「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
笑い終えた殿方は、広間へ向かって、よく通る声で言う。
「皆様、お騒がせした。余興である。……古い芝居の、千秋楽でな」
ざわめきが、戸惑いながら緩んでいく。殿方は改めて私に向き直り、今度はまったく違う声で言った。低くて静かで、七年ぶんくたびれた声である。
「……礼を言う。聞きたかった答えを、聞かせてもらった」
「……あの口上には、続きがございましたでしょう?」
「いや。もう、要らん」
殿方は、首を振る。
「一年前、俺は、あの言葉の続きを間違えた。二度と直せん形でな。それからずっと、考えていた。同じ舞台を組んで、同じ言葉を言って――違う答えを、この耳で聞くまで、俺の七年が終わらんのだ」
声には、もう、あの同意を求める語尾がどこにもない。
「おまえの中の俺は、あの夜に終わった。だが俺の中の七年は、生きたまま、置き場所がない。……だから、
弔い、である。
この再現は、意趣返しの一手ではなく、あの方なりの、七年の葬送だったのだ。同じ光、同じ曲、同じ立ち位置。祭壇をひとつずつ組み上げて、最後に要ったのは、私の「知らない」という鐘の音だけだったのである。
――それにしても、勝手な頼みである。
私に無断で祭壇を組み、満座を巻き込み、締めの鐘つき役までこちらへ回す。人の都合を訊かない段取りの癖は、七年前から少しも直っていない。直っていないけれど、今夜のこれには、七年前と違うところが一つだけある。受けるかどうかを、私が選べることである。
私は、ひと呼吸ぶん吟味して――受けることにした。今夜かぎり、私の意思で、である。あの娘の七年にこれで本当の仕舞いがつくのなら、鐘の一打ちくらい、安いものだ。それに、返せないものを返せと言わない形をあちらが選んだことだけは、認めて差し上げてもいい。「初対面」は、この方が生まれて初めて、鏡ではない他人へ差し出した距離なのだから。
殿方は、一歩下がった。それから、見事な礼をする。社交の礼ではない。剣を納めるときの、あの礼である。
「ええ。――初対面です。ザイフェルト家のローレンツと申します」
お名前は、例によって、最初のひと粒で砂になった。それでいい。初対面のご挨拶とは、そういうものである。
「あなたの婚約に――初対面の他人から、ただの祝いを」
私は、生涯で二番目に丁寧な礼を、お返しした。
「初めまして。カロリーネ・フェルゼンですわ。……お祝い、確かに頂戴いたしました」
言いながら、胸の内で小さく、日記の中のあの娘に声をかける。――見ていてちょうだい。あなたの七年のお相手は、いま、ちゃんとご自分の足で、七年を仕舞いになさったわよ。
顔を上げた殿方は、
◇
夜半、公示の口上が読み上げられる。
ヴィンターベルク公爵と、フェルゼン伯爵家息女の婚約、式は来春――広間が祝いの声で満ちて、乾杯の杯が上がった。今夜の父は立食の心強さで匙の心配がなく、そのかわり、乾杯のたびに目頭を押さえている。母は素知らぬ顔で、その背中を扇の骨でとんと支えている。妹は興奮のあまり、「すごい」の語彙をとうとう使い果たしている。
人波の隙間で、桃色のドレスの令嬢と目が合った。
あの夜会のバルコニーの、子爵令嬢である。隣には楽譜を抱えた若い楽師が立ち、令嬢の指には真新しい指輪が光っている。令嬢は私に、花のほころぶような会釈をひとつくださった。楽譜台の隣は息がしやすい、と伺ったことがある。……何よりのことである。あの夜の「腕の飾り」は、もうどこにもいない。いるのは、ご自分の席を選んだ方だけである。
祝いの人垣の真ん中では、どなたかが公爵に伺っている。
「公爵様は、その、フェルゼン嬢とは、以前からのお知り合いでいらっしゃいますの?」
「連れではない」
即答である。ああ、また始まった、と思う間もなく、あの方は今夜も断定で続けた。
「口論の相手だ。――生涯の、な」
祝いの笑いが、どっと沸く。私は扇の内側で、こっそり笑った。一年前、破棄の口上が響いたのと同じ大広間に、今夜は同じ声量で、まるで違う言葉が響いている。広間の使い方は、こうでなくては。
◇
帰りの馬車で、隣の無愛想がぽつりと言った。
「……来週から、演目が変わる」
「存じておりますわ。演目替わりですもの」
「桟敷は、俺の隣だ。……いや、違うな」
一拍。
「俺の隣に、来てくれ。後ろの席で聴く」
「あら。ずいぶん正式なお誘いですのね」
「……善処した」
「では、お受けいたしますわ。……ときに公爵様、来週の演目の結末をご存じ?」
「知っている。……教えんがな」
無愛想は、澄まし顔で窓の方を向いている。
「あら、意地悪。では来週の幕間は、大荒れですわね」
「望むところだ」
窓の外を、王都の街灯が流れていく。一年前、ひとりで糸を解いたあの夜明けの私は、解いた糸の先がこんな夜に繋がっていようとは、知らない。知らないままで、いい。教えてやる必要もない。……あれはあれで、あの朝の私が、自分の手で選んだ夜明けなのだから。