「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~   作:aquali

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5. ワルツは二曲目

 秋の夜会には、ひとつ困り事がある。

 

 ワルツである。

 

「カロリーネ様は、踊りませんものね」

 

「ご無理はなさらないで。以前のあなたは、壁の花がお好きでしたもの」

 

 会場に入って四半刻(しはんとき)、周りの奥様がたが、口々に親切を仰ってくださる。悪気は、一滴もない。皆様の中の「以前の私」は、それはそれは奥ゆかしい娘なのである。

 

 なるほど、以前の私は踊らなかったらしい。それ自体は覚えている。七年、夜会のたび、申し訳程度に一曲目を辞退して、あとは壁際で扇を揺らしていた。壁際から見るワルツは、綺麗なものだ。綺麗なものを、私は七年、柵の外から眺めていたことになる。

 

 困るのは、その先である。断っていた理由が、どこにもない。

 

 足が痛かった覚えはない。曲が嫌いだった覚えもない。まただ。また、あの明るい穴である。

 

「顔が、吟味の顔になっているぞ」

 

 いつの間にか、隣に無愛想が立っていた。夜会嫌いで名高いヴィンターベルク公爵が、燕尾も正しく、なぜここに。

 

「公爵様。夜会は、お嫌いなのでは?」

 

「嫌いだ。……様子を見に来た」

 

「何の、ですの?」

 

「さあな」

 

 公爵は、楽団の方へ目をやった。一曲目のワルツが、始まろうとしている。シャンデリアの下、組になった男女が床へ流れ出ていく。

 

「踊らないのが君の好みか、誰かの好みだったのか――考えている顔だな」

 

「まあ。お顔に出ておりまして?」

 

「出ている。……なら、確かめる手はひとつだ」

 

 公爵はこちらへ向き直り、無愛想のまま、手を差し出した。

 

「踊るか、断るかは、今の君が決めろ。俺と試してみるか?」

 

 差し出された手を、私は三秒、吟味する。手袋越しにも分かる、大きな、無骨な手である。断る理由を探して、見つからなかった。探す先が空白だからではない。今の私に、断る理由がないからである。

 

「――お受けいたしますわ。二曲目を」

 

「ほう。なぜ二曲目だ?」

 

「一曲目は、皆様がこちらをご覧になりますもの。実験は、静かな環境で行うものですのよ」

 

 公爵が、ふ、と鼻で笑った。この方の笑った顔は、存外に人相が悪い。

 

       ◇

 

 二曲目が始まった――。

 

 手を取られ、床に出る。

 

 ――体が、覚えていた。

 

 三拍子の頭で膝がゆるむ。回転の前に爪先が開く。誰かに合わせて仕込まれた動きではない。稽古で、自分の骨に刻んだ動きである。思い出した。十六の春、婚約が決まった年、私はワルツの稽古が楽しみで楽しみで、雨の日も、傘を二本駄目にして稽古場へ通ったのだ。あの楽しみを、どこの角で手放したのかは――空白である。けれど、骨はちゃんと覚えていてくれた。七年、私の中で出番を待っていた、律儀な三拍子である。

 

 床が回る。シャンデリアの光が、蜜のように尾を引いて流れる。

 

 踊りは――好き。

 

 あら。

 

 断る癖のほうが、後から張り付いた借り物だったらしい。ならば話は簡単である。借り物はお返しして、好きは、私がいただく。

 

「……よく回るな」

 

「好きですもの。いま、思い出しましたけれど」

 

 壁際の奥様がたが、扇の陰で騒めいているのが見える。あらあら、まあまあ、と口の形だけで分かる。存分にお騒めきくださいまし。今夜の私は、機嫌がいいのである。

 

 曲が終わる。礼の姿勢のまま、公爵が言った。

 

「ワルツは二曲目がいい。一曲目は皆、緊張で靴を見ている。二曲目は、音楽を聴いて場が花開くのだ」

 

「それも、公爵様のご趣味ですの?」

 

「ああ。俺の趣味だ。次踊る時も二曲目を考えておいてくれ」

 

 それから公爵は、壁際まで私を送り、ほんの少しだけ声を低くする。

 

「言っておくことがある。――俺は、昔の君を知らんわけではない。七年、幕間で口論をしてきた」

 

「ええ」

 

「だが、昔の君を教える気はない。……今の君が選べ。そちらの方が、面白い」

 

「まあ」

 

 面白い、と仰いました?

 

「わたくしは、公爵様の観劇の演目ではございませんのよ」

 

「知っている。演目なら、外れの日は入らん」

 

 ――この方、毎日お入りになるおつもりかしら?

 

 訊き返す前に、無愛想は一礼して、夜会嫌いらしく、さっさと帰ってしまった。

 

 残された私は、扇の陰で少しだけ考える。あの方は、私の空白を覗こうとしない。埋めようともしない。ただ隣で、自分の好みを一つずつ置いていく。二重唱の席、外れの日の見切り、二曲目のワルツ。拾うか拾わないかは、いつも私に任されている。その置き方の丁寧さに、まだ名前をつけられずにいる。

 

 急ぐ旅では、ありませんけれど。

 

         ◇

 

 ザイフェルト侯爵家、夜半の玄関広間。夜会から戻ったローレンツは、手袋を大理石の床に叩きつけた。

 

 ヴィンターベルク公爵と踊ったそうだな、と、父はそれだけ言い置いて書斎へ消えている。

 

「……見ていろ」

 

 贈った品。連れて行った場所。ふたりの七年。思い出の種なら、まだ山とあるのだ。どれか一つくらい、引っかかるに決まっている。

 

 でなければ――俺の七年は、何だったという話になる。

 

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