「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
応接間の長机が、品物で見えなくなった。
例の木箱の中身、である。歌劇場の演目表の束、湖水色の小箱、押し花の
「こちらは七年前の秋の演目表でございます。お印がついておりますのは……『三度目の春』の初日ですね」
「観た覚えは、ありますわよ。生まれて初めての観劇でしたもの」
覚えているのは、そこまでである。誰と観たのか、なぜ演目表を後生大事に取ってあったのか――思い出の真ん中だけが、綺麗にくり抜かれている。隅に小さな書き込みがあるけれど、誰の字かも、むろん結ばれない。
ミンナが読み上げ、私が答える。いつの間にか、そういう段取りになっている。
「続きまして、湖水色の小箱でございます」
「存じません。よい細工ですこと」
「押し花の栞でございます」
「存じません。よい押し花ですこと」
我ながら、返事に切れ味が出てきた。四つ目あたりから、ミンナの読み上げにも妙な節がついてきている。
「お嬢様。少々、楽しんでおられませんか?」
「不謹慎よ、ミンナ。……少しだけね」
どの品も、悪い品ではないのである。品は良いのに、思い出だけが入っていない。上等な額縁ばかり届いて、絵が一枚も入っていないようなものである。見れば必ず思い出す、とあちら様は仰るけれど、額縁を何百枚並べたところで、消えた絵は戻りませんのよ。
その、箱の底から。
ミンナが一枚の肩掛けを取り出した瞬間、胸の奥が、ざわりと鳴った。
若草色でも、銀鈴花でもない。生成りの地に、藍と茶の細かい織り模様の入った、肩掛けである。受け取って、窓の光に透かす。織り目は細かく、端の始末はどこまでも丁寧で、この糸の撚り方には――覚えがある。
鼻を寄せると、織り目の奥から、古い蜜蝋と薬草の匂いが立った。
〈糸の家〉の匂いである。
「……おばあさまの手だわ、これ」
間違いない。婚約の年、十六の私に、祖母が織って持たせてくれた一枚である。嫁ぎゆく先で寒い思いをしないように、と。それがどういう経緯でか、あちらの手元に紛れ込んで――添え状の言い分では、これも「俺が贈ってやった」品の一つであるらしい。祖母の一枚に、よその贈り主の顔がついて、戻ってきたわけである。
ざわめきの正体が、ようやく分かった。この一枚に残っていたのは、あの方の何かではない。祖母の手の、ぬくもりのほうである。
――消えたのは、あの方のぶんだけ。
七年から解けて流れていったのは、本当に、おひとりぶんだけなのだ。祖母の糸も、母の茶も、ミンナの毒舌も、劇場の暗がりも、みんなちゃんと残っている。空白は、七年まるごとの穴ではない。人ひとりのかたちに、くり抜かれているだけ。そう分かったら、胸のざわめきは、湯気の立つ茶碗を両手で包んだときのような、静かなあたたかさに変わっていた。
「ミンナ。この一枚だけは、残しますわよ」
「お戻しの荷から、外しますか?」
「ええ。もともと、うちの品ですもの」
残りの品々は箱へ納め直し、礼状を添えて、丁重にお戻しした。お心遣いはうけたまわりました、お品はどれも結構なものゆえ、しかるべき持ち主の元でこそ映えましょう――持ち主に心当たりはないけれど、少なくとも、私ではない。
◇
週の観劇の夜。幕間の柱の下で、木箱の顛末を演目評のついでに申し上げたら、公爵はしばらく黙って、それから短く言った。
「物量戦か。古典的だな」
「二幕の求婚の場と、どちらが古典的ですの?」
「いい勝負だ。……ただ、あちらの台本のほうに愛嬌がある」
果実水の杯を手に、公爵は柱へ背を預ける。そういえば、この方は何も贈ってこない。二重唱の席も、外れの日の見切りも、言葉がひとつずつ置かれていくだけである。ふと、その理由を伺ってみたくなった。
「公爵様は、何も贈ってくださいませんのね」
「贈らん」
即答である。
「物は、君の吟味の邪魔になる。品物というのは、押しが強い。部屋に置けば毎日目に入る。目に入るたび、贈り主の顔で君に話しかける。……君はいま、自分の好き嫌いを選り直している最中だろう。俺の顔をした品物に、横から口を挟ませる気はない」
好みや流儀を語るときだけ、この方は一段だけ饒舌になる。
「その点、言葉は良いぞ。軽くて、場所を取らん。拾うも捨てるも、君の胸三寸だ」
「まあ。では、これまで頂戴したお言葉は?」
「好きに始末しろ。……捨てられん言い方を、多少は工夫しているがな」
終演後。公爵家の馬車は、今夜も空で帰るらしい。外套の襟を立てて夜の石畳を歩き出す後ろ姿を、私は劇場の車寄せから見送った。雨上がりでもないのに、と思いかけて、やめる。あの方はきっと、夜の街の匂いをひとつずつ吟味しながら帰るのである。存外、似た者同士なのかもしれない。
◇
数日ののち。母が、困り顔で招待状の束を運んできた。
「カロリーネ。あなた、社交界で呼び名がついたそうよ」
「あら。どのような?」
「それが――〈どちら様の令嬢〉ですって」
「まあ。どこから漏れますのかしら?」
「あの朝の玄関には、あちらの御者も従僕もいましたからねえ。口さがない耳というものは、どこのお屋敷にもいるものよ」
母は他人事のように仰るけれど、つまり例のひと言は、ひと月かけて王都をひと巡りしたらしい。招待状は、数えて十七通。差出人は、日頃さほど親しくもないお歴々ばかりである。にわかに私の顔が見たくなるご用事など、ひとつしか思い当たらない。
見世物の気配が、ぷんぷんいたしますわね。