一九三二年七月
各支社、取引先、協力工房および従業員居住地域から提出された暴行、投石、脅迫、放火、略奪その他の報告について、以下の要領で整理する。
一、国籍別に分冊しない。
二、宗教別に分冊しない。
三、被害者および加害者の所属は、確認できた場合のみ記載する。
四、当事者による自称と、第三者による分類を区別する。
五、警察、行政および裁判所が事件を認定しなかった場合も、報告そのものは廃棄しない。
六、事実関係が確定しない場合は、確定しないまま残す。
七、写しを三か所へ保管する。
整理担当者は、報告書を国別に分けない理由を質問した。
経営部は、
「原因が別であると確認できるまでは、同じ綴りへ入れろ」
と回答した。
整理担当者は、
「同じ原因であるとも確認できません」
と指摘した。
経営部は、
「だから分けるな」
と再回答した。
騒動から三週間。
門は直った。
窓も直った。
食堂の机は元の位置へ戻された。
赤い麻袋の不足分は補充された。
黄色い麻袋は、通常の食料配送へ戻った。
緑の麻袋は、武器庫から一つも出なかった。
外から見れば、WILKは平常へ戻りつつあった。
煙突から煙。
格納庫から発動機音。
木箱部門の鋸。
食品棟の蒸気。
印刷室の機械音。
人々は出勤し、昼食を取り、帰宅する。
ただし帰宅は一人ではなかった。
同じ通りの者がまとまる。
遠回りでも明るい道を選ぶ。
顔を隠した集団を見れば、道を変える。
誰もが夜を警戒している。
警戒しているため、夜へ出る者が増えた。
夜へ出る者が増えたため、さらに警戒する者が増えた。
町は、自分自身を見張っていた。
WILKの会議室には、各地から届いた報告が積まれていた。
紙質は違う。
言語も違う。
書式も違う。
だが内容は似ている。
窓を割られた。
帰宅途中に囲まれた。
商店へ印を付けられた。
職場を追われた。
近所から立ち退きを求められた。
警察へ届けた。
記録されなかった。
裁判所へ申し立てた。
証拠不十分とされた。
行政へ相談した。
当事者同士で解決するよう言われた。
元ドイツ軍技術者は、報告書の束を高さごとに分けていた。
薄い束。
窓、看板、投石。
中くらい。
暴行、脅迫、仕事の喪失。
厚い束。
放火、略奪、失踪。
ポーランド軍将校が見る。
「何をしている」
「被害の大きさで分けている」
元独立運動家が首を振る。
「窓一枚から始まることもある」
「では日付順にする」
ユダヤ人実業家が言った。
「場所も必要です」
元白軍将校が答える。
「場所で分けるなと決めた」
「分けずに索引を作ります」
「紙が増える」
ポーランド軍将校がぼやく。
元ドイツ軍技術者が顔を上げた。
「紙を惜しんで何を残す」
ポーランド軍将校は言い返さなかった。
最初に、自分の過去を話したのはユダヤ人実業家だった。
きっかけは、一枚の報告書。
国外支社と取引のある小さな衣料品店。
夜間に窓を割られ、商品を持ち去られた。
警察は、
暴動に伴う一般的な窃盗。
と記録した。
店主は、店内へ残された文字を報告書へ添えた。
出ていけ。
ポーランド軍将校が言った。
「ただの窃盗ではない」
ユダヤ人実業家は紙を見ていた。
「窃盗でもあります」
「だが目的が」
「持っていける物は持っていくものです」
声は静かだった。
元独立運動家が彼を見る。
「経験があるのか」
ユダヤ人実業家は、しばらく答えなかった。
それから椅子へ深く座った。
「昔、家の近くに小さな店がありました」
誰の店かは言わない。
自分の家族か。
親類か。
知人か。
五人は尋ねなかった。
「最初に窓が割れました」
外から石。
一枚。
その夜は、それだけだった。
翌朝、店主は板を打った。
翌々日。
板へ文字。
汚すな。
店主は消した。
その次。
客が減った。
常連は遠回りをする。
買い物をする者も、包みを服の下へ隠した。
そしてある夜、人が集まった。
最初は数人。
次に十人。
誰かが扉を蹴った。
誰かが止めた。
止めた者が殴られた。
店内へ入った者は、布。
靴。
砂糖。
秤。
金庫。
持てる物を持ち出した。
持てない物は壊した。
最後に火を付けた。
「警察は」
ポーランド軍将校が尋ねる。
