「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~   作:aquali

9 / 22
9. 縁を結んだ覚えがございません

 会談の朝、父は卵を三度落とした。

 

 匙から、である。

 

「お父様。卵に罪はございませんのよ」

 

「わ、分かっている。分かっているが……」

 

 父は匙を置き、この十日でめっきり白髪の増えた頭を抱えた。

 

「カロリーネ。父はな、いまでも時々、思ってしまうのだ。あの夜会さえなければ、と。いや……その、何もかも、なかったことにできるものなら、と……」

 

「――あなた」

 

 母が静かに、けれどはっきりと、茶器を置いた。

 

「なかったことにする道は、もう、この世のどこにもございませんのよ。あるのは、これからの話だけ」

 

「……うむ。分かって、おる」

 

 父を責める気には、なれないのである。格上の侯爵家との縁組みに、この人は七年、頭を下げ続けてきた。釣り合わぬ縁を保つというのは、下げるほうの首が擦り切れる仕事である。その七年が一夜で解けて、解いたのが実の娘とくれば――卵の三つや四つ、落としもしよう。

 

 だからせめて今日の席では、娘がしゃんとしているに限るのである。

 

       ◇

 

 会談は、うちの応接間で開かれた。長机の向こうに侯爵様と、仕立ての良い殿方がお一人。こちらに父と母と私。窓際の時計が、素知らぬ顔で時を刻んでいる。

 

 殿方は、真珠の襟留めに見事な刺繍と、本日も隙のない支度である。お顔に見覚えはないけれど、この席次と成り行きから察するに、例の元婚約者どのであるらしい。

 

「本日まかりこしたのは、他でもない。両家の縁の回復について――」

 

 侯爵様の口上は、格式が高く、そして長い。要するに、先代同士の誓いと両家の外聞に鑑みて、しかるべき形で縁を戻したい、というお話である。

 

 口上が終わるが早いか、殿方が身を乗り出した。

 

「カロリーネ。七年だぞ。七年の積み重ねを、無にする気か? 俺たちの間には、それだけのものがあったはずだ。だろう?」

 

「復縁、と仰いますけれど」

 

 私は膝の上で手を重ね、まっすぐにお答えする。

 

「わたくし、あなたと縁を結んだ覚えが――文字どおり――ございませんの」

 

「なっ……」

 

「覚えのない縁を戻せと仰られましても、困りますのよ。落とした覚えのない指輪を、井戸の底から引き上げてまいれ、というお話ですもの」

 

「へ、屁理屈を……! おまえが忘れようとどうしようと、七年の事実は消えん。そうだろう?」

 

 だろう、を二度も頂戴した。同意の返事だけを受け取る形の、あの器用な問いである。以前の私は、これに七年、うなずき続けたのだろう。その証拠に、首の付け根がいまも、うっすらと動きたがっている。

 

 うなずくのは、癖のほう。癖は私のもの。私のものなら――動かさずに、いられる。

 

 私は、うなずかなかった。

 

「事実は、消えませんわ。ですからわたくしも、事実だけを申し上げておりますの」

 

 長い沈黙ののち、侯爵様が低く咳払いをなさった。

 

「……本日は、平行線じゃな。だが伯よ、この話、これで仕舞いにはできん。できん理由も、当方にはある」

 

 帰りしな、侯爵様は一度だけ、私をご覧になった。値踏みの目ではない。古い、疲れた、それでいて退く気のまるでない目である。あのお方は、祖母の通告をお聞きのはずなのだ。魔法の理屈を知ってなお推してくるからには、あちらには、魔法より硬い何かがあるのだろう。

 

       ◇

 

 夜は、週の観劇である。

 

 幕間の柱の下で、私は今夜の演目を、常になく口早に斬っていた。

 

「だいたい、三幕の伯爵ですわ。娘の返事も聞かずに婿を決めて、決めた相手の家柄を並べて自慢して――順序というものがございますでしょう? 縁談は帳簿ではございませんのよ。頭数が揃えば釣り合う、というものでは――」

 

「今日は、演目の話ではないな」

 

 図星である。

 

 公爵は柱に背を預けたまま、遮らず、急かさず、ただ聞いていらした。私が言い終わるのを待って、果実水の売り場を親指で示す。

 

「待っていろ。……ここの果実水は、(だいだい)を皮ごと搾るのがいい。渋みが入る。甘いだけの飲み物は、腹の立った日には効かん」

 

 手渡された杯に、口をつける。甘さの後ろから、皮の渋みとほのかな苦みが、きゅっと追いかけてくる。腹の立った日の味、というのは本当だった。二口目には口早の理由まで一緒に流れていって、私はようやく、いつもの速さで息をつく。

 

「……効きましたわ」

 

「そうか」

 

「今夜の三幕の伯爵は、四幕でどうなりまして?」

 

「ああいう手合いは、四幕で必ず娘に負ける。昔からそう決まっている。……安心して観てこい」

 

 この方は、芝居の話しかなさらない。芝居の話だけで、今夜の私に要るものを、全部よこしてくるのである。

 

       ◇

 

 帰邸すると、玄関の燭台の下で、父がまた書状を握りしめていた。封蝋は、ザイフェルト侯爵家の紋である。十日ののち、あらためて席を設けたい、との由。末尾に、短く一行。

 

 ――先代同士の約束状を、持参いたす。

 

「や、約束状は、その、確かにあるのだ。先代同士の、正式な取り交わしが……」

 

 父の顔色が、便箋より白い。

 

 約束状。あいにく、存じませんわね。けれど父のこの顔色だけで、あちらの「魔法より硬い何か」の正体の、およその見当はつく。

 

 紙の縁と、糸の縁。どちらが強いか、拝見いたしましょう。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。