「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
夏が来て、歌劇場が閉まった。
七年と一年、欠かさず通った週の終わりに、行き先がないのである。初めの週は、体が勝手に支度を始めて、ミンナに「本日より休演でございます」と止められた。次の週は、支度こそしなかったけれど、夕暮れの鐘の音に耳が勝手に立つ。教会の鐘と幕間の鐘は、まるで違う音だのに。
柱の下のない季節が、こんなに手持ち無沙汰だとは。
妹はといえば、三枚の演目表の悲劇を春のうちに全部観たそうで、この頃は歌うように元気である。泣くには道具が要る、の処方箋は、どうやら効いたらしい。効かないのは、姉の方の、この妙な無沙汰だけだ。
無沙汰の正体をこれ以上吟味すると藪から棒が出そうなので、私は〈糸の家〉へ、茶をいただきに参った。
◇
祖母は、夏の糸を繰っている。
窓が全部開いて、薬草の匂いに青い草の匂いが混じっている。私は茶を一杯いただいてから、春から抱えてきたものを、卓の上へそっと置いた。
「おばあさま。伺いたいことが、ございますの」
「おや。改まって」
「公爵様から、申し込む、と予告をいただきましたの。……吟味の時間を、いただいておりますけれど」
糸車の音は、止まらない。驚いてもいない。この方の知らないことは、たぶん王都にあまりないのである。
「選ぶのが怖いのは、生まれて初めてですわ。わたくし、選び直しの利かない体になりましたでしょう? 間違えたら、と思うと――指の先が、冷えますの」
祖母はしばらく、糸だけを見ていた。それから、手を止めずに言う。
「うちにはね、古い言い伝えがあるんだよ。――解いた者は、二度と忘れられない」
「……呪いの言葉、ですの?」
「あたしも若い時分は、そう思ったがね」
糸車が、からからと軽く回る。
「魔法の話じゃないんだよ、カロリーネ。心得の話だ。忘れる道を使い切った者のこれからはね、選び直しの利かない、下書きなしの選択の続きものになる。……だから、よく吟味おし。それだけの、婆から孫への手回しさ」
「心得……」
「代々の女はね、それでみんな、選ぶ前に長く吟味するようになった。あんたのその、好きだの嫌いだの声に出して確かめる癖――ありゃ、この家の血だよ」
思わず、自分の口元へ手をやった。……好き。あら。あの独り言は、七年の反動で生えた癖だとばかり思っていたのである。まさかの、家伝だった。
「いいかい、カロリーネ」
祖母は糸を繋ぎながら、手元から目を上げずに続ける。
「うちの女たちはね、忘れるためにあの糸を解いたんじゃないよ。……選ぶ手を、取り戻すために解いたのさ。あんたも、そうだったろう? 若草色が憎くて解いたわけじゃ、あるまいよ」
そのとおり、である。
あの晩、私が取り戻したかったのは、白紙ではない。手である。好きと嫌いを、自分の舌と目で確かめ直す手。糸はそのための道具で、空白はその代金だった。……ならば、この怖さも、代金の続きなのだろう。取り戻した手には、選ぶ重さまで付いてくる。当たり前の話である。軽いのは、選ばない手だけだ。
「おばあさまは……後悔なさったことは、おありですの?」
「あるさ。山ほどね」
即答である。祖母は糸を撚る指を、少しも緩めない。
「後悔ってのはね、選んだ者の勲章だよ。選ばなかった者には、後悔すら残りゃしない。……あたしの勲章は、どれも良い形をしているよ」
「間違いが怖いのはね、選ぶ気がある証拠さ。結構なことだよ」
祖母は茶を注ぎ足し、蜂蜜の壺を、ことりと私の側へ寄せた。
「それに――下書きなしで書くコツなら、ひとつだけある」
「……教えてくださいませ」
「書き出しに、一生でいちばん長く迷うことさ。迷った字はね、太くなる。……あんたはもう、一年迷ってる。いい太さになってきた頃だろうよ」
◇
帰り道の外れの通りは、夕立のあとである。
石畳が濡れて光り、匂いが立っている。雨上がりの石畳の匂い――どなたかの好みのその匂いの中を歩いて帰りたくなって、私は馬車を先へやった。
そうしたら、いたのである。
並木の切れ目に、見覚えのある外套が、同じ匂いの中を歩いている。
「……公爵様。お散歩の道筋が、こんな外れまで延びましたの?」
「近ごろ、距離が延びた」
「あら。どうしてかしら?」
「……夏は、暇でな」
柱の下のない季節を、この方も持て余していらっしゃる。それが分かって、少し嬉しい。嬉しいと思って、今日は隠すのをやめた。並んで、濡れた石畳を歩く。
「吟味が、長引いておりますの」
「知っている」
「……お待たせして、とは思っておりますのよ」
「急かさん。俺は口論なら、一生ぶん在庫がある。……待つ間のつまみ食いなら、いま少ししたがな」
思わず、隣を見上げた。無愛想は、素知らぬ顔で前を向いている。
「まあ。今のどこが口論でしたの?」
「ほら。もう始まった」
言い合って、笑って、角を二つ曲がる。屋敷の灯りが見えてきたところで、私は足を止めた。書き出しに、一生でいちばん長く迷うこと。祖母の声が、背中を軽く押している。
「公爵様。ひとつ、お願いがございますの」
「なんだ」
「近いうちに、丸一日、お時間をくださいませ。朝から、日暮れまで」
公爵が、
「殿方の持ち時間は三分、と申しました舌で恐縮ですけれど――一日、あなたを吟味いたしますわ」