WILK ―忘れずの故郷―   作:ヒツジ(ラム肉

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――WILK国外事業部・東地中海通商調査所設置案
一九三四年

黒海、バルカンおよび東地中海方面から調達可能な資源、農産物、燃料、工作機械について、トルコ国内に商業調査拠点を設ける案を提出する。

候補地。

イスタンブール。
イズミル。
メルスィン。

主な業務。

黒海および地中海航路の運賃調査。
船舶通過日数の記録。
バルカン、中東およびコーカサス方面の供給業者調査。
綿花、皮革、油脂、鉱石、穀物および木材の買付け。
石油製品、工作機械および化学原料の品質確認。
地中海側への貨物振分け。
食品、医薬品、燃料および汎用工具の小口備蓄。
船会社、鉄道会社、銀行および保険会社との連絡。

陸軍航空部は、

「ソ連に近すぎる」

と指摘した。

WILK社は、

「ソ連から遠い場所では、ソ連から出てくる物を調べられない」

と回答した。

陸軍航空部は、

「危険な場所へ支社を置くな」

と再回答した。

WILK社は、

「危険が近づいてから置く方が危険である」

と回答した。

航空部は、危険の定義を照会中である。


第110話 黒海の出口へ全部置くな

トルコ支社を作る話は、油から始まった。

 

航空発動機用ではない。

 

工作機械用。

 

発動機工場周辺へ導入された中古旋盤、研削盤、歯切盤。

 

それらの潤滑油の一部が不足していた。

 

英国製。

 

ドイツ製。

 

フランス製。

 

製造国ごとに指定油が違う。

 

輸入先も違う。

 

価格も上がっている。

 

ユダヤ人実業家は、机へ缶を並べた。

 

「同じ機械油ではないのか」

 

ポーランド軍将校が尋ねた。

 

元ドイツ軍技術者が缶を一つずつ指した。

 

「粘度が違う」

 

「混ぜれば中間になる」

 

「軍人はなぜ平均を好む」

 

「足りないのだろう」

 

「軸受が焼ける」

 

元独立運動家が缶を傾けた。

 

「どれかで代用できないか」

 

「試験する」

 

「なら混ぜる」

 

「勝手に混ぜるな」

 

元白軍将校が言った。

 

「油がなければ機械は止まる」

 

ユダヤ人実業家は別の資料を出した。

 

「黒海方面から、石油製品と機械油を調達できる可能性があります」

 

ポーランド軍将校が資料を見る。

 

「ルーマニアか」

 

「ルーマニアも」

 

「ほかは」

 

「ソ連」

 

部屋が静かになった。

 

元白軍将校が資料を取る。

 

「売るのか」

 

「売ります」

 

「止めるかもしれん」

 

「止めるでしょう」

 

ポーランド軍将校が顔をしかめた。

 

「なら頼るな」

 

ユダヤ人実業家は頷いた。

 

「頼りません。買います」

 

「同じだ」

 

「違います」

 

「どう違う」

 

「買える間だけ買い、買えなくなっても止まらないよう、別の供給元も持ちます」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「油の規格確認が要る」

 

「どこで」

 

ユダヤ人実業家は地図を広げた。

 

黒海。

 

ボスポラス海峡。

 

マルマラ海。

 

ダーダネルス海峡。

 

地中海。

 

「出口で」

 

イスタンブールの事務所は、支社というより商人の巣だった。

 

船会社。

 

保険会社。

 

銀行。

 

通関業者。

 

穀物商。

 

油商。

 

織物商。

 

鉱石仲介。

 

各国語の看板。

 

港には黒海から来た船と、地中海へ出る船が同じ水面に浮かんでいる。

 

ポーランド軍将校は窓から海峡を見た。

 

「ここを全部通るのか」

 

現地代理人が答えた。

 

「全部ではありません」

 

「黒海から出る船は」

 

「多くが」

 

「なら全部に近い」

 

「軍艦と商船では違います」

 

「今は商船の話だ」

 

元白軍将校は窓辺へ近づいた。

 

石炭船。

 

油槽船。

 

穀物船。

 

木材。

 

機械。

 

乗客。

 

「船を見れば国が分かる」

 

現地代理人が言った。

 

「旗を見れば」

 

元白軍将校は首を振る。

 

「旗は変えられる」

 

