式の日に初めて口を利いた。それなりに、幸せにやったよ。連れ合いが先に逝くまで、四十年な。……だからわしは、決めてやるのが親の情だと、本気で思うてきた。倅にも、あの娘にも、だ」
「それなりに幸せだったのは、ご当主」
祖母の声が、糸を一本すっと引くように通った。
「決められたからじゃ、ありませんよ。決められたあとで、お二人が選び直しなすったからだ。……朝の茶の濃さから、喧嘩の仕舞い方まで、日々、何度もね。決め事が運んでくれるのは、始まりの一日だけ。あとの一万四千日は、手前の手で選んだのでしょうよ」
長い沈黙が、落ちた。
薄い戸の向こうで、茶碗が受け皿へ戻る音だけが、ことりと鳴る。
「――四十年、そうだったな」
やがて侯爵が、ぽつりと仰った。
「濃い茶はわしが淹れると渋うなる、と言われてな。四十年、連れ合いの淹れる茶を飲んだ。……あれも、選び直しだったのかもしれんの」
「上等の、ね」
「……解けた糸を結び直せんことくらい、わしにも、とうに分かっておったのよ」
椅子の脚が床を擦る音がする。立ち上がられたらしい。
「分からんのは、倅の胸の内だけでな。あれきり妙に静かで、諦めたのか諦めておらんのか、親のわしにも読めん。……まあ、それはもう、家の話ではないわ。約束状はな――」
一拍。
「ここの炉で、燃してもらえんか? あの娘の糸を解いた炉なら、先代どのらにも、義理は立とうて」
「承りました。……薪の一本ぶん、働いてもらいましょう」
そのあとの居間で、古い紙が火に入る小さな音を、私は聞いた。先代同士の約束と、七年と、四十年ぶんの何かが、蜜蝋の匂いの中で静かに灰になっていく。盆の上の茶は、とうに冷めている。隣を見ると、公爵が戸の隙間から目を離し、私にだけ聞こえる声で仰った。
「……いい祖母君だ。口論で、勝てる気がしない」
「あら。おやりになるおつもりでしたの?」
「一生の内に、一度くらいはな。……やめておく」
帰り際、玄関で侯爵と鉢合わせた。盆を持ったままの公爵と、その隣の私を、老いた目が順に眺める。何か言われる、と身構えたけれど、結局ひとことだけだった。
「……茶は、もう結構」
確かな会釈をひとつ残して、古い人は馬車で帰っていった。
◇
週の終わり、歌劇場の玄関に、新しい貼り紙が出ている。
春仕舞いの演目――『三度目の春』、再演。
開幕の夜会で始まった私の一年が、生まれて初めて声を立てて笑ったあの喜劇で、仕舞いを迎えるのである。