「来ました」
「止めたのか」
「火がほとんど消えてから」
「犯人は」
「確認できないと」
「見ていた者がいるだろう」
「いました」
「では」
ユダヤ人実業家は笑った。
笑う内容ではなかった。
「目撃者は、暗くて顔が分からなかったそうです」
「名前を叫んでいた者もいたでしょう」
「聞こえなかったそうです」
「店主は」
「税金を滞納していました」
ポーランド軍将校が顔をしかめる。
「今、その話をしていない」
「役所はしました」
店は焼けた。
商品もなくなった。
家族の一人は、逃げる途中で倒れた。
寒い夜だった。
死因は暴行ではなく、低体温とされた。
建物が焼かれたことと、死は別件。
略奪と放火も別件。
誰も一つの事件として扱わなかった。
「燃えた建物は確認できなくても」
ユダヤ人実業家は言った。
「税金の滞納だけは確認できました」
会議室が静かになった。
元ドイツ軍技術者は、報告書を積む手を止めていた。
次に話したのは元白軍将校だった。
彼は窓の外を見ながら話した。
「私のところは、もっと分かりやすかった」
革命。
内戦。
赤い旗。
土地。
正義。
解放。
彼の生家が襲われた時、先頭にいたのは見知らぬ者ばかりではなかった。
近くの村の者。
雇っていた者。
馬を貸した者。
冬に穀物を渡した家族。
全員ではない。
助けた者もいた。
門を閉めた者。
裏口を教えた者。
子供を荷車へ隠した者。
だが、襲う側にも知った顔がいた。
「最初は、書類を持ってきた」
元白軍将校は言った。
接収命令。
誰が出したか分からない印。
武器を差し出せ。
馬を差し出せ。
穀物を差し出せ。
屋敷を人民へ返せ。
「断ったのか」
ポーランド軍将校が尋ねる。
「一部は渡した」
「それでも」
「次が来た」
最初の集団は、命令を示した。
二番目は、最初の集団が持ち去らなかった物を要求した。
三番目は、屋敷に武器を隠していると言った。
四番目は、反革命分子を匿っていると言った。
どれも別の集団だった。
どれも、自分たちが正当な権限を持つと主張した。
「最後は何を持っていった」
元独立運動家が尋ねる。
「人だ」
馬番。
料理人。
事務員。
元兵士。
家族。
連れていかれた。
尋問。
徴用。
処罰。
どの言葉を使うかは、連れていった側が決めた。
「最初は正義を叫ぶ」
元白軍将校は机へ指を置いた。
「その後は、持てる物を持っていく」
指を一度動かす。
「持てる物がなくなれば、人を持っていく」
ポーランド軍将校が尋ねた。
「どうやって逃げた」
「裏道」
「準備していたのか」
「していなかった」
近くの農民が教えた。
川沿い。
森。
使われていない納屋。
逃げる途中、荷車の車輪が壊れた。
荷物を捨てた。
家財。
書類。
銀器。
衣服。
先祖の肖像。
何を捨てるかで揉める時間はなかった。
「最後に何を残した」
ユダヤ人実業家が尋ねる。
元白軍将校は答えた。
「名簿」
「持って出たのですか」
「燃やした」
全員が彼を見る。
「捕まった時に、使用人と家族の行き先が分からないようにした」
「では誰が逃げたか」
「私の頭に入れた」
「全部」
「全部だ」
元白軍将校は、現在WILKで使われている従業員名簿を見る。
「頭は撃たれれば終わる」
彼は言った。
「紙は燃える」
「だから、両方要る」
元ドイツ軍技術者は、自分から話し始めなかった。
一枚の報告書を何度も読み返していた。
ドイツ国内の協力工場。
不況下で夜勤を続けていた。
外国資本の犬。
裏切り者。
敗戦で利益を得た者。
窓を割られた。
職長が殴られた。
警察は労使間の衝突と記録。
翌週、工場は操業を一時停止した。
その報告書の下に、別の紙。
停止した工場へ、以前投石した者の一人が求人を求めて訪れた。
「知っている話か」
元独立運動家が尋ねる。
元ドイツ軍技術者は紙を置いた。
「似た話だ」
戦後。
敗戦。
工場へ戻った時、門前に人がいた。
兵士。
失業者。
元職工。
政治団体。
彼らは、敗北の原因を探していた。
前線の兵士ではない者。
武器を作った者。
作り方を変えた者。
外国語を話す者。
新しい機械を導入した者。
旧式設備を捨てた者。
