「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~   作:aquali

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4. 三分でございます

 面会の日の朝、私は藍色を着た。

 

「勝負のお色でございますね」

 

 ミンナが襟を整えながら言う。

 

「勝負をする気は、ございませんのよ」

 

 母は玄関で「行ってらっしゃい」とだけ言った。売られた喧嘩の値踏みは娘に任せる、という顔である。ありがたい。

 

 面会の席は、両家の親が同席、応接間の長机、時計は窓際。逃げも隠れもいたしません。

 

 現れた殿方は、目の覚めるような支度をしていた。襟には真珠、袖には見事な刺繍。そして胸元には、大ぶりの白い花がひと枝。甘い、重い香りが、机のこちら側まで漂ってくる。

 

「もう一度会えば、思い出す。……惚れ直すさ。おまえは七年、俺に夢中だっただろう?」

 

「初対面のご挨拶としては、斬新ですこと」

 

「……その花に、何か謂れ(いわれ)でも?」

 

「銀鈴花だ。おまえの、いちばん好きな花だろう?」

 

「あら、さようですの」

 

 初耳である。正確には、覚えのない話である。私の好きな花。この方がそう仰るからには、七年のどこかで、そういうことになっていたのだろう。理由の穴が、また一つ。あとでゆっくり吟味いたしましょう。

 

「香水も毎年贈ってやった。おまえは毎日つけていただろう?」

 

「まあ。それはそれは、ご丁寧に」

 

「……思い出したか?」

 

「いいえ、少しも」

 

 長机の端で、父が胃のあたりを押さえた。向かいの侯爵様は、彫像のような渋面で瞑目していらっしゃる。お察しいたしますわ。

 

 それにしても、と私は目の前の殿方を、あらためて吟味する。お話が始まってから、話題はずっとご自分の贈り物、ご自分の心尽くし、ご自分の七年である。語尾には毎度「だろう」が付く。同意の返事だけを受け取る形の、器用な問いの立て方だ。なるほど、以前の私はこの「だろう」に、七年うなずき続けたのかもしれない。

 

 殿方――お名前は今朝ほど三度うかがい、三度とも、聞いたそばから流れていった――は、拳で机を打って立ち上がる。

 

「いい加減にしろ!」

 

 声が、破裂した。

 

「ごめんなさ――」

 

 言いかけて、私は自分の口を、扇でぱたりと塞いだ。

 

 われながら、覚えのない声である。

 

 謝る理由を、頭の中で探す。ない。誰かの足を踏んだのでもなければ、茶をこぼしたのでもない。声を張られた。ただそれだけのことで、私の口は勝手に謝り出す。喉の奥で、音が先に立つ。頭より先に、体が頭を下げようとしている。

 

 指先が冷えていた。腹は立っているのに、その怒りには宛先がない。誰がこの結び目を私の喉に結んだのか、思い出せないからである。宛先のない怒りは行き場をなくして、ただ扇の骨を握る手に力がこもる。

 

 ――いいえ。宛先など、要りませんわ。

 

 癖は、私のものだ。私のものなら、私がやめられる。

 

「……いま、謝る理由がございませんでしたわ。取り消します」

 

「なん……だと?」

 

「それで、ご用件は」

 

 殿方は懸命に、思い出とやらを並べ始めた。湖水の東屋がどう、初めての夜会がどう、贈った小箱がどう。東屋に参った覚えも、夜会に出た覚えも、あるにはあるのである。ただ、誰と行ったのか、何のための品だったのか――思い出の真ん中だけが抜けていて、まるでよそのお宅の話をうかがっているようだった。私は窓際の時計を、ちらりと見る。

 

「お話が、それだけでしたら」

 

 立ち上がり、丁寧に礼をする。

 

「三分、頂戴いたしましたわね。有意義な、初対面でございました」

 

 殿方は口を開けたまま、しばらく閉じるのをお忘れになっていた。長机の両端で、親たちが同時に立ち上がる音がする。散会である。肩の力を抜くと、藍色の袖が、窓の光をやわらかく返した。

 

       ◇

 

 ザイフェルト侯爵家、当主の書斎。ヴィーラント侯爵は、息子の報告を最後まで聞かずに額を押さえた。

 

「満座で破棄の口上を吐いた阿呆が、取り返す算段だけは一人前か?」

 

「父上。あの女、本当に忘れて――」

 

「先方の祖母君から、聞いておる」

 

 解けた糸の話は、当主同士の胸に納めてある。息子に言うても詮なきこと。あるのは先代の約束状と、両家の外聞。侯爵は、部屋の外まで届く声で言い渡す。

 

「冬が来る前に、片を付けよ」

 

        ◇

 

 私は帰りの馬車を、歌劇場の前で停めさせた。観劇の日ではないけれど、貼り出された演目札だけでも見て帰ろうと思ったのである。

 

 柱の下に、見知った無愛想が立っていた。

 

「あら、公爵様。本日もお運びですの?」

 

「やめておけ。今日の演目は外れだ。入らずに帰るのが利口だぞ」

 

「まあ。お入りになる前から、よくお分かりですこと」

 

「三年前に観た。二幕で客が三人寝る」

 

「それは重症ですわね」

 

 入らずに帰った。夕暮れの並木道を、馬車をゆっくり歩かせて。窓の外は焼き栗の匂いがして、点灯夫の梯子の先で、街灯が一つずつ点いていく。膝の上で、手袋の指を組んだり解いたりしてみる。今朝の面会の冷えは、もう指先に残っていない。

 

 外れの日は、入らない。嫌いは着ない。謝る理由がなければ、謝らない。

 

 一つずつである。一つずつ、私は私の糸を、この手に手繰り寄せていく。今日のところは、そういうことにしておきましょう。

 

 屋敷に着くと、ミンナが銀盆に招待状を載せて待っていた。秋の夜会――今季最初の、ワルツの季節である。

 

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