「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
朝、目が覚めて、最初に浮かんだのが「本日の空白」ではなく――あの帳面の続き、なのである。
一行目の先に何が書かれていくのか、と枕の上でそこまで考えて、私は天井を見たまま、あら、と声に出した。分かってしまったのである。吟味は、もう終わっている。終わっていることを認める勇気だけが、半歩遅れて歩いていたのだ。
起き上がって、書き物机に向かう。文は、三行にした。
『公爵様に。幕が下りましたの。評を申し上げたく、お時間をくださいませ。場所は――柱の下で』
あの方の流儀を借りた短さである。返事は当日のうちに来て、あちらも三行である。
『承知した。週の終わり、日暮れに。手配はしておく』
手配、の二文字の頼もしさときたら、ない。夏の歌劇場は固く閉じているはずで、それをどう開けるのかは書いていない。書いていないのに、あの方が「しておく」と書いたなら、扉は開くのである。この一年で、私はそういうことを覚えた。
◇
週の終わり、日暮れ。
通用口で待っていたのは、家令どのではなく、当主その人である。無言で扉を押さえ、無言で燭台をひとつ提げて、先に立つ。夏の歌劇場の中は、しんとして、少し埃の匂いがした。売り場には白い布が掛かり、天鵞絨の座席は眠っている。二人ぶんの足音だけが高い天井へ上って、湯気のように消えていく。
暗い客席の間を抜けながら、私は自分たちの桟敷を見上げた。あの暗がりに、この一年ぶんの夜が畳んで仕舞ってある。初めて声を立てて笑った夜も、壁越しに「一つ目」と数えた夜も。
幕間の回廊。果実水の売り場の脇。人の流れの、ない死角。
柱の下に着くと、公爵は燭台を窓枠へ置いた。夏の夕暮れの残りが、高窓から斜めに落ちてくる。
「……鐘は、鳴らんぞ。今日は」
「ええ。存じておりますわ」
三分だった持ち時間が、一日になり、今日は――鐘のない日である。急かすものが何もない柱の下で、私は背筋を伸ばし、この一年でいちばん丁寧に、口を開いた。
「評を、申し上げますわ」
「聞こう」
「――わたくし、忘れる手を、もう持っておりませんの」
声は、掠れなかった。
「この先、なにを選んでも、選び直しの魔法は利きませんの。ですからわたくし、それはそれは長く吟味いたしましたわ。色を選ぶより、香りを選ぶより、笑い方を選ぶより、ずっと長く。……これは、わたくしの一生でいちばん、吟味した選択ですわ」
「……光栄の至りだな」
「まだ評の途中ですわよ」
「失礼した」
軽口をひとつ挟んで、それから、二人とも黙った。高窓の光が、一段沈む。先に動いたのは、あの方である。燭台の灯りの中で、無愛想が、居住まいを正す。
「なら、こちらも順序を通す。――カロリーネ・フェルゼン」
名を、呼ばれた。初めてのはずはないのだけれど、この声で、この距離で呼ばれたのは、初めてである。
「昔の君を、俺は誰より見てきた。七年、この柱の下からな。……だが、俺が欲しいのは、そっちじゃない。俺が欲しいのは、君がこれから選ぶ君だ。――吟味は、一生かけてしろ。隣で待つ。……俺の妻に、なってくれ」
求婚の言葉に、思い出はひとつも入っていなかった。
誓いも、永遠も、月も星もない。あるのは、これから選ぶ君、だけである。この方は最後の最後まで、私の過去を、値札にも口説き文句にもなさらなかった。それがどれほどのことか、量れるのは、たぶん王都で私ひとりである。
息を、吸う。柱の石に、指先でそっと触れる。七年ぶんの口論と、一年ぶんの「一つ」たちの染みた、冷たくて、あたたかい石である。
「――あなたは」
言葉は、迷わなかった。一生でいちばん迷った書き出しは、とっくに胸の中で清書が済んでいたのである。
「あなたは、覚えていたい人です」
忘れられない、ではない。覚えていたい、である。受け身は、もうやめた。この先の日々に嫌な一日が交じっても、〈選び忘れ〉で選って消し直す道は、もう私にはない。喧嘩の夜も、外れの演目も、良くない日もぜんぶ、引き受けて選ぶしかないのである。……上等である。それごと引き受けて覚えていたい方かどうか、私は一年かけて、この舌と目で吟味したのだから。
公爵は、しばらく黙っていた。
黙って、片手でゆっくり目元を覆う。無愛想の顔が置き場を失うところを、私は生まれて初めて見ている。やがて手が下りたとき、そこにあったのは例の、人相の悪くなる笑い方の、そのもう一歩先だった。存外に、悪い人相ではない。七年と一年、誰にも見せなかった顔なのだろうと思うと、この人相の悪さごと、覚えていたくなる。
「……返事は」
「今のが、お返事ですわ」
「……そうか。そうだな」
公爵は私の手を優しく取ると――――そっと引き寄せた。
燭台の火が、二人ぶんの影を柱に重ねている。鐘は、最後まで鳴らなかった。
◇
帰邸して、家族に報せる。
父は晩餐の席で、めでたく三度、匙を落とした。落としながら泣くので、忙しい人である。母は「あら」とだけ仰って、それから席を立ち、私の頬を両の掌で一度だけ包んだ。妹は「すごい……」を今年いちばんの声で言い、ミンナは執事の顔のまま、目の縁だけが赤い。
「お姉様、お姉様。次は、わたしの番かしら?」
「あなたはまず、お相手と二回以上お話をなさいな」
「公示は、秋の開幕の夜会で――と、あちらの家令どのから、もう段取りの文が届いております」
「早いこと」
「屋敷の者は、耳もお手も早いのでございます」
夏の終わりの食卓が、久しぶりに賑やかである。支度の秋が、来る。