ユダヤ人実業家が帳簿を開いた。

 

「積荷は変えにくい」

 

ポーランド軍将校が振り返る。

 

「情報機関を作る気か」

 

「運賃表を作ります」

 

「今、船を見て国が分かると言ったぞ」

 

「商売では重要です」

 

「何を運んでいるかも?」

 

「価格に影響します」

 

元独立運動家が窓から身を乗り出す。

 

「向こうの船は機械だな」

 

現地代理人が答えた。

 

「農業機械です」

 

元ドイツ軍技術者が尋ねる。

 

「型式は」

 

「そこまでは」

 

「調べろ」

 

ポーランド軍将校が叫ぶ。

 

「やはり情報機関ではないか!」

 

イスタンブール事務所の最初の業務は、船を数えることだった。

 

黒海から出た船。

 

黒海へ入った船。

 

油。

 

穀物。

 

石炭。

 

木材。

 

工作機械。

 

自動車。

 

織物。

 

化学製品。

 

積荷が分からない場合は、船会社、通関業者、港湾労働者、保険会社の記録を突き合わせる。

 

ユダヤ人実業家は調査票を作った。

 

船名。

 

船籍。

 

出港地。

 

寄港地。

 

積荷分類。

 

数量。

 

運賃。

 

保険料。

 

遅延。

 

検査結果。

 

「多すぎる」

 

現地代理人が言った。

 

「全部埋めなくてよいです」

 

「空欄が増える」

 

「空欄も情報です」

 

ポーランド軍将校が聞いた。

 

「何が分かる」

 

「分からない貨物が増えたことが分かります」

 

「何の役に立つ」

 

元白軍将校が答えた。

 

「隠し始めたと分かる」

 

現地代理人が二人を交互に見た。

 

「商売の話では?」

 

ユダヤ人実業家は穏やかに答えた。

 

「商売です」

 

事務所へ、ソ連製の工作機械が持ち込まれた。

 

小型旋盤。

 

金属は厚い。

 

仕上げは粗い。

 

重い。

 

付属工具は少ない。

 

説明書はロシア語。

 

元ドイツ軍技術者は主軸を回した。

 

「悪くない」

 

ポーランド軍将校が驚いた。

 

「粗いぞ」

 

「外側は」

 

「中は」

 

「測る」

 

現地代理人が尋ねる。

 

「買うのですか」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「状態次第です」

 

「ソ連製ですよ」

 

元白軍将校が彼を見る。

 

「だから何だ」

 

「政治的に」

 

ポーランド軍将校が先に言った。

 

「政治的には面倒だ」

 

元ドイツ軍技術者は旋盤へ測定器を当てる。

 

「主軸精度は政治で変わらん」

 

「供給は止まる」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「交換部品も一緒に買います」

 

元独立運動家。

 

「二台買う」

 

「一台を部品取りにする気か」

 

「最初からそうする」

 

元ドイツ軍技術者が止めた。

 

「動く機械を最初から壊すな」

 

「壊れたら使う」

 

「なら予備部品を買え」

 

「売ってくれるか」

 

現地代理人が肩をすくめた。

 

「交渉します」

 

ポーランド軍将校がため息をついた。

 

「結局買うのか」

 

ユダヤ人実業家は価格表を見る。

 

「英国製中古旋盤の半額です」

 

「安いな」

 

「政治は精度へ影響しないのでは」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「価格へは影響する」

 

試運転。

 

旋盤は回った。

 

音は大きい。

 

振動も少しある。

 

だが荒加工には使える。

 

送り機構は単純。

 

部品が大きい。

 

現場で直しやすい。

 

元独立運動家が気に入った。

 

「よい」

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「何が」

 

「壊れても見える」

 

「歯車箱を開けたからだ」

 

「開けやすい」

 

「油が漏れている」

 

「場所も分かる」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「WILKと同じような評価をするな」

 

ユダヤ人実業家は購入条件へ項目を足した。

 

予備軸受。

 

歯車。

 

送りねじ。

 

工具。

 

説明書。

 

油。

 

現地代理人が尋ねる。

 

「説明書は読めるのですか」

 

元白軍将校が答えた。

 

「私が読む」

 

ポーランド軍将校が彼を見る。

 

「ロシア語ができるのか」

 

「できる」

 