誰でもよかった。
「私は設計室にいた」
彼は言った。
「だから、前線のことを知らないと言われた」
別の者には、
武器を作ったのだから戦争を長引かせた。
と言われた。
さらに別の者には、
十分な武器を作らなかったから負けた。
と言われた。
同じ日に。
同じ門の前で。
「どちらが正しい」
ポーランド軍将校が尋ねる。
「どちらも、私を殴るには十分だった」
笑わなかった。
工場へ石が飛んだ。
旋盤の窓。
工具室。
完成品倉庫。
中へ入った者が、一台の旋盤を倒そうとした。
倒れない。
台座へ固定されている。
なら壊す。
送りねじ。
刃物台。
主軸。
油差し。
壊せる場所を壊した。
「翌週、その男が来た」
元ドイツ軍技術者は言った。
「仕事を求めて」
ポーランド軍将校が眉を寄せる。
「自分で壊した工場へ?」
「旋盤を壊したのは怒りのためだ。仕事を求めたのは生活のためだ。本人の中では別の話だった」
「雇ったのか」
「工場は動かなかった」
壊れた主軸。
割れた窓。
持ち去られた工具。
注文停止。
資金不足。
雇う仕事そのものがなかった。
男は門前で、
裏切り者どもが仕事を隠している。
と叫んだ。
「自分で壊したのに」
ポーランド軍将校が言う。
元ドイツ軍技術者は答えた。
「壊した記憶が、その男の中でどうなったかは知らん」
彼は、WILKの整備記録用紙を一枚取った。
「機械は壊れた箇所を隠さない」
油が漏れる。
軸が振れる。
歯が欠ける。
測れば分かる。
「人間は違う」
紙を机へ戻す。
「自分で壊した箇所を、自分の中から消せる」
元独立運動家は、三人の話を聞いていた。
その顔には驚きがなかった。
「私は、捕まった回数を正確に覚えていない」
ポーランド軍将校が彼を見る。
「そんなに多いのか」
「記録がない」
「自分では」
「移送の途中と、釈放と、脱走の区別が曖昧だ」
若い頃。
独立運動。
地下組織。
印刷物。
武器。
密告。
逮捕。
牢。
尋問。
移送。
逃亡。
別名。
別の町。
また逮捕。
「誰に売られた」
元白軍将校が尋ねる。
「いろいろだ」
金のため。
脅されたため。
家族を守るため。
自分の罪を軽くするため。
以前から嫌っていたため。
理由は一つではない。
密告した者が、後になって助けを求めてきたこともあった。
「助けたのか」
「一度は」
「なぜ」
「その時は、そいつの子供も一緒だった」
元独立運動家は話を続けた。
拘束された場所の一つには、正式な名称がなかった。
警察署ではない。
軍施設でもない。
倉庫。
地下室。
使われていない役所の一室。
「記録は」
ポーランド軍将校が尋ねる。
「ない」
「逮捕状は」
「ない」
「釈放記録は」
「ない」
「では、拘束された証明が」
「ない」
何日いたか。
誰に殴られたか。
誰と一緒だったか。
外へ出た時、誰が残っていたか。
全部、本人たちの記憶だけ。
行政へ申し立てても、
その施設での拘束記録は存在しない。
と返された。
「記録がない拘束は」
元独立運動家は言った。
「何度でもできる」
同じ人間を。
同じ場所で。
別の名目で。
存在しなかったことにして。
「だから記録を残す」
ポーランド軍将校が言った。
元独立運動家は彼を見る。
「記録があっても、無視される」
「それでも残す」
「裁判所が読まなければ」
「次が読む」
「次も読まなければ」
「その次だ」
元独立運動家は少し笑った。
「軍人らしくないな」
ポーランド軍将校は答えた。
「軍も記録で動く」
元白軍将校が口を挟む。
「軍は都合の悪い記録をなくす」
「だから複製する!」
四人が話し終えた後、視線がポーランド軍将校へ集まった。
「私は」
彼は言いかけた。
止まる。
彼の過去にも戦争はあった。
混乱も。
敗北も。
命令の不備も。
だが、他の四人が話したような経験を、自分のものとして語るのは違う気がした。
彼は行政と軍を信じていた。
完全ではない。
失敗する。
遅れる。
腐敗もある。
それでも、制度を作り直せば対応できると思っていた。
騒擾の後も、最初に考えたのは手続きだった。
警察の増員。
夜間巡回。
集会許可条件。
武器携行禁止。
損害申告。
被害者補償。
