「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
支度の秋は、紙と針の季節である。
招待の名簿、両家の文のやり取り、仮縫いに、また仮縫い。屋敷には連日仕立て屋が入り、私は着せ替え人形の栄誉に浴している。藍色の絹が届いた日には、ミンナが「勝負でございます」と謎の号令をかけた。
仮縫いの合間に、衣装部屋を見渡す。藍色と、香草の色と、冬の白。この一年で選び直した色たちが、かつて若草色の列だった場所に、ゆったり並んでいる。一年でここまで来たか、と鏡の前で、少しばかり感慨に浸る。
――浸った、その矢先である。最後の一つが、見つかってしまったのは。
「婚約者様におかれましては――」
仕立て屋の口上に、肩が、ぴくりと強ばった。
あら、と思う。招待状の下書きの「婚約者」の三文字に、ペンを持つ指が一拍止まる。お祝いの客の「良い婚約者様ねえ」に、扇の内で息が細くなる。……意味は、分かっているのである。今のその言葉は、あの方のことである。嬉しい言葉の、はずである。それなのに体だけが、七年前の重さのまま、いちいち強ばる。
夜、灯りを消してから、寝台の中で小さく声に出してみた。
婚約者。
喉のところで、音が細くなった。
癖は、私のもの。私のものなら、私がやめられる――一年、あの型で謝罪も一拍も首の角度も降ろしてきた。けれどこれは、あの型が効かないのである。言葉に染みた記憶は、意味が消えても体に残る。この三文字は癖ではなく、七年が私の肩に縫い付けていった、小さな
降ろせないものの、扱いである。七年の型なら、胸の裏へ縫い込んで隠す。
今の私の型は――白状である。
◇
週の終わりの夕暮れ、支度の相談の帰り道を、二人で歩いた。
夏の名残の雨が上がって、石畳からあの匂いが立っている。話すなら、今である。
「……白状が、ございますの」
「聞こう」
「『婚約者』という言葉に――体が、強ばりますの。肩の、このあたりが」
歩調は、変わらなかった。あの方は口を挟まず、私は続ける。
「意味は消えましたのよ。あの方の顔も声も、もうどこにもない。それなのに言葉だけが、七年ぶんの重さのまま体に残っておりますの。あなたのことをその言葉で呼ばれるたび、嬉しいはずの胸の手前で、肩が先に竦みますの。……我ながら、情けない白状ですわ」
「情けなくは、ない」
即答である。
「体は、君の味方だ。七年、君を守ってきた側だ。……急に旗を替えろと言うほうに、無理がある」
石畳の水たまりを、ひとつ避ける。それから公爵は、少しの間、黙って歩いた。反論の前の一拍より、ずっと長い。この方が言葉を吟味している時間である。
「――なら、婚約者はやめよう」
「……はい?」
思わず、素の声が出た。やめよう、とは。公示を前に、それは、その。
「言葉の話だ」
あの方は、事もなげに続ける。
「肩の凝る言葉を、無理に着ることはない。物は君の吟味の邪魔になる。言葉も、同じだ。……俺と君の間で、あの言葉は使わん。呼び方なら、もっと正確なのが、とうにある」
足が、止まった。夕暮れの石畳の上で、冬の湖の色の目が、こちらを見ている。
「口論の相手のまま――妻になれ」
肩の錘が、ことりと音を立てて外れた気がした。
婚約者を経ないで、口論の相手から、妻へ。世の順序からは外れた道である。外れた道を、事もなげに舗装してのけるこの方の顔を、私はしばらく黙って見上げていた。……ふふ。おかしい。おかしくて、あたたかくて、目の奥が少し熱い。
妻、という言葉は、不思議と少しも強ばらない。まだ一度も着たことのない、仕立ておろしの言葉だからである。まっさらの布と同じで、癖も錘もついていない。これから私たちの寸法に、二人で縫い合わせていけばいい言葉である。
「では、生涯、言い直しませんわよ」
「ああ」
「あなたの評が外れの夜は、妻になっても、遠慮なく申し上げますわよ」
「望むところだ。……外れたことは、ないがな」
「まあ。早速、口論の種ですわね」
石畳に影がふたつ、長く伸びて笑っている。あの三文字は、まだ肩に少し残っている。残っていても、いい。錘の外れる日までの呼び名を、私たちはもう持っているのだから。
◇
帰邸して、ミンナに首尾を報告すると、侍女どのは真顔で伺いを立てた。
「では、招待状の文面は、いかがいたしましょう?」
「そうねえ。……『口論の相手』では、王都の皆様がお困りでしょうから、表向きは、そのままでよろしくてよ」
「かしこまりました。世間用と、お二人用でございますね」
世間の言葉と、二人の言葉。使い分けられるのも、選べるうちである。
◇
ザイフェルト侯爵家、当主の書斎。ローレンツが、久方ぶりに父の前へ立った。曰く――最後にひとつだけ、やらせてください。何を、と問うても、倅は頭を下げるばかりで答えない。楽団長への手配の件は、侯爵の耳にも入っている。止めるべきか、と老いた指が帳簿の縁を二度叩き――やがて、離れた。「……阿呆をやるなら、仕舞いの阿呆にせい」。倅は、もう一度だけ深く頭を下げた。
◇
そして――開幕の夜会の朝が、来る。