「今まで言わなかったな」

 

「聞かれなかった」

 

ユダヤ人実業家が少し笑った。

 

「よくあることです」

 

油の試験は、イスタンブールではできなかった。

 

簡単な粘度確認はできる。

 

だが長時間運転。

 

低温。

 

高温。

 

腐食。

 

軸受との相性。

 

発動機工場へ送る前に、もう少し設備が必要だった。

 

元ドイツ軍技術者が言った。

 

「検査室を作る」

 

ポーランド軍将校が警戒した。

 

「また支社が工場になる」

 

ユダヤ人実業家は首を振る。

 

「イスタンブールには置きません」

 

「ではどこへ」

 

「イズミルかメルスィン」

 

「なぜ増える」

 

「港が違います」

 

「同じ国だ」

 

「同じ国でも、海が違います」

 

元独立運動家が地図を見る。

 

「イズミルならエーゲ海」

 

「メルスィンなら東地中海」

 

元白軍将校が言った。

 

「黒海側に全部置くな」

 

ポーランド軍将校は眉を寄せた。

 

「ソ連が攻めてくると?」

 

「攻めるかどうかは知らん」

 

「では」

 

「出口が一つしかない倉庫は、出口を倉庫へ変える」

 

一瞬、誰も意味を取れなかった。

 

元独立運動家が先に頷く。

 

「塞がれたら中身が出ない」

 

「最初からそう言え」

 

元白軍将校は窓の外の海峡を見た。

 

「最初からそう言った」

 

イズミルには商社を置いた。

 

綿花。

 

皮革。

 

油脂。

 

乾燥果物。

 

木材。

 

機械部品。

 

地中海航路。

 

小さな倉庫。

 

検品台。

 

秤。

 

水分計。

 

油の簡易試験器。

 

現地の織物商が共同出資者になった。

 

彼はユダヤ人実業家を見るなり言った。

 

「祖父から手紙を預かっている」

 

ポーランド軍将校が顔を上げた。

 

「またか」

 

共同出資者は古い封筒を出した。

 

封は切られている。

 

中には短い文。

 

港が変わっても、荷を捨てるな。

戻ってきた者へ、帳簿を見せよ。

 

ユダヤ人実業家は読んだ。

 

「いつのものです」

 

「戦争の頃だ」

 

「前の戦争か」

 

「この辺りでは、そう言わないと分からん」

 

元白軍将校が小さく笑った。

 

共同出資者は続けた。

 

「お前の家は、一度ここから荷を逃がした」

 

「どこへ」

 

「エジプト。少しはポルトガル」

 

ポーランド軍将校が驚いた。

 

「ポルトガルまで?」

 

「海はつながっている」

 

元独立運動家が頷く。

 

「道がある」

 

ユダヤ人実業家は手紙を畳んだ。

 

「帳簿は」

 

共同出資者は倉庫を指した。

 

「ある。利益は少ない」

 

「借金は」

 

「もっと少ない」

 

「従業員は」

 

「十二人」

 

「残します」

 

「まだ何も見ていないぞ」

 

「残した理由があります」

 

共同出資者は彼を見た。

 

「祖父より面倒だな」

 

「よく言われます」

 

メルスィンには倉庫だけを置く予定だった。

 

だが、港へ着くと話が変わった。

 

穀物。

 

綿花。

 

油脂。

 

木箱。

 

地中海沿岸から来る果物。

 

内陸へ向かう鉄道。

 

レヴァント方面の船。

 

現地倉庫会社は、冷蔵設備を欲しがっていた。

 

ユダヤ人実業家が設備表を見る。

 

「魚は」

 

「少ない」

 

「肉は」

 

「ある」

 

「果物は」

 

「多い」

 

「薬は」

 

「暑さで傷む」

 

元独立運動家が言った。

 

「冷蔵庫を入れる」

 

ポーランド軍将校が頭を抱える。

 

「航空資材調査所だ」

 

「油も温度で変わる」

 

元ドイツ軍技術者が真顔で言う。

 

「それは事実だ」

 

「味方をするな」

 

ユダヤ人実業家は計算した。

 

果物。

 

医薬品。

 

油脂。

 

航空用ゴム製品。

 

食品。

 

冷蔵設備の利用先は多い。

 

「小型設備から」

 

現地倉庫会社が言った。

 

