「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
秋の開幕を祝う夜会の朝は、雲ひとつない上天気である。
一年前の朝も、私はこの鏡の前にいた。若草色を着て、作法をひとつずつ数えて、笑いを飲む練習の仕上がりを確かめて。今朝の鏡の中には、藍色と、練習のいらない顔がある。ミンナが最後の一結びを終えて、鏡越しに一礼した。
「お嬢様。本日の空白のご報告は――ございません」
「あら。お仕事納めかしら?」
「良い納めでございます」
空白の帳簿が、今日でめでたく店じまいである。ミンナの一礼がいつもより深いのは、たぶん、そういうことである。
◇
歌劇場の大階段の下に、その方は立っていた。
馬車も供も使わない方が、王都じゅうの見栄の集まる大階段の下に、正装で、である。行き交う招待客が、みんな二度見をしていく。私が馬車を降り立つと、無愛想は一歩進んで、手を差し出してくる。
「迎えに来た。――口論の相手を」
「まあ。歩いていらしたの?」
「今夜は、格別でな」
差し出された手に、指を載せる。手袋越しに、掌の体温がじんわり届く。一年前ひとりで上ったこの階段を、今年は二人で上るのである。シャンデリアの光が大理石の上で砕けて、まぶしい。まぶしさに目を細めるふりで、私は隣の横顔を、こっそり一枚、胸に写しておく。
開幕の演目は良い出来で、幕間の柱の下は――今夜ばかりは、人の流れの死角ではなかった。
お祝いのご挨拶が、入れ替わり立ち替わり来るのである。果実水の杯を持ったまま、二人とも礼の応酬に追われて、口論どころではない。人垣が一瞬切れた隙に、あの方が低くこぼす。
「……今夜は、口論にならんな」
「ええ。不本意ですわね」
「ああ。不本意だ」
二人して大真面目に頷き合ったのが可笑しくて、私は扇の内で笑う。来週からは、また静かな柱の下へ戻れる。戻れる場所があるというのは、良いものである。
夜会の本番は、大広間である。
公示は夜半の口上で、と段取りが決まっているのに、王都の皆様はとっくにご存じの顔で、扇の裏の笑みが忙しい。大広間は一年前と同じ蜜色の光で満ちて、楽団が、次の曲の譜をめくっている。
――最初の和音で、分かった。
あの円舞曲である。
一年前、この曲の途中で私は壁際に立っていて、曲の終わりに、大広間の真ん中へ呼ばれたのだった。次に来るものを、今年の体は何も構えていない。構えなくていい体で、私はこの曲を聴いている。
一年前のあの夜、あの口上の前に流れていた曲。あの夜のことなら、私は全部覚えている。抜けているのは、いつもどおり、おひとりぶんの意味だけである。……けれど今夜この曲が流れる理由だけは、見当がつかない。
人垣が、割れる。
見事な刺繍の勝負装束に、真珠の襟留め。見知らぬ殿方がひとり、まっすぐにこちらへ歩いてくる。一年前と同じ立ち位置。同じ角度。広間のざわめきが、すうっと引いていく。どこかで、どなたかの扇がぱたりと落ちた。
状況の察しは、つく。この再現を組んで、この位置に立つ方は、王都にお一人しかいらっしゃらない。……察しがついても、結ばれはしないのである。目の前にいるのは、やはり、知らない殿方である。
「カロリーネ。おまえ、昨夜は俺に意見したそうだな」
一年前と、同じ言葉である。
広間が、凍った。
どなたかが息を呑む音がする。人垣の際で、公爵が半歩、動く気配がして――止まった。止めたのは私ではない。あの方が、ご自分で止めたのである。この幕にどう応えるかは、私の選ぶこと――そう、譲ってくださったのだ。……ようございますわ。なら、選ばせていただく。
私は、私の体の音を聞いていた。
謝罪は――口をつかない。
意見の前の一拍は――ない。
首は――あの角度に、動かない。
肩も――強ばらない。
「婚約者」の錘さえ、外れたまま静かである。
どの癖も、どの錘も、もう鳴らないのである。一年かけて一つずつ外してきた七年ぶんの留め金が、外れたまま静かにしている。その静けさを、私はいま、満座の真ん中で聴いている。体は軽く、頭は澄んで、目の前の殿方の口上だけが、秋の夜の真ん中に、ぽつんと浮いている。
怒りは、ない。恐れも、ない。あるのは、初対面の方に往来でいきなり肩を叩かれたときの、あの、きょとんとした心持ちだけである。だから、出てくる言葉も、それだけだった。
扇をゆっくり畳み、静かに、首を傾げる。
「――初対面の方にしては、ずいぶん馴れ馴れしいですわね」
広間の時間が、止まる。
人垣の際で、あの方が息をひとつ、ゆっくり吐いたのが分かった。あの方もまた、この答えを――私がこの答えを選べることを――待っていた側なのである。
見知らぬ殿方は、その答えを、待っていたように受けた。目を閉じ、長く、長く息を吐く。何かを最後まで数え終えた人の、息である。
そして、その方は笑った。
勝ち誇りでも強がりでもない。肩から力の抜けた、見ているこちらの拍子まで抜けるほど静かな、初めて見る種類の笑いである。