「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
秋の夜会には、ひとつ困り事がある。
ワルツである。
「カロリーネ様は、踊りませんものね」
「ご無理はなさらないで。以前のあなたは、壁の花がお好きでしたもの」
会場に入って
なるほど、以前の私は踊らなかったらしい。それ自体は覚えている。七年、夜会のたび、申し訳程度に一曲目を辞退して、あとは壁際で扇を揺らしていた。壁際から見るワルツは、綺麗なものだ。綺麗なものを、私は七年、柵の外から眺めていたことになる。
困るのは、その先である。断っていた理由が、どこにもない。
足が痛かった覚えはない。曲が嫌いだった覚えもない。まただ。また、あの明るい穴である。
「顔が、吟味の顔になっているぞ」
いつの間にか、隣に無愛想が立っていた。夜会嫌いで名高いヴィンターベルク公爵が、燕尾も正しく、なぜここに。
「公爵様。夜会は、お嫌いなのでは?」
「嫌いだ。……様子を見に来た」
「何の、ですの?」
「さあな」
公爵は、楽団の方へ目をやった。一曲目のワルツが、始まろうとしている。シャンデリアの下、組になった男女が床へ流れ出ていく。
「踊らないのが君の好みか、誰かの好みだったのか――考えている顔だな」
「まあ。お顔に出ておりまして?」
「出ている。……なら、確かめる手はひとつだ」
公爵はこちらへ向き直り、無愛想のまま、手を差し出した。
「踊るか、断るかは、今の君が決めろ。俺と試してみるか?」
差し出された手を、私は三秒、吟味する。手袋越しにも分かる、大きな、無骨な手である。断る理由を探して、見つからなかった。探す先が空白だからではない。今の私に、断る理由がないからである。
「――お受けいたしますわ。二曲目を」
「ほう。なぜ二曲目だ?」
「一曲目は、皆様がこちらをご覧になりますもの。実験は、静かな環境で行うものですのよ」
公爵が、ふ、と鼻で笑った。この方の笑った顔は、存外に人相が悪い。
◇
二曲目が始まった――。
手を取られ、床に出る。
――体が、覚えていた。
三拍子の頭で膝がゆるむ。回転の前に爪先が開く。誰かに合わせて仕込まれた動きではない。稽古で、自分の骨に刻んだ動きである。思い出した。十六の春、婚約が決まった年、私はワルツの稽古が楽しみで楽しみで、雨の日も、傘を二本駄目にして稽古場へ通ったのだ。あの楽しみを、どこの角で手放したのかは――空白である。けれど、骨はちゃんと覚えていてくれた。七年、私の中で出番を待っていた、律儀な三拍子である。
床が回る。シャンデリアの光が、蜜のように尾を引いて流れる。
踊りは――好き。
あら。
断る癖のほうが、後から張り付いた借り物だったらしい。ならば話は簡単である。借り物はお返しして、好きは、私がいただく。
「……よく回るな」
「好きですもの。いま、思い出しましたけれど」
壁際の奥様がたが、扇の陰で騒めいているのが見える。あらあら、まあまあ、と口の形だけで分かる。存分にお騒めきくださいまし。今夜の私は、機嫌がいいのである。
曲が終わる。礼の姿勢のまま、公爵が言った。
「ワルツは二曲目がいい。一曲目は皆、緊張で靴を見ている。二曲目は、音楽を聴いて場が花開くのだ」
「それも、公爵様のご趣味ですの?」
「ああ。俺の趣味だ。次踊る時も二曲目を考えておいてくれ」
それから公爵は、壁際まで私を送り、ほんの少しだけ声を低くする。
「言っておくことがある。――俺は、昔の君を知らんわけではない。七年、幕間で口論をしてきた」
「ええ」
「だが、昔の君を教える気はない。……今の君が選べ。そちらの方が、面白い」
「まあ」
面白い、と仰いました?
「わたくしは、公爵様の観劇の演目ではございませんのよ」
「知っている。演目なら、外れの日は入らん」
――この方、毎日お入りになるおつもりかしら?
訊き返す前に、無愛想は一礼して、夜会嫌いらしく、さっさと帰ってしまった。
残された私は、扇の陰で少しだけ考える。あの方は、私の空白を覗こうとしない。埋めようともしない。ただ隣で、自分の好みを一つずつ置いていく。二重唱の席、外れの日の見切り、二曲目のワルツ。拾うか拾わないかは、いつも私に任されている。その置き方の丁寧さに、まだ名前をつけられずにいる。
急ぐ旅では、ありませんけれど。
◇
ザイフェルト侯爵家、夜半の玄関広間。夜会から戻ったローレンツは、手袋を大理石の床に叩きつけた。
ヴィンターベルク公爵と踊ったそうだな、と、父はそれだけ言い置いて書斎へ消えている。
「……見ていろ」
贈った品。連れて行った場所。ふたりの七年。思い出の種なら、まだ山とあるのだ。どれか一つくらい、引っかかるに決まっている。
でなければ――俺の七年は、何だったという話になる。