「大型を」

 

「電力が足りません」

 

「増やす」

 

「誰が」

 

「共同出資で」

 

ポーランド軍将校が割り込む。

 

「支社を作りに来ただけだ!」

 

ユダヤ人実業家は静かに答えた。

 

「支社は稼がなければ残りません」

 

元白軍将校が港を見る。

 

「残らなければ、使えん」

 

結局、冷蔵倉庫計画が始まった。

 

また食品部門が航空事業へ侵入した。

 

三拠点の役割が決まった。

 

イスタンブール。

 

事務所。

 

銀行。

 

保険。

 

船会社。

 

海峡通過記録。

 

黒海方面の取引。

 

イズミル。

 

農産物。

 

油脂。

 

皮革。

 

綿花。

 

簡易検査。

 

エーゲ海航路。

 

メルスィン。

 

地中海側倉庫。

 

冷蔵。

 

医薬品。

 

燃料。

 

汎用工具。

 

南方への再発送。

 

ポーランド軍将校は一覧を見た。

 

「一つの支社ではない」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「登記は一つです」

 

「それは聞いた」

 

「では問題ありません」

 

「建物が三つある!」

 

「一つへ集めないためです」

 

元独立運動家が言った。

 

「港も三つある」

 

「数えるな」

 

備蓄品を決める会議。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「航空用特殊鋼」

 

ユダヤ人実業家が首を振る。

 

「大量には置きません」

 

「発動機部品」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「専用品は少量だけ」

 

「図面」

 

元独立運動家。

 

「置かない」

 

「なぜ」

 

元白軍将校が答えた。

 

「奪われる」

 

「トルコは友好国だ」

 

「今は」

 

ポーランド軍将校が嫌な顔をした。

 

「その言葉を使うな」

 

ユダヤ人実業家は備蓄表を書いた。

 

食料。

 

医薬品。

 

作業服。

 

毛布。

 

汎用工具。

 

自動車部品。

 

電線。

 

無線部品。

 

燃料。

 

潤滑油。

 

梱包材。

 

現地通貨。

 

身分証明書の写し。

 

ポーランド軍将校が最後を指した。

 

「なぜ身分証明書が資材表にある」

 

「資材表ではありません」

 

「同じ紙だ」

 

「倉庫へ置く物の一覧です」

 

「誰の写しだ」

 

「支社職員とその家族」

 

「家族まで?」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「支社が動けなくなった時、家族だけ残せません」

 

元白軍将校が静かに頷いた。

 

元ドイツ軍技術者は、燃料缶の規格へ目を落とした。

 

元独立運動家は、三つの港から出る船を地図へ書いた。

 

誰も、そこから先を口にしなかった。

 

ソ連製機械油の試験結果が出た。

 

粘度。

 

良好。

 

高温安定性。

 

一部問題。

 

低温。

 

英国製より劣る。

 

腐食。

 

問題なし。

 

研削盤向けには使用可能。

 

高速軸受には不適。

 

元ドイツ軍技術者が用途表を作った。

 

黒札。

 

高速精密軸受へ使用禁止。

 

白札。

 

一般工作機械用。

 

黄色札。

 

冬季は加温後使用。

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「油にまで色を付けるのか」

 

元独立運動家が答える。

 

「間違えるからだ」

 

「缶へ文字を書け」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「文字も書く」

 

「色だけに頼るな、だったな」

 

「覚えたか」

 

「毎回言われるからな!」

 

ユダヤ人実業家は購入契約へ条件を足した。

 

冬季使用制限。

 

用途限定。

 

品質ロット検査。

 

代替供給停止時の通知。

 

「ソ連側が全部認めるか」

 

現地代理人が尋ねた。

 

「認める範囲で買います」

 

「拒否されたら」

 

「ルーマニアから買います」

 

「ルーマニアも値上げしたら」

 

「英国へ戻します」

 

「運賃が上がったら」

 

「在庫を使います」

 

「在庫が減ったら」

 

「機械の運転優先順位を決めます」

 

ポーランド軍将校が言った。

 

「一つの油を買うだけで、どこまで考える」

 

ユダヤ人実業家は契約書を閉じた。

 

「止まってから考えるより短いです」

 

海峡の通過記録は、月ごとに増えた。

 

油槽船。

 

工作機械。

 

