「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~   作:aquali

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8. 余興ではございませんの

 十七通のうち、受けたのは一通だけである。

 

 選んだ理由は単純で、主催の夫人が、社交界でも指折りの好事家(こうずか)でいらっしゃるから。見世物をお望みの皆様がいちばん濃く集まる場所で、いちばん先にお断りを申し上げる。回り道が嫌いなのは、うちの家風である。

 

「敵陣へ、お出ましですか」

 

「人聞きの悪い。……余興のお断りを、直々に届けに参るだけよ」

 

        ◇

 

 夜会の広間は、シャンデリアの光と、囁きで出来ていた。

 

 私が入った途端、扇がいっせいに持ち上がる。その陰から、視線だけがちらちらとこちらへ飛んでくる。壁際の楽団まで、心なしか前のめりである。

 

 夫人は、蜜のような笑顔で私を迎えてくださった。

 

「よくいらしてくださったわ、カロリーネさん。今夜はぜひ、お引き合わせしたい方がいますのよ」

 

 言うが早いか、人垣が心得た顔で割れていく。仕込みの済んだ舞台のような割れ方である。その先に、仕立ての良い殿方がお一人。真珠の襟留め。見覚えのない、自信に満ちたお顔。……この割れ方と、皆様のこの目つきとで、およその配役は察しがつく。ああ、例の、であろう。

 

「あちらの殿方を、ご存じ?」

 

 夫人の声は、広間の隅々まで届く音量である。扇の陰の目という目が、一斉に私の口元へ集まった。ここで私が首を傾げ、例のひと言を申し上げる――そういう演目が、すでに組まれているのである。楽団の前のめりにも、これで説明がつく。

 

 私は、精一杯ゆっくりと、丁寧に礼をした。

 

「奥様。ひとつ、お尋ねしても?」

 

「ええ、どうぞ」

 

「今夜のわたくしの出番は、何幕の何場ですの?」

 

 夫人の扇が、ぱたりと止まった。

 

「まあ。……あの、それは」

 

「わたくしの空白は、余興ではございませんの」

 

 声は張らない。礼の角度も崩さない。それでも広間のざわめきが、水を打ったように引いていった。

 

「あら、でも」と、夫人の後ろのどなたかが扇の陰で仰る。「本当に何もかもお忘れなのか、皆様それはご心配で……ねえ、ほんの少しだけ、その」

 

 喉の奥で、言葉が一拍、止まる。

 

 いつもの癖である。意見は、一拍飲んでから。飲んで、微笑んで、扇を揺らして――七年、そうやって参りました。誰のための一拍だったかは、もう空白であるけれど、癖だけは律儀に居残っている。

 

 ……いいえ。

 

 癖は、私のものである。私のものなら、私がやめられる。

 

「――いいえ、申し上げますわ」

 

 一拍の代わりに、まっすぐ声が出た。

 

「悪趣味ですのよ、それ」

 

 扇の陰の気配が、ひゅっと縮む。夫人は三つ数えるほど固まって、それから、存外あっさりと胸元へ手を当てた。

 

「……おっしゃる通りだわ。今夜の余興は取りやめ。皆様、あとはただの夜会ですのよ」

 

 好事家というものは、引き際まで好事家であるらしい。悪びれない撤収の号令で、広間に音楽が戻ってきた。

 

        ◇

 

 人いきれを避けてバルコニーへ出ると、先客の影がひとつ。

 

 薄紅のドレスの、若い令嬢である。私の顔を見るなり幽霊にでも会ったように青ざめて、それから、意を決したふうに腰を折った。

 

「あの……ベアトリクスと申します。あの夜は……あの、フェルゼン様には、なんとお詫びを申し上げればよいか」

 

 あの夜。お詫び。この青ざめ方。――ああ、と腑に落ちる。破棄の夜、あの殿方の腕に飾られていた令嬢である。お顔も、目の泳ぎ方も、はっきり覚えている。あの晩の大広間で消えずに残っているものの、なんと多いことか。

 

「お詫び、と仰いますと?」

 

「わたくし、何も聞かされていなくて、ただ、お連れとして立てと言われて立っただけで……それでも、結果として、その」

 

「あなたが謝る理由も、ございませんでしょう」

 

 令嬢の睫毛が、ぱちりと上がる。

 

「謝る理由のない方が謝っている姿は、悪趣味な余興より、よほど見ていられませんのよ。……どうぞ、お顔をお上げになって」

 

 それから少しだけ、他愛のない話をした。彼女は音楽がお好きで、殿方の腕の飾りでいるより、楽譜台の隣にいるほうが息が楽なのだそうだ。結構なことである。息の楽な場所は、ご自分の胸に訊いて選ぶに限る。

 

「お互い、次は、もっと良い夜会でお会いいたしましょうね」

 

 令嬢は頬に薄紅の色を取り戻し、深い礼を残して戻っていった。その背筋が、来たときよりずっと伸びている。

 

 入れ替わりに、聞き慣れた無愛想が広間から出てきた。

 

「公爵様。夜会は、お嫌いなのでは?」

 

「嫌いだ」

 

 公爵は手すりに肘を置き、広間の灯りを一瞥する。

 

「……だが、今日のは悪くなかった。余興が一つ、潰れたぶんだけな」

 

「まあ。ご覧になっていらしたの?」

 

「柱の陰というものは、どこの屋敷にもある」

 

         ◇

 

 ヴィンターベルク公爵邸、家令ヨストの覚え書き。閣下はこの秋、お嫌いのはずの夜会へお運びになること、すでに二度。天変地異の前触れと見て、屋根の雨漏りを見回らせた。加えて本日、近ごろ歌劇場によくお笑いになるお客がおいでだそうで、と水を向けたところ、「知らん」と仰せである。お答えまでの間が、常より二拍長い。備えあれば憂いなし、と心得る。

 

       ◇

 

 帰邸すると、居間で父が、一通の書状を胸に抱え、便箋より白い顔をしていた。

 

 ザイフェルト侯爵家からの、正式の申し入れである。曰く――両家の縁の回復のため、しかるべき席を設けたい。ついては〈復縁の儀〉の執り行いについて、ご相談申し上げたし。

 

「ふ、復縁の儀とは、また、大時代な……」

 

「あら。初対面の方と、復縁ですの?」

 

 斬新なお話である。世の中には、まだ私の知らない演目があるらしい。

 

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