「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
季節の変わり目は、日記の頁を繰る日、と決めている。
冬にそうしたように、春の仕舞いにも、私は書き物机で日記の束をほどいた。今日は二冊目――十七の年である。前に拾ったときは季節の変わり目の頁だけを飛び飛びに読んだから、間の頁は、まだたっぷり残っている。その、拾い損ねていた秋の頁で――
手が、止まった。
字が、躍っていたのである。
『今日、生まれて初めて、言い返しました』
一行だけ、である。インクは濃く、筆圧は頁の裏へ抜けるほどで、最後の一字が、嬉しさのあまり撥ね上がっている。七年の砂漠の真ん中に、ここだけ泉が湧いたような一行だ。日付は――七年前の、秋。
覚えている。あの日のことなら、覚えているのである。
秋の幕間、果実水の売り場の脇。演目の評を握り潰されて行き場をなくした私の言葉を、柱の下の見知らぬ無愛想が、突然拾い上げたのだ。「彼女の評が正しい」。低い、断定の声。生まれて初めて聞く種類の、まっすぐな相槌である。それから私は、誰かに、何かを言い返した。声が震えていたことも、膝の後ろが熱かったことも、体がまだ覚えている。
――言い返した、相手だけが、いない。
評を握り潰した手つきの記憶はある。誰の手だったかが、ない。震える声で言い返した事実はある。誰の顔へ向かってだったかが、きれいにくり抜かれている。そして、日記のこの字の躍りよう。「生まれて初めて」の、この重さ。公爵とのやり取りは、言い返すとは呼ばない。あれは最初から対等の口論である。ではこの一行の嬉しさは、いったい、何の嬉しさだったのかしら?
私の七年で、いちばん大きな空白が、たぶん、これである。
埋めない、と決めた。決めたことを、後悔もしていない。……けれど、これは。
◇
春仕舞いの晩、歌劇場は満員だった。
『三度目の春』。一年前、生まれて初めて声を立てて笑った、あの喜劇の再演である。三幕の池落ちで場内がどっと沸き、私も今夜、遠慮なく笑う。笑いながら、指先は、日記の一行を書き写して忍ばせた胸元を、無意識に押さえている。
幕間の鐘が鳴った。
柱の下で、私は前置きなしに申し上げる。
「棚を、一つだけ開けていただきたいの」
公爵の眉が、わずかに動いた。
「……いいのか? 君は埋めない、と決めたはずだ」
「昔のわたくしを組み立て直すお話なら、要りませんわ。そうではなくて――」
私は、言葉を選ぶ。この願いの形だけは、間違えたくないのである。
「あなたの七年を、あなたの話として、聞かせてくださいませ。……棚の鍵は、かけていらっしゃらないのでしょう?」
公爵は、しばらく黙っていた。それから果実水の杯を二つ取り、一つを私に持たせ――棚のいちばん奥から下ろすような声で、話し始める。
「七年前の秋だ。この柱の下で、俺は、連れの男に評を鼻で笑われた娘を見た」
……いきなり、その日である。
「素人歌いの場面の評だった。客席の誰も気に留めん場面だ。だが娘の評は、俺が三日かけて組み立てた評と同じところを突いていてな。それを、連れの男が聞きもせずに握り潰した。……で、初対面の俺が口を挟んだわけだ。『彼女の評が正しい』とな」
「……ええ。そこは、覚えておりますわ。宝物のように」
「君は――生まれて初めて、という顔で、連れに言い返した。声が、震えていてな。言い返した中身は、たわいもない。評の続きを、最後まで言う。それだけだ。……だが君はあのとき、生まれて初めて、自分の言葉を最後まで言い切る顔をしていた」
杯の中で、橙の果肉が揺れている。私は、黙って聞いている。これは私の話ではない。この方の話である。その形をこの方が一言ごとに守ってくださっているのが、聞いていて分かる。
「それからの七年、俺が週に一度、わざわざ君に喧嘩を売った理由は――ひとつだ」
公爵は、杯へ目を落としたまま仰った。
「君が言い返すたび、あの顔をするからだ。……週に一度、この柱の下でだけ、君は言葉を最後まで言い切った。それを見るのが俺の七年だった、というだけの話でな。以上だ。棚は、これで全部だ」
――ああ。
日記の一行の重さが、音もなく、胸の底へ届いた。
あの日の嬉しさの正体。生まれて初めて、私の言葉が、途中で折られずにどなたかへまっすぐ受け取られた日。受け取った方が、値札をつけずに「正しい」と言ってくださった日。だから、字が躍ったのだ。だからそれからの七年、週に一度の口論の間だけ、私は私でいられた。あの意地の悪い、憎らしい、楽しい楽しい口論は――この方が七年、名前をつけずに続けてくださった、親切だったのである。
この方は今夜も、「君はこういう娘だった」とは一言も仰らなかった。ご自分の見たものと、ご自分の理由だけを、棚から下ろして渡してくださっただけである。空白は、空白のまま。私は、私のまま。それなのに、いちばん知りたかった「なぜ」だけが、そっと手の中に返ってきている。
目の奥が、熱い。
あら、と思う間もなかった。頬を、温かいものがひとつ転がり落ちていく。あの夜明けに出てこなかった涙とも、日記を弔った他人事の涙とも違う。生まれて初めての種類の――温かい方の、涙である。
「……お、おい」
公爵の声が、初めて聞く音程で裏返る。
「どうした。どこか痛むか? ……いや、待て。俺は何か、順番を間違えたか?」
「いいえ」
「泣かせる話は、していないはずだ。事実しか言っていない。……おい、頼むから」
七年ぶんの口論で鍛え上げた無愛想が、涙のひと粒で、見たこともないほどうろたえている。果実水の杯を両手に持ったまま、目だけが右往左往に泳ぐ。私は泣きながら、笑ってしまった。
「ふふ……。公爵様。世にも、お困りの顔ですわね」
「……困っている。こういう場面の在庫が、ない」
「では、覚えなさいませ。……これは、嬉しい方の涙。放っておいて、よろしいの」
幕間の終わりの鐘が、鳴り始める。今夜で柱の下も、ひと夏のお休みに入る。それなのに少しも寂しくないのだから、この涙は、よほど性能がいい。
……ただ、ひとつだけ。次にこの柱の下へ立てるのは、夏をまるごと越えた先である。理由の返ったばかりのこの胸で過ごすには――今年の夏は、少し長い。