鉄道車両。

 

農業機械。

 

穀物。

 

木材。

 

鋼材。

 

化学設備。

 

無線機。

 

トラック。

 

船の数。

 

積荷の種類。

 

行き先。

 

どれも民間用途がある。

 

農業。

 

建設。

 

輸送。

 

工業化。

 

生活改善。

 

だが、同じ品物は別の用途にも使える。

 

動員。

 

兵站。

 

飛行場建設。

 

軍需生産。

 

車両化。

 

ユダヤ人実業家は表を重ねた。

 

一か月。

 

三か月。

 

半年。

 

黒海へ入る機械が増えている。

 

黒海から出る油と穀物も増えている。

 

イスタンブール事務所の現地代理人が言った。

 

「景気が戻っているのでしょう」

 

「そうかもしれません」

 

「よいことです」

 

「ええ」

 

「では、なぜ同じ表を何度も見るのです」

 

ユダヤ人実業家は答えなかった。

 

海峡の向こうを、一隻の貨物船が進んでいた。

 

ある夜、メルスィン倉庫へ一台の貨物車が来た。

 

荷は少ない。

 

家族が二組。

 

商人。

 

妻。

 

子供。

 

老人。

 

黒海側で店を畳んだ者たちだった。

 

正式な難民ではない。

 

旅行者。

 

移住者。

 

商用渡航。

 

書類上はそうなっている。

 

船便が翌日までない。

 

宿は満室。

 

倉庫の事務員が、冷蔵庫横の休憩室を開けた。

 

毛布。

 

食料。

 

湯。

 

子供へ果物。

 

老人へ薬。

 

翌朝、家族は別の船へ乗った。

 

行き先はアレクサンドリア。

 

ポーランド軍将校が報告を読んだ。

 

「支社の宿泊規定は」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「まだありません」

 

「アイスランドで作っただろう」

 

「北大西洋用です」

 

「人が泊まる点は同じだ」

 

元白軍将校が言った。

 

「なら同じにしろ」

 

元ドイツ軍技術者。

 

「気候が違う」

 

「寝台は同じでよい」

 

「換気は違う」

 

元独立運動家が言った。

 

「南方用を作る」

 

ポーランド軍将校が叫ぶ。

 

「宿泊規定を地域別に増やすな!」

 

ユダヤ人実業家は既に書き始めていた。

 

飲料水。

 

暑熱対策。

 

蚊帳。

 

医薬品。

 

船会社への連絡。

 

身元確認。

 

家族照合。

 

次便手配。

 

また一つ、商業支社の仕事が増えた。

 

春。

 

トルコ支社の帳簿には、三種類の数字が並んだ。

 

買った物。

 

売った物。

 

通過した物。

 

石油製品。

 

綿花。

 

油脂。

 

皮革。

 

機械。

 

食品。

 

医薬品。

 

人間は、まだ正式な項目ではない。

 

ただし休憩室利用者。

 

臨時食事。

 

船室手配。

 

医療費。

 

その数字だけが少しずつ増えていた。

 

ポーランド軍将校は支社全体の報告を見た。

 

「結局、何のための支社だ」

 

ユダヤ人実業家が答えた。

 

「南方調達です」

 

「冷蔵倉庫もある」

 

「食品を扱います」

 

「人も泊めている」

 

「船を待つ者です」

 

「海峡を通る船を数えている」

 

「運賃を調べます」

 

「ソ連製工作機械も買った」

 

「安かったので」

 

「全部別の仕事に見える」

 

元独立運動家が地図へ線を引く。

 

黒海。

 

イスタンブール。

 

イズミル。

 

メルスィン。

 

アレクサンドリア。

 

地中海。

 

ポルトガル。

 

「全部、道だ」

 

ポーランド軍将校は地図を見た。

 

「どこへ向かう」

 

元白軍将校が答えた。

 

「閉じていない方へ」

 

夜。

 

ユダヤ人実業家はイスタンブール事務所で、三つの港の在庫表を確認した。

 

イスタンブール。

 

書類。

 

口座。

 

連絡先。

 

小口の油。

 

イズミル。

 

綿花。

 

皮革。

 

油脂。

 

検査器具。

 

メルスィン。

 

食料。

 

医薬品。

 

燃料。

 

毛布。

 

冷蔵設備。

 

