「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~   作:aquali

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24. 解いた者は、忘れられない

 夏が来て、歌劇場が閉まった。

 

 七年と一年、欠かさず通った週の終わりに、行き先がないのである。初めの週は、体が勝手に支度を始めて、ミンナに「本日より休演でございます」と止められた。次の週は、支度こそしなかったけれど、夕暮れの鐘の音に耳が勝手に立つ。教会の鐘と幕間の鐘は、まるで違う音だのに。

 

 柱の下のない季節が、こんなに手持ち無沙汰だとは。

 

 妹はといえば、三枚の演目表の悲劇を春のうちに全部観たそうで、この頃は歌うように元気である。泣くには道具が要る、の処方箋は、どうやら効いたらしい。効かないのは、姉の方の、この妙な無沙汰だけだ。

 

 無沙汰の正体をこれ以上吟味すると藪から棒が出そうなので、私は〈糸の家〉へ、茶をいただきに参った。

 

         ◇

 

 祖母は、夏の糸を繰っている。

 

 窓が全部開いて、薬草の匂いに青い草の匂いが混じっている。私は茶を一杯いただいてから、春から抱えてきたものを、卓の上へそっと置いた。

 

「おばあさま。伺いたいことが、ございますの」

 

「おや。改まって」

 

「公爵様から、申し込む、と予告をいただきましたの。……吟味の時間を、いただいておりますけれど」

 

 糸車の音は、止まらない。驚いてもいない。この方の知らないことは、たぶん王都にあまりないのである。

 

「選ぶのが怖いのは、生まれて初めてですわ。わたくし、選び直しの利かない体になりましたでしょう? 間違えたら、と思うと――指の先が、冷えますの」

 

 祖母はしばらく、糸だけを見ていた。それから、手を止めずに言う。

 

「うちにはね、古い言い伝えがあるんだよ。――解いた者は、二度と忘れられない」

 

「……呪いの言葉、ですの?」

 

「あたしも若い時分は、そう思ったがね」

 

 糸車が、からからと軽く回る。

 

「魔法の話じゃないんだよ、カロリーネ。心得の話だ。忘れる道を使い切った者のこれからはね、選び直しの利かない、下書きなしの選択の続きものになる。……だから、よく吟味おし。それだけの、婆から孫への手回しさ」

 

「心得……」

 

「代々の女はね、それでみんな、選ぶ前に長く吟味するようになった。あんたのその、好きだの嫌いだの声に出して確かめる癖――ありゃ、この家の血だよ」

 

 思わず、自分の口元へ手をやった。……好き。あら。あの独り言は、七年の反動で生えた癖だとばかり思っていたのである。まさかの、家伝だった。

 

「いいかい、カロリーネ」

 

 祖母は糸を繋ぎながら、手元から目を上げずに続ける。

 

「うちの女たちはね、忘れるためにあの糸を解いたんじゃないよ。……選ぶ手を、取り戻すために解いたのさ。あんたも、そうだったろう? 若草色が憎くて解いたわけじゃ、あるまいよ」

 

 そのとおり、である。

 

 あの晩、私が取り戻したかったのは、白紙ではない。手である。好きと嫌いを、自分の舌と目で確かめ直す手。糸はそのための道具で、空白はその代金だった。……ならば、この怖さも、代金の続きなのだろう。取り戻した手には、選ぶ重さまで付いてくる。当たり前の話である。軽いのは、選ばない手だけだ。

 

「おばあさまは……後悔なさったことは、おありですの?」

 

「あるさ。山ほどね」

 

 即答である。祖母は糸を撚る指を、少しも緩めない。

 

「後悔ってのはね、選んだ者の勲章だよ。選ばなかった者には、後悔すら残りゃしない。……あたしの勲章は、どれも良い形をしているよ」

 

「間違いが怖いのはね、選ぶ気がある証拠さ。結構なことだよ」

 

 祖母は茶を注ぎ足し、蜂蜜の壺を、ことりと私の側へ寄せた。

 

「それに――下書きなしで書くコツなら、ひとつだけある」

 

「……教えてくださいませ」

 

「書き出しに、一生でいちばん長く迷うことさ。迷った字はね、太くなる。……あんたはもう、一年迷ってる。いい太さになってきた頃だろうよ」

 

         ◇

 

 帰り道の外れの通りは、夕立のあとである。

 

 石畳が濡れて光り、匂いが立っている。雨上がりの石畳の匂い――どなたかの好みのその匂いの中を歩いて帰りたくなって、私は馬車を先へやった。

 

 そうしたら、いたのである。

 

 並木の切れ目に、見覚えのある外套が、同じ匂いの中を歩いている。

 

「……公爵様。お散歩の道筋が、こんな外れまで延びましたの?」

 

「近ごろ、距離が延びた」

 

「あら。どうしてかしら?」

 

「……夏は、暇でな」

 

 柱の下のない季節を、この方も持て余していらっしゃる。それが分かって、少し嬉しい。嬉しいと思って、今日は隠すのをやめた。並んで、濡れた石畳を歩く。

 

「吟味が、長引いておりますの」

 

「知っている」

 

「……お待たせして、とは思っておりますのよ」

 

「急かさん。俺は口論なら、一生ぶん在庫がある。……待つ間のつまみ食いなら、いま少ししたがな」

 

 思わず、隣を見上げた。無愛想は、素知らぬ顔で前を向いている。

 

「まあ。今のどこが口論でしたの?」

 

「ほら。もう始まった」

 

 言い合って、笑って、角を二つ曲がる。屋敷の灯りが見えてきたところで、私は足を止めた。書き出しに、一生でいちばん長く迷うこと。祖母の声が、背中を軽く押している。

 

「公爵様。ひとつ、お願いがございますの」

 

「なんだ」

 

「近いうちに、丸一日、お時間をくださいませ。朝から、日暮れまで」

 

 公爵が、怪訝(けげん)な顔をなさる。私は精一杯すまして、申し上げた。

 

「殿方の持ち時間は三分、と申しました舌で恐縮ですけれど――一日、あなたを吟味いたしますわ」

 

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