「制度で止められると思っている」
元白軍将校が言った。
「止めるための制度だ」
「制度を使う者が、止めたくなければ」
「監督する」
元独立運動家が尋ねる。
「誰が」
「別の機関が」
「その機関も止めたくなければ」
ポーランド軍将校は苛立つ。
「なら何もできんだろう!」
ユダヤ人実業家が静かに答えた。
「何もできないとは言っていません」
「では」
「制度が助けるまで、生き残る仕組みが必要です」
その言葉で、会議の目的が変わった。
暴力を止める方法ではない。
止まらなかった場合に、人を残す方法。
元ドイツ軍技術者が黒板へ書いた。
一つの故障で、全部を失わない。
Bizonの設計で何度も使った考え方。
燃料槽を分ける。
配管を分ける。
発動機架を交換できるようにする。
片方の発動機で、降りる場所を選べるようにする。
脚が壊れても、腹で受ける。
武装を外して荷物を載せる。
荷物を捨てれば、さらに飛べる。
完全ではない。
だが選択肢が残る。
ユダヤ人実業家が、その下へ項目を書き足した。
家族名簿。
住所。
緊急連絡先。
本人確認書類。
賃金記録。
雇用証明。
健康記録。
子供の学校。
避難先。
ポーランド軍将校が言った。
「個人情報を増やしすぎるな」
元独立運動家が答える。
「一か所へ集めなければよい」
元白軍将校が黒板へ線を引く。
本社。
支社。
国外保管。
本人。
家族。
信頼できる第三者。
「全員が全部を持つな」
「分割するのか」
「捕まった一人から全部が漏れないようにする」
ポーランド軍将校が顔をしかめた。
「諜報組織ではない」
元独立運動家が答える。
「逃げる人間の名簿を作るなら、似たものになる」
「逃げる前提にするな」
元白軍将校が彼を見る。
「門の補強を今後使う前提にするなと言ったのは誰だ」
ポーランド軍将校は黙った。
現金。
会社の金庫だけではない。
少額を分散。
国外支社。
協力商店。
信頼できる職工組合。
教会。
慈善団体。
個人。
一人が持ち逃げしても、全部はなくならない。
食料。
黄色い麻袋。
通常配送の中へ混ぜる。
非常用だけを大きな倉庫へ積めば、奪われる。
パン。
粉乳。
乾燥チーズ。
塩。
水の容器。
同じ規格。
どの支社でも使える。
輸送。
二輪台車。
荷車。
鉄道。
民間トラック。
航空機。
一つの経路が閉じた場合の代替。
元ドイツ軍技術者が言った。
「Bizonで人を運ぶ場合、荷物を減らす」
ポーランド軍将校が答える。
「勝手に国外へ飛ばすな」
「国内移動にも使う」
「飛行許可が」
元独立運動家が言った。
「許可が出ない時の話をしている」
「無許可飛行を計画書へ書けるか!」
ユダヤ人実業家が間へ入る。
「計画書には、緊急輸送と書きます」
「同じだ!」
元白軍将校が言った。
「飛ぶかどうかは、その時の操縦者が決める」
ポーランド軍将校は頭を抱えた。
「選択肢を残すだけです」
ユダヤ人実業家が付け加えた。
「選ばせるなとは書けません」
「選ばせるなとは言っていない!」
「では残します」
いつもの会議に少し戻った。
誰も笑わなかったが、声の調子だけは以前と同じだった。
避難先。
国外支社の宿舎。
農村の倉庫。
修理工場。
冷蔵施設。
学校。
老人施設。
WILKが飛行機以外へ手を広げた結果、各地に人を置ける場所があった。
以前は、
飛行機会社がなぜ宿舎を持つ。
と問われた。
今は、その宿舎が逃げ場所になる。
なぜ食品倉庫を持つ。
今は食べられる。
なぜ印刷室を持つ。
今は名簿と証明書を刷れる。
なぜ台車まで共通化する。
今はどこでも負傷者を運べる。
ポーランド軍将校は一覧を見た。
「最初から、このために作ったように見える」
元ドイツ軍技術者が答えた。
「違う」
「分かっている」
「必要になった時、使えるだけだ」
ユダヤ人実業家が言った。
「会社とは、平時には余計な物を抱えているように見えるものです」
元白軍将校が鼻で笑う。
「戦時には足りない」
「戦時ではありません」
ポーランド軍将校が反射的に言った。
今度は、誰も「まだ」と返さなかった。
その沈黙の方が重かった。
国外から届く報告は、夏になっても減らなかった。
