夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
初夏の〈山査子の家〉の庭が、本日、内輪の婚礼の式場である。
朝、ズザンネが髪を結ってくれた。四年の別邸で、幾百回と結ってもらった手つきである。同じ手つきなのに、鏡の中の顔が違う。頬に色があって、目が上を向いていて、こらえきれない笑いが口の端に溜まっている。ズザンネは櫛を持ったまま、三度泣いて、三度笑った。
「奥様。……いえ、今日からまた、奥様ですなあ」
「ややこしい身の上ですこと」
生垣の山査子は白い花の盛りで、風が吹くたび、小さな花びらが庭へ散り込む。花嫁の頭上に散るぶんには、花代は要らない。庭の花には、そういう得がある。
執り行うのは、司祭ザハリアス。参列は、ズザンネ、ペトロネラ、ロザリンデ嬢、それにヴェンツェル先生。義理のお客はひとりもいない。全員、予定帳の中の人たちである。
誓いの口上の前に、老司祭が咳払いをひとつ落とす。
「わたしは五年前、この花嫁の婚礼を執り行いました。……このたび、やり直しを仰せつかりまして。四十年の勤めで、初めてのことです」
「先例がございませんの」
「ええ。ですから、今回を先例にいたします」
誓いの間、私は最初から最後まで、顔を上げていた。上げたまま、たぶん、ずっと笑ってもいたと思う。隣の生真面目な人は、誓いの言葉だけは一度も噛まず、そのあとの「誓いの口づけを」で盛大に固まった。ズザンネが泣き、ペトロネラが野次を飛ばし、ロザリンデ嬢が花びらを投げる。五年前の、義理でできた静かな婚礼の、ちょうど裏返しである。
祝いの席は、庭に卓を出しただけの、鍋と焼き菓子の宴だった。菓子は二皿。焦げたのと、焦げていないのと。取り分けの順で小さな取り合いが起きるくらいには、どちらも好評である。ペトロネラは祝いに店いちばんの白薔薇を抱えてきて、「野の花が好みなんだろ? 知ってるよ。でも祝いは別だ」と胸を張った。別である。祝いの花は、貰う側の好みより、贈る側の勢いで受け取るものなのである。
ロザリンデ嬢の祝いは、商会仕込みの上等な帳面と、硝子のインク壺だった。新しい予定帳に、と思って、だそうである。目利きの娘は、贈り物まで目利きである。
◇
婚礼が済んでも、花市の帳場は続く。
「子爵夫人が、帳場ですか?」
物見高い客が聞くから、いつも通りに答えておく。
「ええ。達筆ですので」
ペトロネラに至っては「子爵夫人に給金を払う店は、王都でうちだけだよ」と、かえって自慢の種にしている。帳場に達筆と算盤さえ立てば、幽霊でも子爵夫人でも構わない店なのである。いい店に、勤めたものである。
◇
夏の初めのある日、領地から一通の文が届いた。
差出人の名は、ない。ないけれど、語尾の濁った、覇気のない字で分かる。詫び状である。石の詫びでも金の詫びでもなく、初めての、言葉の詫びである。
読んで、畳んだ。抽斗の奥ではなく、文箱の底へ、しまう。
それきりである。返事は書かない。赦しもしない。恨みも、もうしない。あの人はあの人の領地で、弁済の帳面と生きていけばいい。私は私の帳場で、仕入れの帳面と生きていく。帳面と帳面、それだけの距離が、ちょうどいいのである。文箱の蓋は、軽い音で閉まる。抽斗のような、嫌な音はしない。
◇
午後の帳場に、よそから来たらしい客が立った。声をひそめて、聞いてくる。
「時に、ご主人。ここに、亡き伯爵夫人の幽霊が出るというのは、真実で?」
「あいにく、故人ではございませんの」
「……は?」
「幽霊でしたら、廃業いたしましたの。いまは生者が、達筆を承っておりますわ」
満面の笑みの私に、客は狐につままれた顔で、それでも白い花をひと束買って帰った。幽霊の噂の寿命は、そろそろ尽きる。尽きたあとに残るのは、花のよく売れる、賑やかな帳場だけである。それで、いいのである。
店じまいの帳場に、日傘が寄った。畳んで、杖のように突いている。
「奥様、昼食のご予定は?」
「ございますわ」
私は帳面を閉じ、前掛けを外して、笑った。
「あなたと。ふふっ」
丘の下の食堂は、今日も豆のスープが評判である。初めて誘われた昼と同じ席、同じ湯気の向こうに、同じ生真面目な顔がある。違うのは、帳場へ戻る刻限を気にしなくていいこと――いえ、気にはするのである。何しろ、午後の仕入れがある。子爵夫人は、王都でいちばんの達筆なので。
◇
夜、卓の上で、古い予定帳を閉じた。
弔いの日付で始まり、未来の日付で埋まって、最後の頁まで使い切った一冊である。ご苦労さま、と柄にもなく声をかけて、棚のいちばんいい場所へ仕舞う。
それから、新しい一冊の、まっさらな最初の頁を開く。
インクをつけて、明日の日付を、ひとつ。
書きたい日付だけを書く帳面に、書きたいことは、これから、いくらでもあるのである。