夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
生きて出勤する、というのは、当たり前のようでいて、当たり前ではない。少なくとも、昨日まで幽霊だった者には。
朝の花市は、私を見て、二度沸いた。一度目は悲鳴、二度目は大笑いである。
「あんた、生きて――いや、お待ちよ。てことは、あれかい? 白い影も、墓前の花も、みんな」
「わたくしですわ」
「お祓いのときも?」
「祓われておりましたわね」
ペトロネラは腹を抱え、帳場を叩き、天井へ向かって吠えた。
「道理で! うちの幽霊が達筆なはずだよ!」
種明かしというものは、王都いちばんの演し物らしい。花市は幽霊見物ならぬ「元幽霊見物」の客でごった返し、白い花は三たび品薄になった。生きていても、商売の種である。故人時代より、繁盛の質が明るい。
「達筆さん、あんた昨日の大聖堂の――」
「ええ、その達筆ですわ。お花はいかが?」
「三束おくれ! 家宝にする!」
家宝になる花束を、私は生まれて初めて束ねた。生花の家宝は、十日で枯れると思う。思うけれど、商いの妨げになるので、黙っておく。
人だかりの中から、見覚えのある丸い姿が進み出た。老男爵夫人である。
「あなた……遠縁どころじゃ、なかったのねえ」
「お騙ししましたわ。ごめんあそばせ」
「いいのよう。道理でねえ、と思っただけ」
老夫人は、ころころと笑った。
「わたくし、申し上げましたでしょう? 血は争えないわねえ、って」
「ええ。……お目の高いことですわ」
次はもっと湿っぽくない話を、の宿題は、これで果たせたことになる。故人の語る故人の話より湿っぽくない話は、生きて立っている本人をおいて、ほかにないのである。
◇
昼、人だかりの切れ目に、見覚えのある外套が立った。
叔父である。性懲りもなく、である。
「ヴェロニカ。い、生きていたのなら、話は別だ。後見の恩というものをだな――」
「あいにく、生きておりますの」
私は帳場から、まっすぐに申し上げた。
「生きている女は、覚えておりますのよ。――四年前の食卓も、支度金も、後見の帳尻も、みんな」
帳尻、のところで、叔父の顔色が変わった。ヴェンツェル先生の卓に載った、あの古い綴りを思い出したらしい。覚えている女と、数えてある帳面。この取り合わせほど、後ろ暗い人によく効く薬はない。叔父は何かもごもごと言い、帽子を
見送って、気づいた。手が、震えていない。
秋の事務所の前では、震えた手である。あのときの震えは四年遅れの湯気だったけれど、今日はもう、沸かすものが残っていないらしい。怒りというものは、記憶と一緒に胸へ仕舞って、要るときだけ取り出せばいい。取り出し方を覚えた女は、もう、震えないのである。
◇
午後、石屋が請け書を持ってきた。北の丘の、あの白大理石の始末である。宙に浮いた墓は今、名義上私の物になっている。
「打ち壊しますかい?」
「まさか。よい石ですもの」
私は帳場で、指図を書いた。表の名を磨き直して、彫り直す。ウルズラ、と。祖母は遠い領地の墓地に眠っていて、王都に墓標がない。ないのなら、あの上等の石を差し上げればいいのである。
「磨き直して、祖母に差し上げますわ。……お花のご注文も、これまで通りに頂戴ね」
「へい。……妙な商売だねえ、こりゃ」
妙な商売である。自分の墓を祖母に譲り、その花を自分で束ねるのだから。けれど、あの石の下で偲ばれるべき名前は、最初からひとつしかなかったのだ。釘一本の条項で孫娘を守り抜いた人に、上等の石のひとつくらい、遅すぎる恩返しにもならない。
◇
夕方、風のようにロザリンデ嬢が来た。上等の外套――ではなく、袖当てをつけた、帳場の出で立ちである。
「父に
「まあ」
「ヴェロニカ様の、真似ですの」
胸を張って言うものだから、笑ってしまった。娘の「調べ」を半信半疑で聞いていた父君は、いまや娘の目利きの、いちばんの信者だそうである。駒にしておくには惜しい、とあの日思った娘は、自分の足で、駒の盤から降りたのである。
「ときに、ヴェロニカ様。商いのご相談は、これからも花市の帳場でよろしくて?」
「ええ。達筆と算盤なら、いつでも承りますわ」
帳場と帳場の付き合いは、これからが本番である。
――店じまいの刻限に、見知った足取りが帳場へ寄った。今日は、書類の鞄がない。手ぶらの子爵様というのは、めずらしい。
「明日、お時間を。……予定帳に、書いておいていただけますか?」
「あら。ご用件は?」
「明日、申し上げます」
用件を言わない予定は、初めてである。私は手帳を開き、明日の行に『バルドゥイン様』とだけ書いた。用件の欄は、空けておく。埋めるのは、明日のあの人である。