どこか一つが失われても、残り二つは動く。

 

三つとも失われても、契約の写しはノルウェーとポルトガルへ送られている。

 

現地代理人が尋ねた。

 

「そこまで分ける必要がありますか」

 

「あります」

 

「戦争になると?」

 

ユダヤ人実業家は帳簿から顔を上げた。

 

「戦争でなくても、港は閉じます」

 

「病気でも?」

 

「閉じます」

 

「政変でも?」

 

「閉じます」

 

「なら安全な場所は」

 

「ありません」

 

「それでも支社を作る」

 

「安全だから作るのではありません」

 

窓の外。

 

夜の海峡を、船の灯りが動いている。

 

黒海へ入る船。

 

地中海へ出る船。

 

どちらへ向かうかは、灯りだけでは分からない。

 

「別の方向へ出られるから作ります」

 

現地代理人は地図を見た。

 

「ここは出口ですか」

 

ユダヤ人実業家は少し考えた。

 

「出口にも、入口にもなります」

 

「危険ですね」

 

「ええ」

 

「では何を置くべきです」

 

ユダヤ人実業家は三つの在庫表を重ねた。

 

「失っても全体が死なない物だけです」

 

後年、トルコ支社は黒海・東地中海通商調査所として記録された。

 

主な取扱品。

 

油脂。

 

石油製品。

 

綿花。

 

皮革。

 

穀物。

 

工作機械。

 

食品。

 

医薬品。

 

その報告書には、海峡を通過した船舶数と貨物量が細かく残っている。

 

どの国が何を買い、

 

何を売り、

 

何を蓄え始めたか。

 

当時、それは景気回復と工業化の記録だった。

 

やがて、その数字は別の意味を持った。

 

工場が増えた。

 

車両が増えた。

 

燃料が増えた。

 

仕事が増えた。

 

そして、使い先も増えた。

 

WILKはトルコに支社を作った。

 

ソ連から物を買うためだった。

 

中東へ商品を売るためだった。

 

地中海へ貨物を逃がすためだった。

 

だが、最初から誰もそこを安全な場所とは呼ばなかった。

 

安全な場所ではないからこそ、

 

そこには三つの港が必要だった。

 

三つの倉庫が必要だった。

 

三つの出口が必要だった。

 

黒海の出口へ全部を置かなかったことで、

 

WILKは初めて、

 

南へ逃げる道を一つだけではなくした。

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読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

家出人、別名「歴史の観測者」(作者:未来で勘違い)(オリジナル歴史/冒険・バトル)

ただ自由を求めた旅人が無自覚に歴史の転換点を踏み抜き黒幕扱いされてしまう勘違いもの▼未来で評価考察され、過去と落差があるやつが好きです。


総合評価:8365/評価:8.78/完結:9話/更新日時:2026年06月21日(日) 09:02 小説情報

カードゲーム世界で考察配信したら、黒幕っぽくて楽しい(作者:マクロコスモス)(オリジナル現代/冒険・バトル)

カードゲーム世界で無名配信者をしていたヒカルは、ある時カードのイラストやフレーバーに関する考察配信をしてみることにした。▼転生者特有のメタ読みを活用した結果、見事にカードの裏に潜む悪の組織の意図に気付き、組織が壊滅。▼まるで黒幕のようだと、ヒカルは思う。▼そんな状況でヒカルは――喜んで配信を続けることにした。▼なぜなら彼は人の嫌がることが大好きな陰湿デッキ使…


総合評価:26527/評価:8.64/連載:15話/更新日時:2026年08月02日(日) 18:05 小説情報

地雷系彼女(マイ・フェア・レディ)(作者:あなたへのレクイエムです)(原作:HUNTER×HUNTER)

「ねえ! あなたの目を、私にちょうだい? 綺麗な瓶に入れて、毎日眺めたいの!」▼アンドー=ルモアが出会ったのは間違いなく地雷系の女の子だった。ウワーッ!?▼ヨークシンシティのオークションまであと10年。▼ネオン=ノストラードの"破裂"する運命は変えられるのか。▼※掲示板形式主体作品の検索利便性を考慮しタグを控えていますが、幕間の末尾などに…


総合評価:69269/評価:9.03/完結:60話/更新日時:2026年06月16日(火) 20:01 小説情報


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