フランス。
外国人労働者を守るとした店主が、商売を妨害された。
翌週、店主は保護を取り下げた。
警察は営業上の判断と記録。
英国。
移民商店への投石事件で少年二名を拘束。
一人は被害商店の常連客の息子。
本人は友人に誘われただけと供述。
父親は、
息子は政治に興味がない。
と主張した。
ドイツ。
労働者同士の街頭衝突。
負傷者多数。
警察は片方の集会のみ解散。
もう片方は秩序維持へ協力した団体として報告。
翌月、その団体は会員を増やした。
アメリカ。
食料配布所周辺の自警組織が、列の整理を始めた。
最初は割り込み防止。
次に受給資格確認。
その次に、誰を地域住民と認めるかを決め始めた。
ベルギー。
国外企業との取引を理由に、工房の契約が打ち切られた。
打ち切った会社は翌月、同じ部品を別の国外企業から購入。
価格は高かった。
理由は記録されていない。
スウェーデン。
反外国企業集会の主催者が、WILK製冷蔵機を使う食堂で会合を開いた。
現地製であるため問題ないと説明。
食堂の看板にはWILKの名があった。
翌週、看板だけ外された。
機械は使われ続けた。
元ドイツ軍技術者は言った。
「看板を外せば、機械は外国でなくなるらしい」
ポーランド軍将校が答える。
「便利だな」
元白軍将校が報告書を閉じた。
「人間の看板も外せればよいが」
誰も続けなかった。
一九三二年の終わり。
町の夜間暴行は減った。
自警団も表向きは解散した。
商店の窓板も一部外された。
工場門前の警察配置も縮小。
新聞は、
地域秩序は回復しつつある。
と報じた。
秩序は回復した。
信頼は戻らなかった。
人々は、誰がどちら側にいたかを覚えている。
正確にではない。
自分に都合のよい形で。
殴った者は、守ったと覚えた。
殴られた者は、獣を見たと覚えた。
見物していた者は、自分が止めようとしたと覚えた。
逃げた者は、家族を守るためだったと覚えた。
煽った者は、民衆の声を代弁しただけと覚えた。
警察は、最小限の被害で収束させたと報告した。
行政は、重大な制度上の不備は確認できないと結論した。
全員が、自分の内部へ安定を取り戻した。
その安定は、他者を外へ押し出すことで作られていた。
一九三三年。
街頭の暴力を終わらせると約束する者が増えた。
演説は明快だった。
仕事を戻す。
商店を守る。
家族を守る。
国を立て直す。
不当な暴力を禁じる。
混乱を終わらせる。
敵を取り除く。
最後の一項だけが、演説ごとに違った。
外国人。
共産主義者。
資本家。
労働組合。
宗教団体。
少数民族。
敗戦の責任者。
国家の敵。
地域の裏切り者。
誰を入れても、文章は成立した。
人々は疲れていた。
夜に顔を隠した集団が歩くことへ。
誰が先に殴ったか分からない争いへ。
警察へ届けても何も起きないことへ。
自分の家族が次に狙われるかもしれない不安へ。
だから、
暴力を終わらせる。
という言葉を歓迎した。
その後ろに、
暴力を使う権利を、一つへ集める。
という意味があることを、考えない者もいた。
考えていても、自分の側へ使われると思った者もいた。
WILKの会議室。
各国の政治報告が並べられた。
ポーランド軍将校が一枚を読む。
「暴動を止めると言っている」
元独立運動家が答えた。
「誰を暴徒と呼ぶかも、彼らが決める」
元ドイツ軍技術者は別の紙を見る。
「工場を再稼働させるとも書いてある」
ユダヤ人実業家が尋ねた。
「誰の工場としてでしょうね」
元白軍将校は椅子へ背を預けた。
「こういう時は、口のうまい者がまとめる」
ポーランド軍将校が彼を見る。
「何を」
「恐怖だ」
元白軍将校は指を一本立てる。
「最初に暴力を止める」
二本目。
「次に、暴力を使える者を自分だけにする」
三本目。
「それから敵を作る」
元ドイツ軍技術者が尋ねた。
「敵は既にいるのでは」
「いる」
「なら作る必要はない」
「増やす」
会議室の外で、発動機試験が始まった。
以前より強い音。
新しい型。
高い出力。
試験担当者の歓声が聞こえる。
工場は明るくなりつつあった。
軍の問い合わせが増える。
修理契約。
輸送機。
偵察機。
武装。
