「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
約束の朝は、上等の夏晴れである。
供はミンナひとり。初めて潜る公爵邸の門は、思ったより飾りが少ない。ミンナは門から玄関までの間に、石畳と植え込みと窓硝子を残らず拝見し尽くして、小声で申し上げた。
「お嬢様。掃除が行き届いております。……合格でございます」
「あなたの吟味が先ですのね」
家令どのは影のように現れて馬を二頭引いてこさせ、影のように消えた。公爵から「屋敷の者は耳が早い」と聞かされた、そのヨストどのである。あの耳に観察されていると思うと、背筋がひとりでに伸びる。
「朝は、乗る」
と、出迎えた当主は言った。挨拶より先に、である。
「わたくしの騎乗の腕を、ご存じですの?」
「知らん。だから並歩だ」
夏の朝の並木道を、馬二頭がゆっくり行く。乗馬は娘時分に習ったきりだけれど、体は
道中、公爵は何も解説なさらない。いい景色のところで、ただ馬の脚を緩める。緩んだところが、この方の「好き」の目印である。川霧の残る橋の上で一度、麦の匂いの角で一度。一年かけて、私はこの方の目次の読み方を覚えたのだ。
「馬にも、お好みを訊いていらっしゃるの?」
「ある程度はな。こいつは、坂を嫌う。だから坂は避ける」
「まあ。強いない主義は、馬にまで及びますのね」
「……嫌がる脚で登った坂に、良い景色があった例しがない」
馬上の背中は、そう言ったきりである。押しつけない、を七年やってきた方の理屈は、鞍の上でも揺れないらしい。
◇
昼前に戻って、書庫へ通された。
南向きの窓のある、思ったより小さい部屋である。悲劇の台本が棚二つぶん、評判記の類がひとつぶん。窓辺に、肘掛けの擦れた椅子がひとつ。
「ここで、君への反論を組み立てる」
「まあ。三日おかけになって、ですのね」
「……七年前の話を、いつまで擦る気だ」
「一生ですけれど?」
机の隅に、真新しい帳面が一冊、置いてあった。視線に気づいて、公爵が言う。
「……書く気がする、と言っただろう? 書き始めた」
「拝見しても、よろしくて?」
「最初の頁だけな」
窓辺の、肘掛けの擦れた椅子を勧められて、私はそこへ腰をおろしてから開いた。この方が七年、反論を組み立ててきた定位置である。座ってみると、窓の光が頁の上へちょうど落ちて、庭の緑が目の高さに来る。……良い席である。癪なくらい。
帳面を開くと、一行だけあった。
『彼女は、二曲目に踊る。』
私は、黙って帳面を閉じた。頁の続きを読む権利は、たぶんまだ私のものではない。それに――続きがどれだけ書いてあるのかを知ってしまったら、今日の吟味が、吟味の体裁を保てなくなる。
「……良い書き出しですわね」
「ああ。一生でいちばん、迷った」
迷った、の言い方が祖母とお揃いで、私は窓の方を向いて笑いを畳み――いえ。畳みかけて、やめた。声を立てて、笑う。この書庫の静けさが一瞬ほどけて、公爵が「なんだ」と眉を寄せる。なんでもございませんの。
◇
昼の食卓は、簡素である。
焼いた川魚と、豆の煮たのと、皮ごと搾った橙の水差し。飾り気のなさが、そのまま献立になっている。給仕が下がると、広い食堂に二人と、氷の入った水差しの音だけが残った。
「お口に合うか、ではなくて――これが、お好きなのですわね」
「ああ。……問題があるか?」
「いいえ。目次が、また一枚読めましたの」
◇
午後の半ばに通り雨がひとつ来て、上がった。
帰りは、申し合わせたように二人とも馬車を使わない。濡れた石畳から、あの匂いが立ちのぼる。一年前、香り屋の店先で教わった、売り物にならない匂いである。
歩きながら、私は一日ぶんの目次を胸の中で繰ってみる。景色で緩む馬の脚。坂を嫌う馬。肘掛けの擦れた椅子と、窓の光。一行だけの帳面。皮ごとの橙。どれも値札のつけようのない、売り物にならないものばかりである。後ろの席の二重唱から、夜のうちに踏む初雪まで――この一年、柱の下で一つずつ手渡されてきたものと、同じ手触りがする。一つずつは小さいのに、積もると、こんなにあたたかい。
……吟味の結果は、とうに出ているのかもしれない。
出ているのに、私はまだ、この清書の一字目が書けない。怖いからではない。もう、怖さは半分も残っていない。ただ――一生でいちばんの書き出しを、いちばん良い紙に書きたいのである。それが、いつのどこなのかだけ、まだ決めかねている。
門の前で、公爵が足を止めた。
「――で。本日の評は?」
「あら。演目の評は、幕が下りてからですわ」
「……まだ下りんのか?」
「ええ。良い芝居ほど、幕間が長いんですのよ。……もう少しだけ、吟味させてくださいませ」
「ああ。減るものでもない」
即答だった。即答のあとで無愛想が、人相の悪くなる一歩手前の、あの顔になる。夕焼けの石畳に、長い影が二つ並んで、しばらく、どちらも動かない。
◇
ザイフェルト侯爵家。秋の開幕の夜会を取り仕切る楽団長へ、ローレンツの使いが立った。曰く――当夜の舞踏に、あの円舞曲を一曲。用向きを問う父に、ローレンツは「余興の趣向を、ひとつ」とだけ答えた。触れの日からこちら、妙に静かだった男の、久方ぶりの手配である。ヴィーラント侯爵は長く息を吐き、それ以上は、問わないことにした。