「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
朝の支度には、七年ものの順序がある。
髪を結い、耳飾りを選び、最後に、鏡台の右端へ手が伸びる。そこには乳白色の小瓶が一本、当然の顔で座っているのである。
「お嬢様。本日も、銀鈴花でよろしいですか?」
ミンナが小瓶を掲げて言う。銀鈴花の香水。鏡台の
銀鈴花――先日の面会の席で、見た花である。応接間に、白くて甘い花がひと枝、重たげに香っていた。どなたの胸元に挿さっていたのかは、例によって、見たそばから結ばれないのだけれど。耳の奥には、文言だけが居残っている。おまえのいちばん好きな花だろう。香水も毎年贈ってやった。――言われた言葉というものは、貝殻のように砂へ残るのである。誰の声だったかだけが、どうしても拾えない。
「出どころでしたら、ザイフェルト家にございますよ。毎年、年の初めに一瓶。帳面にも、そう載っております」
ミンナが、あっさり教えてくれた。なるほど、空き瓶七本の正体は、あちら様の律儀であるらしい。毎朝この小瓶へ手が伸びる理由も、七年前のどこかで、そういうことになったのだろう。
分からないのは、ただ一点。――私は、この香りが好きなのかしら?
手首に一滴落として、目を閉じてみる。甘い。重い。上等ではある。けれど、胸のどこも返事をしないのである。七年、毎朝つけてきた香りが、鼻の先で他人の顔をしている。好きが消えたのか、初めから好きなどなかったのか、それすら分からない。困った話である。好き嫌いというものは、七年も毎朝続けていれば、体に染みていそうなものですのに。
――ならば、確かめるまでですわ。
「ミンナ。香り屋へ参りますわよ」
「かしこまりました。ご自分の鼻で、お選びになるのですね」
「話が早くて助かるわ」
◇
王都の目抜き通りは、朝方の雨が上がったばかりだった。石畳は鏡のように濡れて、街路樹の葉先から、時折しずくが落ちる。馬車を降りたとたん、焼きたてのパンと、湿った土と、どこかの店の珈琲の匂いが、いっぺんに押し寄せてきた。街というものは、こんなに匂いで出来ていたのだ。桟敷と夜会の往復では、ついぞ気づかずにいた。
香り屋は、通りの角の小さな店である。年寄りの店主が、盆に
「名前は伏せてくださいまし。目を閉じて選びますの」
「ほほう。……当店では、いちばん正しい選び方でございますよ」
目を閉じる。一本目は薔薇。豪奢だけれど、顔の濃いお姫様のようで、三嗅ぎで少しくたびれる。二本目、
「……甘すぎますわ。わたくしには」
目を開けると、店主が乳白色の小瓶を、そっと盆の外へ下げた。銀鈴花。七年つけ続けた香りへの、これが今の私の返事である。昔の私がどう思っていたかは、もう確かめようがない。ただ、少なくとも今の私は、この香りを好きではない。それだけ分かれば十分で、胸のつかえがひとつ、ことりと外れる音がする。
五本目で、手が止まった。
摘みたての香草と、柑橘の皮と、その奥にほんの少し、朝の水の気配。目の裏に浮かんだのは〈糸の家〉の夜明けである。解き終えた糸くずが東の風に流れて、世界がふいに軽くなった、あの朝の空気の味だ。胸の奥で、糸がもうひと巻き、ゆるむ気配がする。
「……好き。あら」
「お目が高い。いえ――お鼻が高い」
店主は真顔で言った。商売柄、鼻で語られると重みが違う。
◇
包みを抱えて店を出ると、雨上がりの往来に、見知った無愛想が立っていた。
「あら、公爵様。お買い物ですの?」
「楽譜屋の帰りだ」
小脇に、薄い紙包み。それだけ言うと、公爵は私の包みへ一度だけ目をやった。
「香り屋か」
「ええ。七年ものの香水と、お別れして参りましたの」
「そうか」
それきり、包みの中身を訊かない。良い香りを教えてやろう、とも仰らない。代わりに公爵は、濡れた石畳へ目を落として、ほんの一段だけ声を柔らかくした。
「――俺は、雨上がりの石畳の匂いが好きだ。石が乾いていく、あの短い間だけの匂いだ。どこの香り屋にも売っておらんのが、惜しい」
「まあ。では今しがた、王都じゅうが公爵様の香水瓶ですのね」
「……そういう理屈になるな」
公爵は空を一度見上げ、では、と一礼して、濡れた通りを歩いて行ってしまった。馬車の姿は、通りのどこにもない。あの方は、歩くのである。
売り物にならない匂いがお好き。手に入らないものを好きと言えるのは、存外、贅沢なことである。私は包みを抱え直し、鼻から胸まで、雨上がりの匂いを一杯に通してみた。悔しいことに、良い匂いである。
◇
上機嫌で帰邸した私を、玄関で困り顔のミンナが待っていた。
「お嬢様。お荷物でございます」
「あら。何も頼んでおりませんことよ」
「ザイフェルト侯爵家より。……その、大量の」
玄関広間に、木箱が三つ、鎮座している。蓋の隙間からは、天鵞絨のリボンの端まで覗いている。添え状に曰く――これまでに俺がおまえへ贈ってやった、思い出の品々である。見れば、必ず思い出すはずだ、と。
あちら様の思い出は、どうやら木箱で量るものらしい。