飛行場設備。
食品保存。
冷蔵輸送。
失業対策の名目で、工場拡張を求める声も出た。
一年前には、
WILKが仕事を独占している。
と叫んだ者たちが、今度は、
WILKへもっと仕事を出せ。
と行政へ要求している。
矛盾ではなかった。
人々が求めているのは、一貫した理屈ではない。
明日の賃金だった。
それを誰が用意するかが変わっただけ。
一九三四年。
ドイツでは、とある政党が国家そのものになろうとしていた。
他の国々でも、秩序を約束する政治家が支持を伸ばした。
街頭の制服は、少しずつ公的な制服へ近づいた。
私的な名簿は、行政の名簿へ近づいた。
店の窓へ書かれていた言葉が、演説台へ上がった。
演説台の言葉が、役所の書式へ入った。
誰を雇うか。
誰を住民と認めるか。
誰を移動させるか。
誰を監視するか。
誰の財産を凍結するか。
誰の集会を暴動と呼ぶか。
以前は、夜道で棒を持った者たちが勝手に決めていた。
今度は、印章を持つ者が決めようとしていた。
人々は、それを進歩と呼ぶことができた。
少なくとも、夜の襲撃よりは整然としていた。
書類がある。
担当者がいる。
命令系統がある。
制服がある。
責任者もいるように見える。
だが責任は、上へ行くほど薄くなった。
下の者は命令に従った。
上の者は一般方針を示しただけ。
役所は法律を適用した。
政治家は民意へ応えた。
民衆は選んだだけ。
誰も、自分が最初の石を投げたとは思わなかった。
WILKでは、避難用名簿の最初の更新が行われた。
家族構成。
住所変更。
緊急時の集合場所。
国外連絡先。
持病。
移動に補助が必要な者。
子供。
老人。
本人確認用の写真。
写しは三か所。
一部は暗号化。
一部は分割。
現金も分散。
食料も分散。
輸送手段も一つに頼らない。
ポーランド軍将校は最終欄へ署名した。
「これで足りるか」
元独立運動家が答える。
「足りない」
「何が」
「実際に逃げる訓練」
「工場を止めて避難訓練をするのか」
「火災訓練はする」
「暴徒避難訓練と書けるか!」
ユダヤ人実業家が言った。
「広域災害時退避訓練にしましょう」
元ドイツ軍技術者が頷く。
「鉄道停止も含める」
元白軍将校が付け加える。
「道路封鎖も」
「飛行場使用不能も」
「橋の破壊も」
ポーランド軍将校が机を叩いた。
「戦争準備ではないか!」
四人が彼を見る。
「違うのか」
元白軍将校が尋ねた。
ポーランド軍将校は答えなかった。
やがて、書類の題名を書き直した。
事業継続および従業員安全確保訓練。
元ドイツ軍技術者が読む。
「長い」
「お前たちが増やした!」
少しだけ、以前の会議の空気が戻った。
それでも窓の外では、新型発動機が回っている。
注文は増える。
技術は進む。
仕事は戻る。
工場は拡張される。
WILKにとって、後に黄金期と呼ばれる時代が近づいていた。
五人は、その黄金が何で磨かれるのかを、既に知り始めていた。
会議が終わった後。
ユダヤ人実業家は、各地の暴行記録を一つの箱へ入れた。
蓋を閉める。
箱の側面には、内容を示す文字。
一九三二年以降・地域騒擾および排斥記録。
元ドイツ軍技術者が言った。
「以降、と書くのか」
「終わっていませんから」
元独立運動家が窓辺に立つ。
「また始まったな」
ユダヤ人実業家は箱へ手を置いた。
「ええ」
元白軍将校が首を振る。
「始まったのではない」
三人が彼を見る。
外では、若い工員たちが新しい発動機の試験成功を喜んでいた。
拍手。
口笛。
誰かが帽子を投げる。
明るい声。
元白軍将校は、その音を聞いた。
「戻ってきた」
ポーランド軍将校は報告書を閉じた。
表紙には、治安回復。
経済再建。
雇用拡大。
国家秩序。
力強い言葉が並んでいる。
その下で、誰を排除するかを決める条文が増えていた。
人々は非合法な暴力を恐れた。
その結果、暴力そのものを拒んだのではない。
もっと安全な暴力を求めた。
自分が殴られない暴力。
自分の家族を守る暴力。
自分の仕事を増やす暴力。
自分の怒りを正しいものにする暴力。
そして、自分の手を汚さずに済む暴力。
暴力はなくならなかった。
ただ、書類を持つようになった。